富豪探偵〈感染客船の密室殺人〉
土屋シン
その男、名探偵につき
速水祥太郎は稀代の資産家であり稀代の名探偵だ。名門速水グループは現代の財閥と呼ばれ、速水祥太郎自身もIT、医療など様々な分野で会社を興し巨万の富を築いている。また、探偵としては現代のホームズと呼ばれ、某高校生探偵の消えた今ではワイドショーを賑わすのは眠れる探偵と彼の二人であった。彼の財力と推理力の前ではどのような難事件も小学校の算数程度でしかない。
ある日、速水は豪華客船クイーンダイヤモンド号の客室で篭りきりであった。本来なら彼の朝は極上のアールグレイから始まるのだが、残念ながら現在はルームサービスが停止されている。というのも、一度はおさまりをみせた世界的感染症の罹患者が船内から出てしまったのだ。世界各地を回ってきたクイーンダイヤモンド号は急遽航程を切り上げ船籍を置く日本に寄港することになった。現在は横浜に入港することで調整を進めているが地元住民の反対もあり、交渉は難航中らしい。それにより船は太平洋にて停泊し客は客室待機、ルームサービスも停止された。船内では1日に3度換気を促す放送がながれ、食事もドアの前に置かれるだけになった。
「これではまるで刑務所だな。実に退屈だ」
速水が宿泊しているのは船内で最上等の専用客室だ。今回の乗船のためわざわざ改装させたその広さは通常のスイートルーム10倍はあり、調度品も速水好みのものを厳選している。リビングルームは一面が窓になっており、甲板と広大な水平線が一望できる。また、客室内には専用のジム設備があり、自由にトレーニングすることができた。
この船旅は速水にとって特別刺激的なものではなかったが、それでも彼が未だに下船していないのは真木凛子がいたからだ。彼女は一般客室の担当クルーである。以前、速水祥太郎専属の担当者について食事を運んできたときに速水がからかって遊んだところ実に反応が良かったので、彼はたびたび真木を呼びつけては不要な用を申し付けている。最近では速水があまりにも下らない用事で呼び出すものだから、真木はその度にまん丸の目を見開いたり、艶々としたショートカットを怒髪天の如く振り乱し怒り出すことになる。速水は彼女を見るたびに昔飼っていたハムスターを思い出す。驚くほど懐かないくせに、餌だけはしっかり要求する様が愛らしかったことを覚えている。
真木と打ち解けていくうちに彼女の父の経営する会社が感染症の影響で倒産していたことがわかった。そのため、彼女の給与のほとんどは実家への送金に消えているという。その話を聞いてから、速水は用を申し付ける時には必ず真木に小切手を握らせるようになった。彼は同情でその様なことをしたわけではない。「札束で人のほっぺたを叩くのは実に気持ちがいい」そう言いながら小切手を渡すと、真っ赤になり、完全に軽蔑した目で見つめてしぶしぶ「ありがとうございます」とおさめるので実にからかいがいがあるのだ。以前、他のクルーに同じことをしたら下びた笑みを浮かべ、頑として受け取らなかった。そのクルーが部屋を出る際に「惜しいことをした」というような表情をしたことはいうまでもない。速水はそうした己の欲を取り繕う人間が大嫌いであった。その点真木という女は侮蔑も恥辱も感謝も隠そうとしない。そういうところを速水は気に入っていた。
今日も退屈になりそうだから真木でもからかうかと考えていたところ通常の昼放送とは違う珍しい放送が流れた。
「ご乗船の皆様に本船の船長より緊急連絡です。先程、船内の一室で、お客様何者かに襲われる事件がございました。本来ならお客様さまをお守りすべき船内でこのような事件が起きてしまったことをお詫びいたします。本船は、怪我を追われたお客様をドクターヘリで搬送のち横浜港に緊急入港することになりました。お客様におかれましては横浜港到着まで客室に鍵をかけ、出ることの無いようお願いいたします。この度は、このような事件を許してしまったことを重ねてお詫びいたします」
速水はニヤリと笑うとフロントに専用回線で電話をかけた。無愛想な声で真木が応答した。あまりにも何度も呼び出すものだからもはやこの回線は真木しか取らない。
「客室には行きませんよ」
「話が早いな。ついでに何か軽食を持ってきてくれると助かる」
「聞いてましたか? 客室には行きませんと言ったんです」
真木は先程よりも語気が強い。決意は硬いようだ。
「君も頭が悪い。君にいくら渡したか、あの見栄だけは立派な私の専属クルーに言いつけたらどうなるかわかるだろうに」
「食事を持っていくだけですよ。クソ野郎」
「食事はサンドイッチ以外にしてくれ。手が汚れるのは嫌だ」
速水はそう言うと電話を切った。電話口ではまだ、真木が何か言っていたようだが気にも留めない。
空には雲の1つもなく、熱い日差し部屋を照りつける。速水は純金のカラーチップが付いた黒いシャツに黒いパンツと、夏とは思えない服装をしてキッチンで紅茶を入れていた。それもそのはず、空調は出力全開で部屋は少し寒いくらいになっている。
呼び鈴が鳴った。どうやら真木が来たようだ。逃げられては堪らないと速水はすかさず声をかける。
「入ってくれ。丁度、茶が入ったところだ」
「入りませんよ。こんな状況ですし。本来なら一人で出歩くのもダメなんですよ」
真木がぶすっとしているのが、扉越しにわかる。
「なるほど、今のところ殺人の容疑者とされているのは特定のクルーだけなのだな」
真木は大変驚いたようで、配膳ワゴンを壁にぶつけた音がした。
「船長は襲われたと言っていたからな。船内の医療施設での治療ではなくドクターヘリを要請してるあたり、かなりの重傷だろうな」
速水としては半分鎌掛けであったが、扉越しの反応からするとどうやら当たりなのだろう。
「今この状況で怪しまれず出歩くことができるのはスタッフだけだ。恐らく被害者は襲われて間もなく意識を失ったか、死んだのだろう。そのため犯人が分からず部屋に近づいたスタッフだけが怪しまれている」
速水はポケットから小切手を探り出す。
「この状況で犯人が分かっていないということは、何か特別な事情があるようだな」
速水はそう言いながら小切手にペンを走らせ、扉の隙間に差し込んだ
「概ねあたりですが、守秘義務があますので」
真木は小切手を突き返す。
「とりあえず、遺体発見時の状況と容疑者について話を聞きたい」
速水は小切手に0を増やして再び差し出す。
「私は何も知らないです。知っていても教えません」
「ならば、聞いて来てもらおうか。私はこの部屋から出られない」
速水がもう一桁増やして差し出すと、逡巡したようだが小切手は帰ってこなかった。
「今回だけですからね」と真木の声。
扉を開けると真木はおにぎりを持ってきていた。
「何なんですかこの部屋。めちゃくちゃ寒い」
現在、真木が知る情報によると事件は密室殺人らしい。殺されたのは角部屋の中等客室に泊まる中年の男性で心臓を一突きにされていたそうだ。客室の鍵はオートロックで窓の鍵も閉まっていた。部屋に入ったのは時田という空調の整備員だけだが、その時田についてはアリバイがある。空調の整備はまだ日の高いころに行われたが、その日の夕食は全て平らげられていた事を配食係が確認しているのだ。つまり、夕食の配られた19:00ごろまでは被害者の生存が確認されているということだ。
時田以外の容疑者として疑われたのは先の配膳係と同じく配膳係がもう一人。しかし、いずれも室内どころか扉にも触れてないないことが防犯カメラによって確認されている。
「私が知っているのはこれくらいです」
真木は手をひらひらとさせてもう何も無いとアピールする。
「流石にピースが足りないな」
速水は組んだ足を解くと紅茶に口をつけた。
「とりあえず、容疑者全員の話と被害者の部屋の状況、あと隣の部屋の乗客からも話を聞いて来てもらおうか」
速水がさも、子どものお使いのように告げるように言うものだから真木の眉間にシワがよる。
「嫌ですよ」
「なんだもう一枚必要なのか」
「行きますよ、聞きに行けばいいんでしょ。どうせ誰も話しませんけどね」
駄々っ子のように扱われた真木は流石に不機嫌そうだ。
「船長には御社の会長経由で話を繋いでおく。クルーの方はそれで大丈夫だろう。隣の乗客は何も話さないなら別に構わん。十中八九勝手に喋り出すとは思うがな」
船長はともかく隣の乗客が勝手に話すとは思えない真木は速水に抗議するが手で制される。どうやら会長に電話をかけるからさっさと出て行けとの合図らしい。配膳ワゴンを出すために真木が扉を開けていると、電話の内容が聞こえて来た。
「私が乗っている船だが、今すぐ御社の言い値で買い取ろう」
真木はどうやらとんでもない男に気に入られていることがわかった。
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