第95話 航平、反射的に自己紹介をしてしまう。

 俺は春香とピースケと一緒に、ドッグランの敷地を歩いていく。


 ハッハッハッハ!


 ……あれ?

 しかし俺は、春香がピースケのリードをいつまでも握ったままであることに、すぐに気が付いた。


「なぁ、春香」

「どうしたの?」


「ここってリード無しで犬を遊ばせていいんだろ? なんでリードを握ったままなんだ? ピースケを自由にさせてやらないのか? リード無しで遊ばせるために来たんだよな?」


 俺の素朴な疑問に春香は、『あー、なるほど』みたいな顔をしてから言った。


「今は『慣れさせ散歩』をしてるの」

「ナレサセサンポ?」


 聞き慣れない言葉に、俺は小さく首を傾げた。


「ピースケもここに来るのは初めてだから、最初は環境に慣れさせてあげないといけないの」

「ああ、『慣れさせ』な」


「今日は他の利用者は少ないけど、それでも何匹かワンコもいるし、急に知らない場所で知らないワンコに出会ったら、興奮したりびっくりしちゃって、パニックになっちゃうかもしれないでしょ?」


「そういう意図か。なるほどな。ピースケのことちゃんと考えてやってて、春香はすごく優しいな」

「別にこれくらいは、犬の飼い主なら普通だし。おだてだって何も出ないんだかねー」


 とか言いながらも、優しいと言われて春香はとても嬉しそうだった。


「いやいや春香は優しいよ。優しさマシマシだよ。もはや優しさの女神だよ」

「えへへ、そーお~?」

「おうともよ」


 俺が全力でおだてると、春香がにへらーと相好を崩す。

 まるでチャームの魔法が宿っているかのような可愛い笑顔に、俺もニヤニヤが止まらない。


「ふふっ、ピースケのおかげで、こーへいに褒められちゃったし。ありがとね、ピースケ♪」


 キャウン!

 ブンブンブンブン!


 歩きながら春香に撫でてもらったピースケが、元気よく尻尾を振った。


 そんなやり取りもしながら、しばらくリード付きで『慣れさせ散歩』をしていると。


「こんにちは、お二人さん。可愛い柴犬ちゃんね」

 同じくドッグランを利用している、穏やかで品の良さそうなマダムから声をかけられた。


 俺には犬種まではわからないんだけど、もこもこの毛を綺麗にトリミングされた可愛らしい小型犬を連れている。

 ファッションや犬の手入れについてうとい俺でもすぐにわかるくらいに、身なりも含めてちょっとお金持ち感を覚えるマダムだった。


「こんにちは~」

「こんにちは」


 俺たちは揃って元気よく挨拶を返した。

 それを見たマダムが人の良さそうな優しい微笑みを浮かべる。


「お名前はなんていうのかしら」

「ええっと、広瀬航平です」


 名前を問われた俺は反射的に答えたんだけど、


「こーへい、今のは犬の名前を聞かれたんだよ」

「え? ああ、そういうことか」


 春香にちょいちょいと肘をつつかれながら、小声で言われてしまって、俺はすぐに己の失敗に気が付いた。


「もぅ、こーへいってばー」

「ぐぬぅ……」


 くそぅ、ちょっと恥ずかしい対応をしてしまったぞ。


 そりゃ俺も不思議に思ったんだよ。

 なんで見ず知らずのマダムから、いきなり名前を聞かれたんだろう、って。


 もしかしてうちの近所の人なのかなとか思ったりもしたんだけど。

 なるほそうか、ピースケの名前を聞かれていたのか。

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