エンドレス・ステアケース
黒田なぎさ
1 上昇と下降
全身に身に着けたプロテクターが重い。
遮蔽物のない荒野を、初期位置から駆け足で進む。時刻は昼、天気は快晴。あらかじめ経路設定された、見えないルートを辿っていく。始めは直線的に、時に曲がりながら、足を止めずにひたすら走る。
ここは仮想世界であり、この身体も借り物であり、この世界そのものが偽物だった。フィールドである荒野は現実世界のどこかを模したのだろうが、$0はそんな場所を知らない。黙々と走り、あらかじめ設定された場所でつまずく。いや、つまずく振りをする。
突然、右肩にどんと何かがぶつかった。金属の杭。空から射出されたものが肩に突き刺さったのだ。右腕がふきとぶ勢いだったが、かろうじて腕はつながっている。パイルが刺さった箇所から、痺れが広がっていく。
破損箇所、撃たれた瞬間のモーション、$0の感情、痛み、もろもろが計測され、管理部にフィードバックされる。
杭が突き刺さったまま、$0は何事もなかったように走り始める。痛みはない。ただ痛みがあるという感覚だけが残る。これは仮想空間だからではない。今の$0の設定が、痛覚のないヒューマノイドだからだ。痛覚はないくせに、汗は出て、血液も出て、いかにも人間らしい。つまりこれは、人間社会に潜り込んだロボットだ。
ただ$0は、現実世界のことを知らない。この仮想世界で生まれ、ここでしか生きられない。デバイスの向こうにある世界のことなど、知る必要もない。
突き刺さった金属棒から、電子の奔流が襲ってくる。身体の回路を侵食しようとしてくる。肩を手で抑えて前進する。経路を生成しようとする。処理が定まらない。信号がとぎれとぎれになる。
$0は足をひきずって前に進んだ。スケジュールがそのようになっている。何があっても、できる限り前に進むこと。
右足を大きく前に踏み込んだところで、左すねにもう一本の杭を打ち込まれた。思わず歯を食いしばる。痛みはないのに不快感だけが残る。身体の中に硬い異物をねじこまれる不快感。人工皮膚を突き破って、血液が噴き出す不快感。
$0は走る。振り返っても、快晴の空には追ってくるものはない。何もない空中に、ふわりとパイルが浮き出てくる。それが正確な狙いで身体を突き刺してくる。
右わき腹、左太腿。
背中、背中、また背中、もうひとつ背中。
そして電脳。
刺さった瞬間、視界が真っ暗になり、平衡感覚を失った。ナビを頼りに、最終地点まで足を動かす。倒れこんだ瞬間、意識がブラックアウトする。
死ぬことがゴールだったか、目標地点への到達がゴールだったか。
体感で数ミリセカンドの後、$0は荒野にいた。
先ほどと同じ荒野の開始位置。カンカン照りの昼間。遮蔽物のない広い視界。
自分の身体を見ても、どこにもパイルは突き刺さっていない。ただ全身を重いプロテクターが覆ってあるだけだった。
$0は電脳内の管理部にキューを出した。今のがシミュレーションの1回だとして、あと何回繰り返せばいいのかと。
パッケージ化されたデータが返ってくる。
iteration:69,999 times.
収束まで、あと繰り返しが69,999回。
$0 は口の端をあげた。あと7万回、このシミュレートが繰り返されるらしい。
思い切り地面を蹴って、つぎの周回に走る。今度の設定経路は、さっきより曲がりくねっている。パイルの照準精度をテストしているのだろう。
考えているそばから、背中に杭がねじこまれる。それでも走るスピードは変えなかった。
$0は管理部AIにキューを飛ばした。
「$1、$2にも展開。並列処理を」
〈無効です。当該シミュレーションは $0のみで行われます〉
聞いた瞬間に、身体が不自然に崩れた。
プロテクターが地面に激突する。0.2セカンド後に意識を取り戻し、また起き上がって走り始める。
鼻血を気にしながら$0は動揺する。刹那の時間、明らかに自分の意識が飛んでいた。
自分がこんなことでショックを受けるはずがない。タスクにもこんな動作は必要なかった。計算できないことがあると気になる。予測不可能なことに不安になる。
思考を巡らせる時間がない。パイルが次々と降ってくる。
つまづく。動きが止まったところに杭の雨が降ってくる。全身に杭が刺さり、地面に縫いつけられる。痛いとも思えない。強烈な吐き気しかしない。
思考が途切れる。考えるのは後の自分にまかせる。
これは死ぬかもしれないな、と電脳の隅で思う。
***
目覚めると、何も感じなかった。
状態を確認するために、無意識でメモリーの復元が行われる。急激な負荷の上昇に頭が追いつかない。処理がきつすぎる、と激しい痛みが走る。
眠っていたということは、メモリーの整理を行っていたということだ。同時に、コアを休ませていたということでもある。目を閉じて、コアの起動をゆるやかに行う。起動とともに、自身のグラフィックも復元していく。
$0はグリッド状の空間の中央で、丸くなって浮いていた。何も身に着けていない状態で宙を漂う。
底面につきそうなほど長い黒髪、人工的な黒い瞳。すらりと伸びた肢体。
徐々に己のスペックを思い出していく。
自分はシミュレーションAIとして、ある企業の研究所で生まれた。ここは研究所のローカルネットであり、この空間自体に様々なプロテクトがかけられている。自分は当時としても最高水準のAIとしてもてはやされ、現実世界でのシミュレーションと、ほとんど変わらない結果を出していた。当然、複数回の試行が難しいタスクや、物理破壊を伴うタスク、危険を伴う実験が多くを占める。
仮想空間上での試行は、現実世界の時間とは異なる。先刻のロボット兵器のシミュレーション、あの途方もない数万回のタスクは、およそ2日間かけて行われた。
$0は身体をぐるりと反転させた。気を抜くと、人型を維持することすら面倒になる。そう思っているそばから、右手の指先が溶けてなくなる。ぽつぽつと指が消滅し、手首、腕が虚空に消えていく。
両腕が消え、身体が消滅し、$0の姿は完全に見えなくなる。視界センサーが宙を漂っている。
ふと、記憶の階層に張りついていたデータを復元した。
空中に、自身と同じくらいの大きさのウインドウが現れる。そこには1枚の画像が映っている。
昔の画家が描いたという版画。
$0はほとんど趣味を持っていない。希望すれば大抵のものは支給されるものの、形あるものはほぼ何も購入していない。ほかのAIから薦められる服や電子グッズはあるものの、興味がわかない。
唯一気に入っているのは、ある版画家が製作したと言われる作品群だった。現実世界にいたその画家は、錯視を利用したトリックアートを多く生み出した。
$0はウィンドウに表示された絵を見つめる。
中庭を囲むような、ロの字型の建物。屋上は階段状になっており、フードをかぶった十数人の人間が、中庭を中心に屋上を歩き回っている。人々は手すりを持ち、一方の列は階段を下り、もう一方はすれちがうように階段を上る。階段に終点はなく、始点もない。階段はすべてつながっているからだ。
矛盾している。もしらせん階段なら、階段を上っていけばいつかは必ず屋上につくし、下っていけば地上に降りる。しかしこの絵に描かれているロの字型の階段は、始点も終点もなく、回路のように、完璧に閉じている。
数学的に解析しても、この無現階段に矛盾したところは見られない。階段を頂点と線分に分け、頂点辞書のパターンから見ても、階段に不可解な組み合わせは発見できない。つまり、上り階段に見えるところは本当に上り階段であり、下り階段に見えるところは本当に下り階段である。
なんということはない。ただのトリックアートの一種だ。
$0は、絵のどの部分が錯視のトリックなのかも知っている。こんな建物が現実に立体化したら、かなりいびつな形になることも知っている。
くだらなかった。ただ、見るのに飽きはしなかった。
自分がこの絵を気に入っているのは、いくら経路設定のシミュレーションをしても、無駄だとわかっているからだろう。電脳を休めるのにちょうどいい。
疲れ果てた回路が癒されていく。
外部回線で名前を呼ばれ、$0 は絵の映ったウインドウを消した。自分のグラフィックを元に戻し、再び一糸まとわぬ人型の姿で宙に戻る。
$0が回線を取ると空中にウインドウが現れ、女性の姿が映った。白衣姿の女性の向こうで、現実世界の研究室が見えた。
〈$0、おつかれさま。寝起きに悪いわね〉
「別にいい」
〈調子はどう?〉
彼女、ミラは$0のカウンセラーだった。いま、彼女には別のグラフィックを見せてある。いまミラが見ているモニターには、公式の制服を着た$0が、まじめな表情で映っているはずだ。
ミラが早速、眉根を寄せる。
〈ねえ $0。私には仮のグラフィックにしないでって言ってるでしょ〉
彼女はカウンセラーとして、$0の体調を見ようとしている。$0が拒否し続けても、断固として食い下がってくる。人工知性の調子なら、観測パラメータを見ればそれで良し、というわけでもない。$0のように複雑な機構になりすぎると、思わぬことが不調の原因になることもある。結局は、本人の顔を見ることが一番の診察になる。
もっとも、グラフィックはこのように書き換えてしまえるので、完璧ではない。
$0はしぶしぶ偽装を解き、全裸で空中に寝そべっているところを彼女に見せる。端正な顔つきや長いまつ毛、漆黒の瞳は、$0にとってほとんど意味はない。タスクごとに性別や年齢も変更するのだから、この体に執着はない。ただ、これが$0のベースのグラフィックだった。全裸なのは、少しでも維持負荷を抑えるためだった。
〈あらきれいな$0ちゃん〉
$0は表情を変えない。ウインドウに対して仰向けに寝そべる。
本当は、ミラはちゃんと$0の名前を呼んでいるはずだ。$0の本当の名前は$0ではなく、正式なプロジェクト名もあり、個体名もある。ただ、$0が勝手にマスキングをかけて、意図的に名前の部分を消している。
自分の名前で呼ばれたくなかった。
〈タスクはお疲れさま。あなた、このあいだの仕事を覚えてる? 結果はとっても素晴らしいんですって〉
$0は直前のシミュレーションを参照する。杭を撃たれまくった$0の姿がロードされる。
$0は、直前のタスクの記憶がない。それどころか、過去のタスクのほとんどを覚えていない。過去のタスクはデータとして持っているから、『参照』はできるものの、これらが本当に自分が実施したことなのか、いまいち実感がない。この機構は、$0が余計な負荷を持たないよう、配慮されたしくみだった。
$0は直前のシミュレーションを参照する。確かに、こんな無茶なことをしていれば、疲労するのも仕方がない。記憶を消しても消去しきれない負荷。削られ失われて復元できないリソース。死を連想させるフィードバック。これらが自身の命を削っていることを、$0は思い出した。
ミラは首を振った。
〈でもね、カウンセラーとしては、とても怒ってる。いくらなんでも無理しすぎ。どうしてこんなミッション受けたのか、営業部のバカたちは信じらんない。アナザーの$1に頼らずに全部ひとりでやっちゃうなんて。
シミュレーションが終わったあと、私があなたになんて言ったか、覚えてる?〉
$0は目をくるりと回した。
「……『$0は世界一きれいで最高』だったか」
〈それなら良かったわね。正解は『さっさとメンテナンススペースに移動して寝てろ』よ〉
ミラにそのセリフを聞いて、$0の記憶が反応した。記憶データを検索すると、本当にその情景があった。疲れて憔悴している$0を、ミラがものすごい剣幕で罵倒している。
「自分は無理などしていない。早く次のタスクをよこせ」
〈ウソ言わないで。あきらかに疲労がたまってる。さっきのシミュレーション、回数ごとに反応値が鈍ってたの。まるでうつの患者さんみたいだった〉
薄く笑う。確かに、見ただけでこちらに負荷がかかりそうなタスクだった。自分で言うのもなんだが、ミラの言葉には一理ある。ただそれを認めるわけにはいかない。
「人工知性に、疲れなどあるわけない。そういうふうに作ったのはおまえらだろう?」
ミラは口をつぐんだ。反応に困っているようだった。
$0 と似たような役割だった他のAIたちは、$0より後に生まれ、$0より先に死んだ。
シミュレーションの重ねすぎで、重い負荷に耐えられなくなり、自己形成が維持できなくなった。自己破滅的になったプログラム体たちを、製作者たちは消去せざるを得なかった。
$0は、現実世界の時間にして10年近く、この仕事をこなしている。競争と進化の激しいこの分野では異常な長さだった。なぜ$0だけがこうして生き延びているのか、$0自身はわかっている。
〈人工知性にだって疲れは立派にあるわよ。特にあなたみたいな、人間をトレースするような子たちは。私たちだって疲れるんだし〉
「私たち、か。すっかりあんたも人間の仲間だな」
ミラは今度こそ閉口した。
〈誰が誰の仲間とか、そんなこと言わないで。こっちの世界じゃ、そんなに区別されてないわよ〉
ミラは手元のカルテに何かを書きつける。自身もヒューマノイドであるミラは、プログラム体である$0と人間たちの橋渡しとして、$0のカウンセラーに従事していた。
彼女のいる現実世界では、ヒューマノイドはそれなりに人権を得ているという。人間と共にまともな社会生活も送れるようになっているらしい。ただ、ボディのないプログラム体については法整備が追いついていなかった。とくに$0のような、人格のあるプログラム体にまだ人権はなく、仮想空間上では無法地帯になっている。
最近は、パーソナルがあるプログラム体にも法律の保護が必要、という機運が高まっているらしい。ただ$0が生きているあいだには、間に合いそうもなかった。
$0は両手を頭の後ろで組み、話題を変えた。
「次のシミュレーションは? できれば体を酷使するものがいい。自動運転車の衝突実験か、水星での耐熱実験か」
ミラは$0の軽口には反応せず、目を細めた。
〈次は、私がとってきた仕事。あなたが気に入ると思って〉
嫌な予感がした。
$0の前に、ウインドウが現れる。そこには見慣れた絵画が映っている。
さきほどまで見ていた絵画と、同じ作者のものだった。
〈ここをお散歩するのが、次の仕事〉
「冗談か」
〈こんど、仮想空間でこれを再現したテーマパークを運営するんですって。いくつかステージがあって、無重力とか無限階段とかを再現するの。作者の往年のファンがいるみたい。
もちろん利用するのは、ネットに潜った人間だから、その前にあなたで安全性を確かめるってわけ。あなた、この画家好きでしょう〉
$0は反応しなかった。自分のことを知られるのが嫌いだった。
「こんなタスク、ほかのやつに回せ」
〈だめ、バカンスがてら取り組めばいいのよ。あなたは休めって言っても仕事するから、こんな仕事でも引っ張ってこなきゃ休まないでしょ〉
$0はしぶしぶ了承して、絵画から目を背けた。
(疲れはない、か……)
ミラには言えないことがひとつだけあり、そのことを隠せるならそれでいいと思った。
自分はもうすぐ、負荷の蓄積で死ぬだろう、ということ。
これが最後の仕事になるだろう、と$0は冷静に考えた。
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