降天直下

大箸銀葉

降天直下

 

 ほのかな甘い香りが充満する極楽世界には現世で善行を積んだ者なら男女問わず往生する資格がある。その代わりに現世で悪行を重ねた者は、幾ら一つの道に秀でていたとしてもこちらとは別の世界に往生する。真っ赤に燃える業火に身を投じられる男、極寒の冬山で氷の中に裸で漬けられた女。どちらも現世では有名なアーティストだったらしい。全く無縁の存在だ。


 それに引き替え極楽の素晴らしさは現世に住む全ての人を魅了する。赤や黄や青に塗られた花畑からは花弁が風に吹かれて舞い踊る。中には勢い余って空中に飛び出すのも決して少なくはない。極楽には腹が減る心配がない。地に落ちた花弁を一つまみ口に放ると、現世で飲んだワインの味が泥水に感じられる。睡眠をとる必要がない。今となっては昔、毎日寝ている男が極楽にいたが如来様に地獄へ叩き込まれた。あれから三百年は経過している。


 極楽世界の住人は暗黙の了解で哀れな人たちの為に毎日一度彼らの幸福を極楽から祈る習慣を持っていた。善行を自然と積める選ばれた人たちは往生後も堕落した生活を送らない。楽しいことは身の回りに幾らでも転がっているのだがそれをただ享受するだけでは彼らの願いに叶わないようだ。


 無限に広がる花畑の中心に大きな池があって蓮の花にはいつも如来様が極楽、現世、また苦しい世界を見下ろしている。池には如来様が願う通りに世界のありのままを映し出す。極楽にいながら人に迷惑をかける不届き者を。現世にいながら民を導いてより良い世界を果敢に目指す若者を。針山に足を突っ込みながら極楽を夢見る老人を。


 何もすることが無くなった極楽人は如来様のまわりに集まってお喋りを交わしたり、池に映る世界を見ながら新しい世界に胸をときめかせたりした。如来様は眠っているのか考え事をしているのか目を瞑ったまま池の表面を移し替えてゆく。雅な娯楽しかない退屈な世界に俗な世界はスパイスだ。いつしか池の周りは住人の集会上に姿を変えていた。

 

 現世では生まれて直ぐに亡くなった子供たちが蝶々と遊んでいる。五百年経って子供たちが立派な青年になった時、両親が子供たちと再会する確率は極めて低い。無邪気に男の子と女の子が走り回っている様子を大人たちはどうしても伏し目で見てしまう。一人の男が阿弥陀如来様。私はあまりにも可哀想で御座います。どうして子供たちの親を掬いだして頂けないのですかと訴えかける。しかし、如来様は何も話さず微笑を男に投げかけるのみである。すると男はそれこそが真理である気がしてすごすごと立ち去ってしまった。


 如来に恋した女もいる。現世ではどうしても阿弥陀如来の所へ行きたいと南無阿弥陀仏を一日一千回毎日唱え続けていた所を池から見つけた如来様が池に手を突っ込んで女を引っ張り上げたのだ。女は常に如来様の隣にいた。極楽世界の住人は彼女を鬱陶しいと目障りに感じないわけではないが、特に気に留めなかった。如来様が嫌になればまた地獄に叩き落とすかもと返って心配する者が殆どだった。


 極楽には楽しいことばかりと考えるが実はそうでもない。「極楽に娯楽なし」とは住人が当然過ぎて忘れている格言だった。極楽にいて「楽しい」と言葉を聞くのは「苦しい」と言葉を聞くことと同じくらい大変なことだ。紙やペンがないから文字を書くこともできない。生活を向上させる道具を作ろうにも花と土で何ができようか。夜が来ない極楽で如来様に月をせがんだ男は現世に叩き落とされた。何百年と経つうちにその男は住人に忘れられた。


 ある日三人の女が池に映った現世の戦争に大変興味を持った。彼女らはここへ来たときは一人で立ち上がることも出来ない年齢だった。極楽へ来た日が三十年ずつしか離れなかった幼い女子三人はまるで姉妹のように育てられた。一番年上の女の両親は鬼に今も追いかけられている。二人目の両親は二十回目の人間生活を現世で送っている。三人目の両親の行方は誰にもわからない。


 人が血を流す理由について三人は如来様に尋ねた。矢張り何も話さずに微笑を漏らすのみだった。私たち、現世にいって真理を探究してきます。どうか行かせてくださいと年上の女が如来様に頼んだ。それでも何も話されない如来様であったが心なしか俯いた顔には先ほどの微笑ではなく薄ら笑いを浮かべている


ようだった。池には今にも三つ子を生み落そうとする女が苦痛に顔を歪めて踏ん張っている。ドボンと音が三つ極楽に響きたった。



 

極楽に来たものは大抵二百年しないうちに池に身を投げるのが常だった。

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降天直下 大箸銀葉 @ginnyo_ohashi

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