第10話 浮気相手は同一人物?
▼1-6 第一話.探偵と象⑥
「髪は切ればいいし、色も落とすなり染め直すなりすればいいじゃん」
そりゃ、
「そうだけど……」
「急に趣味が変わりすぎてない? ばっさりショートカットだよ」
今度は
それに、もう一つ気になるのは、
「ランジェリーショップに行った
「朝帰りまではヒールの高い靴を履いてたんじゃないかな。それなら、目に見えて背が変わって見えるよ」
姉が二人いるのでその感覚は解った。上の姉は俺より頭半個分低いが、よそ行きのヒールを履くとほとんど同じ目線になる。女の人はあんなに爪先立ちになって平気なのか?常々疑問に思っていたが、今はそういう話ではない。
しばらく会っていない姉さんの顔を思い出し、やや思考のそれた俺が黙っている内に、雪音が訊いた。
「待って。靴で身長が変わるのは解るけど、TPOがおかしくない? 街に出てランジェリーショップに入るのに、それまでハイヒールを履いてた人がわざわざ平たい靴を履くのって変だよ」
なるほど。言われてみればおかしな話だ。おしゃれをしに行くのにおしゃれを怠る、そんなことがあるだろうか。
「服の趣味も変わっちゃってるし、やっぱり同じ人というのはどうなのかな。髪を切るだけなら失恋とか就職とかで心機一転、って話は聞くけど、服はまた別だと思うし」
続けて雪音に指摘され、しかし
「この女の人の変化には……なんて言うか、方向があるじゃん。
髪切って、靴を低くして、ゆったりした服着て……えっと、だから……あれだよ、ハゲワシみたいに……」
良い調子でしゃべっていた雨恵だったが、不意に適当な言葉が出なくなったか舌を迷わせる。
ハゲワシ。腐った肉の雑菌を毛に溜めないように、頭の毛がなくなっていった──雪音の解説を思い出しながら、思わず口を開いていた。
「つまり、だんだんとファッションより生活のしやすさを優先させていったってことか?」
「そうそう! そんな感じ!」
雨恵はオーバーなアクションで俺を指差した。彼女が前のめりになると緩めたリボンタイが揺れて目を引いてくる。大きく開いた襟元から、あわてて視線を外さなきゃならなかった。
雨恵がなにを言いたいのかまだ判らないが、正解だと言われて悪い気はしない。ついでに、昼のように眠たげでない、輝くような笑顔も悪くなかった。
雨恵の言う通りに考えると、浮気相手の同一人物説も納得できる気がしてくる。でもやはり、装いを変えた理由が判らない限り、断定はできないだろう。
「うーん……」
という声に振り向くと、雪音が腕組みして口元に拳を当てていた。ちょっと彫刻の「考える人」に似たポーズだ。
「悪くない仮定だと思うけど、最新の目撃情報はランジェリーショップでしょ。たしか、このあたりじゃけっこう高級なお店だし、その解釈と矛盾するような……」
ファッションを捨てる女性が高級下着は買わない……か? まぁ自分の服には全く頓着しない下の姉さんなんかは、スーパーの吊るし売りの下着しか買わないらしいし、そうなのかもしれない。よその家じゃどうだか知らないけど。
雨恵は妹の言葉にうなずき、机の上を歩いて俺の机に乗ってしゃがみ込んだ。妹と目線を合わせ、推論を続ける。
「別に、着ている物をグレードダウンさせようとしてたわけじゃないと思うよ。むしろ、ちゃんと自分に合った下着を仕立てる必要があったんだと思う」
今度は、肯定する意見も否定する意見も浮かんでこない。なんとなく雪音に目をやると彼女も同じような目の色をしていて、俺たちはそろって雨恵に視線を戻した。
「なんでそんなことが判るんだ?」
訊くと、雨恵は黒板に書かれた文字の列からなにかを引き出そうとするかのように目を細め、答えを口にした。
「きっと……この人はお母さんになる人なんだ」
お母さんになる……って。
「妊娠したってこと?」
我ながらバカ正直に確認する。雨恵は俺の机の上で体育座りになった。
「そう。だからお腹が大きくなる前に髪をさっぱりして、ゆったりした服やヒールのない靴を用意した。余裕を持って赤ちゃんを迎える準備をしたんだね」
「そうか。それで、服や靴と違って簡単に調達できない下着を専門店へ買いに行ったってこと?」
と、これはなにか思い当たったような顔の雪音だ。雨恵は満足げにうなずいて、俺を見た。
「ちょっと前、あたしたちの叔母さんが赤ちゃん産んでさ。お腹が膨らむだいぶ前から胸とか張って苦しかったって言ってたから。体に優しい下着は必要だったはずだよ」
それで姉妹ともにピンときたということか。
なるほど、そういうことなら別人のように格好が変わっていった理由は納得できる。とはいえ、
「辻褄は合うかもしれないけど、根拠は弱くないか?」
思い付いた答えに都合いいよう、どうとでも取れるパーツを絵図にはめている感がある。しかし、雨恵はまだ手札を残していた。
「根拠はあるよ。橋本さんが持ってたお守り」
お守り……
『ハンドバッグに目立つお守りが付いてたから、混み合っててもなんとか見失わずに済んだ。なんか変わったお守りだったな。「思」と「兄」が混じったような、見たことない漢字が縫ってあって』
という話だったか。
特徴と言えば変わった漢字くらいだが、目撃者の言葉だけじゃよく解らない。字の大まかなシルエットくらいは伝わってくるけど。
しかし、これにも雪音は覚えがあるようだった。衝動的にだろう、ぱんっと両手を合わせて言葉をこぼす。
「あっ……角なしの『鬼』の字っ」
「角なし……?」
「はい。『鬼』の一画目、一番上の点が打たれていない字です」
通常の「鬼」 角のない「鬼」※
雪音はわざわざ黒板に書いてくれた。なるほど、糸口先輩の友達が言っていた通り、字体にもよるだろうけどパッと見、「鬼」よりは「思」に見える字だ。
俺にはまだなんだか解らない。解らないが、姉妹とのやり取りでいろいろな事実の符合が姿を現していくことに胸が急く。
さっきまで、この教室の隅っこにはなにもないと思っていた。でも、ここで俺の話を聞いた雨恵には、俺に見えないものが見えているのかもしれない。
我知らず、勢い込んで尋ねていた。
「この字がなんなんだ?」
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※変換非対応。製品版は特殊文字で記載しております。
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