ミドリの花

大箸銀葉

第1話

 目の前に色彩豊かな花々が蜜臭を風に乗せている五月七日の十四時が広がっています。内側が紫に塗られて外側は黄色いパンジーの花びらには紋白蝶が止まっています。綿毛と競争している蟷螂は一所懸命地を這って、沢山の蜜蜂が女王様の為にあくせくと働いています。その中の一匹は蜜花粉の売買が成立してご満悦な笑みを浮かべています。


 想像上では素晴らしい五月七日から排除されて一輪の花が寂しく淋しく咲いていました。彼女は遺伝子に異常があって花は濃い緑色をしていました。必死に首を伸ばして虫を誘おうとも葉と葉に埋もれてしまって気づかれません。ミドリはがっくりうなだれて蜂やら蝶やらを見送ることしか出来ませんでした。彼女はどうしても誰かの花粉を必要としていました。もしかしたら自分が生きていた意味を分かりやすくしたかったのかもしれません。


 太陽はミドリを照らしても月はミドリを照らしません。日が落ちて虫も葉も皆寝入ってもミドリはずっと起きていました。明日が来れば明後日が来ます。明後日が来れば明明後日が来るのでしょう。ミドリは見えない月が今どこにあるのかなと想像しながら必ず来る明日にビクビク怯えていました。そんなことを考えていると生暖かい風がサラサラとミドリの頭を揺らしました。ミドリは目の前がくらくらして闇の中に意識を落としてしまいました。ここはまだ人が来たことの無い場所です。そしてこれからも永遠に人が見ることの出来ない場所になるでしょう。


 五月八日の太陽がまずミドリを起こしました。それから皆が勝手に起きてきて思い思いに仕事を始めました。甘いにおいがたちまち辺りに充満してむせかえりそうになります。しかしながら蜂や蝶のような虫たちはこのにおいが大好きで花の蜜を吸おうと沢山やってきます。それから赤い花から橙色の花へと花粉を運んで旅をするのです。花々は花粉が無いと種が作れませんから蜜で運送業者へ報酬を支払っているのです。気づかれにくい格好をしたミドリもウンと首を伸ばして運送業者が花粉を持ってくる日を待ち続けます。太陽に直接顔を向けるのですから目をやられてしまう覚悟です。


 一匹の蜂がちょうどミドリのすぐ傍らに止まりました。黄色と黒の縞々が特徴的で他の蜂に比べると後ろ足が長い蜂でした。ミドリはこの蜂の名前を知らなかったのでなんて呼べば良いか分かりませんでした。彼女は随分遠くからやってきたようで疲れていた所に緑色の変な塊があるのを見つけて降りてきたのでした。

「ねえ、あなたは誰?変な格好をしているけど」

「私は花よ」

「花?葉っぱじゃ無くて花?私は多分あなたが想像も出来ないような遠くからこの地に来たけれどあなたのような花は一度も見たことが無いわ」

ブーンと羽を低い音で羽ばたかせて蜂は嘲笑しました。ミドリはムッとして

「きっとそれはあなたが気づかなかったのよ」

と言いました。

「そうかもしれない。けれどそれも無理ないと思うわ。だってあなた何も特徴無いじゃない」

ミドリは益々機嫌が悪くなってしまいましたがそれでも千載一遇のチャンスです。上手くいけば毎日夜に苦しまなくても済むでしょう

「ねえ。あなたの足についた黄色い粉をちょうだい。私の蜜をあなたにあげるから」

「ええ嫌よ。だってあなたの蜜苦々しそうだから」

足長蜂は攻撃的に言い放ってミドリを困らしてしまいました。ミドリは今にも泣き出しそうです。目に涙を貯めて蜂をじっと睨んでいます。蜂も怖くなってしまって

「でもあなたは他の花よりも凄い能力を持っているじゃない。だって花でも光合成できるのよ」

とそれだけ言い残してどこかへ飛び去ってしまいました。自分以外の男も女も知らないミドリは何だか嬉しくなって緑色の頬をほんの少しだけ赤くさせて喜びを表現しました。


 蝶は緑色の花には興味も示さずミドリの上を通り過ぎました。ミドリはいつもと同じ光景のはずなのに胸が苦しくなりませんでした。ピュウと風が吹いてミドリの葉を一枚飛ばしてしまいました。側を通りかかった葉切蟻が列を組んで葉を細切れにしてどこへ持ち去っていきました。小さい勇者達が賢明に頑張る姿をみてミドリは少し元気づけられました。でもそれは諦めに近い感情だったのかもしれませんでした。もう今となっては分かりません。


 少し時間が空いて五月二十五日になりました。その間にも色々なことがありました。ミドリは花畑の外が気になって想像してみることにした日が五月の五日でした。頭と手が三つずつある虫が飛んできて私の蜜を吸いに来てくれたらどんなに嬉しいことでしょう!それでもすぐにミドリは心を満足させることが出来ませんでした。ミドリは今まで誰かに蜜を吸ってもらったことがありません。だから蜜を吸われる感覚が分からないのです。五月十一日に茎が少し黄色くなっているのではとミドリは思いました。それは想像でも空想でも無く真実でした。ミドリはその日から下を向かないと決めました。もう自分自身を見ることは自分に何の得にもならないとミドリは思いました。

 

 さて、その日は朝から空が曇っていてミドリはゆっくり目が覚めました。起きても朝方みたいに暗い空でもこの時期に差し掛かったミドリは特にどうということも感じませんでした。

それから太陽がてっぺんを通り過ぎてまだまだ行ったころまだミドリは空を見上げていました。いつまでもいつまでも空を見続けていました。真っ白な空は今にも泣き出しそうで花畑に似合わない大粒の涙が降り注ぐのを楽しみにしているミドリの仲間は待ちわびた様子で身体を震わせていました。

その上を忙しく黄色と黒の縞々が通り過ぎます。涙が降り出しそうな日には虫は余り飛びません。羽を濡らすと重くなって地面に落ちてしまうからです。今日飛んでいる数少ない虫もすぐに葉っぱの下に逃げようとしているのか低く低く丁度ミドリの上空で静かに止まりました。

「あれはこの前の足が長い蜂さんかしら」

似た姿をしていますが別の蜂にも見えます。足が長い蜂が個性であればこの前と同じ蜂でしょう。でもあれが種性であれば違うかもしれません。声を掛けようかと思いましたが自分の姿が怖くなってしまってミドリはただ自由に飛び回る彼女を見つめていただけでした。

一瞬黒い影が西に見えました。ミドリの焦点に止まること無くそいつはグングン近づいてきます。

パッとミドリが蜂を見やるともうその姿はありませんでした。そこには真っ黒い鳥が一羽いて口から黄色い線を二本外に出していました。

「助けて!助けて!」

鳥の中から声が聞こえました。ミドリが大丈夫と声を掛けると蜂は嬉しそうに

「助けてくれるのね。よかった。あなたは誰?」

と口の中で必死に叫んでいました。

「私?私は花よ」

「花?花じゃ私を助けられないじゃない。誰か虫か鳥かそういう空を飛べる動物を連れてきてよ」

ミドリは何も言えませんでした。もう蜂も叫ぶことはありませんでした。



 六月になりました。ミドリはもうすることが無くなって下を向いていました。何もミドリはしゃべりません。何もミドリは考えません。雨がもう何日も続いています。細かい細かい雨です。ミドリの花びらと花びらの間に水が貯まっていきます。雨は水滴となってミドリの頭を押しつけます。それでもミドリは動きません。いえ既に動けなかったのでしょう。


 唐突にその時がやってきました。水の重さに絶えきれなくなってミドリの頭は身体を離れて地面に落ちま

した。痛みでミドリは意識を取り戻しました。地面と頬が繋がっています。ミドリは眠りました。ずっとずっと眠りました。雨がミドリを包んでくれました。


 次の日は珍しく太陽が顔をのぞかせました。ミドリは雨でグショグショとなってもう意識がありません。たらりと垂れたミドリの蜜が地面に注ぎ込まれました。葉切蟻がそれをみつけてミドリの頭を少し舐めてみました。それはとても甘く上品な味をしていました。これはしめたと思った葉切蟻は仲間を呼んでミドリの頭を持ち上げました。蜜が垂れないように、蜜が乾かないように注意しながら葉切蟻達はゆっくりゆっくりと日陰を通って巣に向かいました。

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ミドリの花 大箸銀葉 @ginnyo_ohashi

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