復讐

大箸銀葉

第1話

 一分一秒を急いで人が通り過ぎる。雑踏はその場その場で違った顔を孝に見せる。孝はそんな雑踏が好きでも有り、大嫌いでもあった。近くの喫茶店に入って雑踏を外から見つめる「傍観者」になって嘲笑した翌日には既に雑踏の顔に飲み込まれて都会の息苦しさを楽しんだ。

「人の眼は面白い。何が面白いかは私にも分からない。遠くから見る男の目に不思議な、神秘的な雰囲気を感じる事がある。しかし、外に出てその男とすれ違うと目から絶望が漂っている。」

喫茶店の奥でブツブツと独り言を発する孝の周りから客が減っていく。勿論恥ずかしくなって、いそいそと喫茶店を後にする寸前まで孝はそのことに気付かない。二軒目でも、三軒目でも店の売り上げに多大な影響を及ぼしながら、孝はフラフラと道に出て雑踏に紛れ込む。

孝はもう二年ほどこの生活を続けている。桜の花弁を踏む人の足。日陰を選んで歩き、僅かな木漏れ日を不快に思うだけの目つき。紅葉に立ち止まらずに、銀杏の刺激臭に木を避けて進み、鼻を覆う手。着飾ることも出来ない淋しい木に見せ付けるように防寒具に包まれた身体。いつでも孝の目には雑踏が奇怪な生き物にしか見えなかった。

誰かに理解される趣味とは到底思えないものの、とにかく孝には気を紛らわす必要があった。その訳で孝に大それた趣味も無いことは寧ろ好都合だった。


孝には妹が一人いた。名は香。美しい女で「将来は楊貴妃か、趙痩か」と小学校時代からもて囃されていた。そんな彼女も今年で二十になるはずだった。孝は妹を溺愛しており、それは今も変わらない。孝は今も毎日仏壇の前で泣きながら香の写真を撫でている。

香殺人事件の第一発見者が孝である。呆然として、事件発生後の数日間は記憶が殆ど無い。警察署で話をしていたはずが、いつの間にか署員に殴りかかろうとしたり、三日間飲まず食わずの状態でいる事が見つかって病院に担ぎ込まれたり、どうでも良い事ばかりを覚えている。

事件が起こる前の出来事は全て覚えている。偶々毎日五時に帰る孝が一時間早くキャンパスを出たことを後悔しない日はこの日以来一日も無い。家族の誰も持っていない革靴が玄関に得体の知れない不快(旅行先でその場の雰囲気に飲まれて買った置物をいざ自分の部屋に飾った時に現れる妙なミスマッチ感に似ていた)を放っていた。両親が帰るには時間が早すぎるから、女友達が遊びに来ていると孝は思った。香も高校生なのだから、家で友達と勉強したり遊んだりすることには孝も別段違和を感じなかった。居間で一息ついて、宿題になっていたレポートに取りかかろうかとノートパソコンを開いて、タイトル「日本の教育方法の改善点」と打った所でふと悪寒が孝を襲った。確かに多少秋も深まって冷え込んではいる。しかし、この恐怖は少しいけなかった。神経が研ぎ澄まされた状態となり、孝は(この家の中でなら分子と分子が擦れる音までも聞き逃すまい)と香の部屋に注意を向けた。

孝は今更ながら玄関の違和を読み取った。革靴は確かに男物ではあったが、どう考えても草臥れすぎている。家族のお下がりではないかと疑わない訳ではないが、俄に歩湾と恐怖が孝の心に押し寄せてくる。「まさか」と孝は香の部屋へ向かう。

その時、ドタバタと香の部屋で音がした。そして女の悲鳴が響き渡り、一つ「ドン」と鈍い音が聞こえると香の部屋は何も無かったように再び静寂に包まれた。孝は急いで階段を駆け上がり、香の部屋へノックもせずに転がり込んだ。四十は過ぎたであろうスーツを着た男と目が合った。側には額から血を流し、ぐったりと壁に寄りかかった香がいた。男は孝を睨むと、半狂乱の状態で孝に飛びかかった。孝も揉みくちゃになりながら必死に抵抗をした。一つでも間違った行動が死に直結する。孝も、恐らく男も同じ事を考えていた。

次の孝の記憶は白い天井である。

「孝。意識が戻ったの。良かった。本当に無事で。」

聞き覚えのある女の声が聞こえる。目をむけるとスーツを着た母が安堵した表情で孝の顔を覗き込んでいた。孝は自分の健康などはもうどうにでも良くていざ一大事が起きると人は文が短くなるのかと思った。とにかく大丈夫と明るく答えて起き上がった。医者らしき風貌の男が直ぐに駆け込んできて

「駄目だよ。安静にしてなきゃ。今は何とも無いかもしれないけど、何処かに後遺症がある可能性もある。とにかく、検査が終わるまでの一週間は入院してもらうよ。」

そうですかと朦朧とした意識の中で呟いた孝はそのままベッドに倒れ込んだ。六人用の大部屋にはカーテンが閉まったベッドは一つしか無く、他はどれも空であった。また意識が遠のく寸前で孝は隣を睨んだ。薄い緑色をした有り体のカーテンの下からくたくたになった革靴が孝を覗いていた。


 孝は見知らぬ男の前に座った。まず男は警察手帳を孝に見せる。(ああ、俺はこれから事件を話さなければ)と内心面倒な気持ちで取り調べに臨んだ。

「今回のことは・・・」

――御免、刑事さん。今回のことは俺自身、整理がついていないんだ。だから質問に答えるけれど、整合性がとれていないかもしれない。そんな時はもう一回問いただして欲しい。深層心理に迫る感じで。

「あ、ああ。はは私は何年も刑事やっているが、経験したことない忠告でね。戸惑ってしまったよ。申し訳ない。さて、事件の経緯について確認させて貰うね。」

――香が殺されました。それ以上も以下も俺には関係ありません。

「いや、君はそうかもしれないが、私どもはそうはいかない。聞きたい事は幾らでもある。勿論任意であるけどね。君が許す範囲で質問に答えてもらうよ。」

――それで何を聞きたいんだ。

「それでは香さんについてお尋ねするよ。被疑者である横光岳を聴取したときに、少し疑問が生じてね。彼は元々女子高校生に援助交際を申し込むことを趣味にしていたそうなんだ。犯罪的な趣味ではあるが、彼は更に一風変わっていてね。その時に現れる彼女らの目が堪らなく好きだそうだ。もはや病気だよ。だから今まで実際に行為に及んだ事は一度も無いそうだ。

 ところが、『今回は違った』と話している。援助交際を申し込んだときに直ぐに家に誘ったそうだ。家に入った瞬間に金をせがまれたと。金を払わないと性犯罪者に仕立て上げると脅されて、カッとなって突き飛ばし、鋏を香さんの額に振り下ろしたと供述したんだ。」

孝はその瞬間刑事に飛びついた。

――何だって。それでは香が援交しようとしていたのか。

「いや、だからそれを確認しようと。」

――そんな訳ない

「そうですか。分かりました。ありがとうございました。」

 そう言い終わると、孝は出口を促されて渋々警察署を後にした。帰り道も孝はひたすら香のことを考えていた。香が援交を受け入れたとは考えづらい。犯人、横光といった男が嘘を喚いたに違いない。孝は一種確信に満ちた表情で静まりかえった家の鍵を開けた。


 被告人横光岳の公判が始まった。孝も毎回公判がある度に傍聴席の一番前に座った。物的証拠は予め出揃っている。流石に無罪は無いと踏んでいるが、弁護人の抵抗が一々孝の腹にいる虫をゴロゴロと動かす。ムカムカとして弁護人を怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、最後の理性で孝は何とか止まることが出来た。弁護人も公判を追う毎に苦しくなっているようだった。どうやら国選ではない。ある程度の財力を孝はこの悪魔から感じた。

 裁判官はどうにも横光の性癖が理解できないらしい。幾度も横光に尋ね、横光が犯行に及んだ動機を明らかにしたいようだ。(そんな物分かって何になる)と悪態をつきながらもう幾度目になる公判を見守った。

弁護人も半ば諦めたように、情状酌量を申し出た。

「裁判長。確かに被告は罪を犯しました。被告人も認めております。しかし、彼は決して殺すつもりなどありませんでした。彼には妻子もいます。生活を全て捨てる度胸など彼は微塵も持っておりません。自分の本能のため、行き場の無い気持ちを発散したに過ぎないのです。

 そして、それを手玉に取った被害者に全くの責任は無いのでしょうか。不器用で純粋な被告を誘って金をせしめようとしたのです。

裁判長。被告に求刑の無期懲役は不当に重い罪で有ると考えます。情状酌量の余地を被告に与えられるようお願い申し上げます。」

「ふざけんじゃねぇ!」

孝は思わずそう叫んで立ち上がった。しまったと後悔してももう遅い。裁判長も他の裁判官と相談し、孝を退場処分とした。更に裁判官は期限がわ悪いのか。孝を今後、本件に関する全ての公判の傍聴席に座らせることを禁じた。孝はこうして香を殺した犯人が無期懲役2の実刑判決を言い渡されるまで裁判所に赴くことが出来なくなった。


 横光の刑が確定しても孝は特に気分が優れなかった。喫茶店に何日も入り浸り、精根尽きた毎日を過ごさざるを得なかった。働く気も全く起きずに就活も見事に失敗した。充実したあの頃が嘘のように暗い闇の毎日だ。憂鬱などと軽い表現すらこの時の孝には似つかわしくない。精神の病はやはり身体の病に直結するようで、一年に数回入退院を繰り返す。家族関係も孝を中心に崩壊し、十年以上のローンが残った家にはもう誰も住んでいない。

 事件から二年経って初めて父親からの連絡が孝の元に届いた。

「じっくり、話し合おう。これまでのことも、これからのことも。」

孝も渋々ながら元の家に戻った。既に両親は帰宅していて、暖かい夕食も用意されていた。

「孝。やり直そう。辛い気持ちは父さんもよく分かっている。それでも前に進まなければならない。父さんだって母さんと孝をいつまでも養えられない。何かあったら孝が母さんを支えるんだ。いつまでも過去に縛られてはいけない。」

「何だよ、それ。俺は香のことを忘れない。」

「そうじゃない。」

「そうに決まっている。俺は知らない。」

孝はそのまま家を飛び出すと、木枯らしを肩に切って一直線に走り出した。後ろで誰か男が何かを叫んでいるが内容までは聞き取れない。

孝は放浪の旅に出掛けた。初冬に旅立つ不安が心の半分ほど支配していたが、朝から夕まで図書館に、図書館が閉まってからは漫画喫茶に入り浸る。そのあらゆる知識を吸収し尽くした辺りで、また駅の雑踏に紛れ、新天地を目指して旅を続ける。

そのまま五年が過ぎた。幾度も幾度も雑踏を眺め、本を読み、眺め、読み、紛れ、読む。どれだけ人の心を求めようと努力を重ねても全て無駄に終わった。孝は何故不幸なのか、どうすれば幸福になるのか。

孝は当然すぎて忘れていた一つの事実を見つけ出す。毎日のように眺める雑踏を形成する一つ一つの顔がどれをとっても幸福そうに見えないのだ。生気を失った顔が足早に駆けていく。上司に怒られ、会社へ行く気も失せた者がいた。受験の緊張感が精神を蝕み、精神が崩壊する寸前の者もいた。孝は人間社会の息苦しさに驚愕を感じる。

(もしかして、社会には俺以上に苦しく辛い生活を送る人ばかりでは無いか)

孝の心に言葉にもならない真理を手にした感覚が突き抜ける。その感覚はハレー彗星のように尾ひれにくっついた羞恥を孝の心にばらまき、手の届かない場所へ過ぎ去っていった。

 

孝は恥ずかしながら飛び出した家に戻ってきた。

「孝。帰ってきたの。」

「そうか。やっと前に進む気になったのか。」

「うん。」

七年かけてやっと家族は元の家族に戻ったのである。孝も働く気になり、職を探し始めた。両親に諭されて大学を何とか卒業したことが功を奏した。図書館での知識を利用して私立の図書館に就職した。孝は憑きものがおちたように働いた。レファレンス(相談を受けて調べ物を手伝う係)で孝は非凡な才能を見せた。コンピュータを使用せずに本を集めきった孝には天職は誰にも有る物だと確信するのに十分だった。

 十年かけてようやく悲しい過去を孝は忘れかけた。勿論香の事は一生忘れない。苦しい自分の過去は色あせて思い出す頻度は少なくなっていった。家族関係も修復されてローンも完済した。孝は香の死を受け入れられないまでも、香のいない生活を受け入れた。

 毎週香の墓参りに家族で行く。家族が唯一揃う瞬間だ。孝はこの時だけを楽しみにして毎日の多忙な生活を幸福に過ごした。家に帰ると一通の手紙がポストに投函されていた。

「突然の手紙をお許しください。横光岳と申します。ここで気分を害されたのであれば文をお燃やしください。私は出所して二年になります。妻と離婚することもなく、一子も十になります。私はもうどんな謝罪の言葉を並べても許されることは無いでしょう。何より私自身が私を許すことが出来ません。

しかし、私が何も伝えないとすれば失礼と思われるかもしれません。私は私自身が救済されるためにこの文を認めます。私は一生罪を背負って生きていきます。伝わるか分かりませんが、本当に申し訳ございませんでした。」

孝は直ぐに職場の図書館に赴いた。血相を変えた目つきに同僚も驚いて

「どうしたんですか。孝さん。家族でも殺されましたか。」

と全く笑えもしない冗談を言っている。孝はそれには意も介さずに刑法について調べる。どうやら無期懲役と終身刑は異なるらしい。無期懲役刑は模範囚であると刑期が決まり、出所も出来るそうだ。孝は自分の無知を恥じた。そして忘れていた怒りがふつふつと湧き立つ。孝は図書館を後にした。背中に哀愁と覚悟を背負った様子で走り去る孝に同僚は不審に思わない訳でわないが、余りにも切羽詰まった孝の顔を引き留める勇気がある者は一人もいなかった。その後の一週間図書館にも家にも孝は姿を見せなかった。


 孝は心当たりが一つある。紛れ込んだ雑踏で雰囲気が横光に似た男とすれ違った事があった。その男はマスクをしていた為その時は他人の空似で済ませていたが、その男に間違いないと確信が持てた。

孝はホームセンターで万能ナイフ一本を購入し、すれ違った場が直ぐ見える近くの喫茶店に入り浸る。雑踏の一人一人を眺める。ポーが雑踏を見つめる目つきを真似して、孝も一人一人の過去を洗い出す視線を雑踏に投げかけた。不幸の中でも格別不幸な罪の過去をその目に宿す者はほぼ皆無だった。何日も何日も喫茶店に通い、見知らぬ人の過去を洗い出す事で孝は

「自分の天職は図書館ではなく探偵だったのだ。」

と思い上がった確信を胸に抱くことが幾度もあった。

 一週間が過ぎた。とうとう孝はそれらしき人物を雑踏の中に見た。男はマスクを着けたまま足早に歩いて行く。どこか無意識的に喫茶店内の孝を避けているようだった。

「こいつだ。」

夕焼けの薄暗がりの中、喫茶店から孝は飛び出す。どうやらまだ男は視界で捉えられる範疇にいるらしい。本当に自分が探偵になった気がして、浮き足だった孝は男の後をつけた。

 男は一軒家に入っていく。表札は掲げていなかい。覚悟は疾に決まっている孝はそのままチャイムを鳴らす。暫く立つと男が扉を開ける。マスクを着けたままだった。男は孝を見つけると後ずさり、部屋の奥に逃げ込む。

「待て。」

孝は男を追いかけて部屋に入る。男は齢十を数える少女を抱えて蹲っている。孝の怒りを抑える術は何も無い。男に向かってナイフを振り下ろそうとした瞬間、

「止めて!」

少女が叫んで孝の前に出る。

「こら!一美、何をしている。こちらに戻りなさい。」

男は引き留めるが少女は泣き出しそうな声を必死に抑えて殺人鬼へ歩みを進める。

「お父さんを殺さないで。よく分からないけどお父さん毎日大変なの。お仕事忙しいの。私が代わりに死ぬからお父さんを助けて。」

孝は容赦なく一美にナイフを振り下ろした。流れる血が一美の頬を伝う。俯せに倒れた一美が孝を我に返す。

 パニックを起こした孝はもう男にナイフを突き立てる気力など残っていない。孝は目的を果たさないままこの家を後にした。

「一美。一美。目を覚ましてくれ。父さんを置いていかないでくれ。一美が何をしたって言うんだ。俺が何をしたって言うんだ。」

と男の悲痛に満ちたうめき声のような叫び声のようなただ不可思議な声が部屋に響き渡っていた。


 久しぶりに帰ってきた孝を両親は手厚くもてなした。孝はその歓迎を受け、美味しい料理を食べ、熱い風呂に入り、首を吊った。

 


翌日、孝の部屋に入った母親が孝の遺体を見つけた。遺書は見付からなかった。

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復讐 大箸銀葉 @ginnyo_ohashi

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