ローレンスの下宿人

アーカムのローマ人

 『アンク十字のアイコンを引っ提げてインターネットの荒海に乗り出した私が、古い怪奇小説のコミカライズを投稿サイトにそっと放ちながら最も親しく交流したのは、ローレンス・ピックマン・ハーヴィーという人物で、遠方ゆえに数度しか顔を合わせたことのない年上のいとこだった。自らラヴクラフトやダーレスらの系譜を継ぐ者と任ずるアマチュア作家の中でも、ほとんどプロになりかかっていたローレンスは彼らの中心人物の一人だった。先人の言うところの宇宙的恐怖とは何ぞやとあれこれ論じ合う私たちの輪の中に、それはこういうことだと言わんばかりの佳作を投げ込んでくる彼は我が肉親なのだと思うたび、私は誇りと嫉妬のない混ぜとなった感情が湧き出すのを感じた。彼が住んでいるのは数多くの怪奇作家が舞台としてきた街、他ならぬマサチューセッツ州アーカムだというのが更に私の想像力を刺激した。その街ではきっと夜空に輝く星の色や水道管を流れる水すらも特別に違いないと、幼い私は思いを巡らせた。

 その頃から私は夢を見るようになった。夢の中の私は今まで聞いたこともない奇妙な響きの言語で、ぼんやりとした虹色の泡の集積体を相手に話している。自分の口から出る言葉の正体すらわからないのに、なぜか私は会話の内容を理解しているのだ。不思議なことに、私がその夢をよく見るようになるのと連動してローレンスの執筆の速度が早まるようだった。

 ローレンスがSNSの書き込みを模した短編のファイルを送ってきたのは私が十八歳の時、憧れのミスカトニック大学への入学が決まった直後だった。人間の肉体に囚われた邪神の物語で、彼はオカルト小説の愛好家とオンラインで知り合うことによって、封印を解いて世界を支配する方法を手に入れようとしているのだった。邪神のネット上での振る舞いは明らかに私がモデルで、本人も付記で明言したあとに「もしよければ、挿絵を描いてはいただけないだろうか。共作として文学賞に応募したい」と慇懃に付け加えてあった。寝食も忘れて華麗な原文の視覚的イメージを写し出す作業に取り組んだ私が、いざ受賞作として発表された時にどれほど狂喜したことか。ついでに言えばこの時に折半した賞金はかなりのもので、貧乏学生の懐を後々まで潤わせた。

 そして私は念願通り由緒あるアーカムの大学に通うことになり、興奮気味にそのことを投稿してローレンスを含めた人々の祝福を受けた。ローレンスの母スーザンは、ハーヴィー家が百数十年にわたって所有する駒形切妻屋根の屋敷に私を住まわせると約束してくれた。入れ違いとなった私にとっては残念なことに、ローレンスはオーストラリアで新生活を始めていた。かくて私は寝室のみならず、百数十年にわたって蓄積された本で満たされた書斎のアクセス権を、伯母は家を出た息子に代わって家事をする姪を得たのだった。

 大学生活の中で起こったことは星の数ほどあるが、ここではほとんど省こう。ドイツ文学担当の教授が研究室で謎の惨死を遂げ、棺桶の中身がほとんど無かった事件は後世まで語り継がれるだろうが、全般的には非常に充実していたと言っていい。コミックを描き続けてはいたが商業化を目指すほどの頻度ではなく、それよりも学生演劇に夢中になっていた。我が演劇クラブの女優としては初めてシャイロックを演じ、短い幕間劇の台本を書いた。私が大学院に進学した年、ローレンスは職と配偶者を失ってメルボルンを去り、身近に残った唯一の存在と呼んでよいであろう猫を連れて実家に戻ってきた。

 日曜日だった。ボストンに遠出した帰りである友人の車がメイソン家の前に停まった時、私は数分前まで見ていた夢の名残の中にいた。例の虹色の球体が登場したが、そこは普段私たちが出会う、奇妙な歪みのある空間ではなく、覚醒世界で馴染みある我が下宿のダイニングのソファーだった。テーブルの上に一昨日から置いてあるチョコレートの大袋の配置まであまりに現実の居間と似通っていたので、実際に車から降りドアを開けて廊下を進み実際にその部屋に入った時、ソファーに座っていた男を見て私は息を呑んでしまった。彼は今まで膝の上で撫でていた猫から視線を上げて私を見た、というよりも私を透かしてその向こうにある何物かに瞳を向けながら立ち上がって近づいてきた。

「やあ、ナタリー。大きくなったね」

彼が差し出した手を、少し強く握り返しすぎてしまったように思われる。私はもう、彼を神の如き存在とは思っていなかった。大学三年生の時にある社会問題についての彼の意見がどうしても許せず、四日にわたってSNS上で激しく論争した時は特にそうだった。(今もってあのことを水に流す気にはなれないが、彼はその件に関して発言することはなくなった)しかし私の手に触れているほっそりした指が普段どんなに美しい言葉を打ち込むのかを考えると、なお心が震えるのだった。

 私が年下のいとことして形式的な挨拶を交わしていると、目を見張るほど美しい、ほっそりした金色の猫が軽やかにソファーからテーブルに飛び乗った。スーザンが買ってきたらしいケーキと、ナイフやまだ熱そうな紅茶がまだ置いてあったので止めようとして、私は写真でも、ローレンスの愛情深い声の入った動画でも知っている彼の名前を呼んだ。

「ランドルフ、降りて!危ないから」

予想通りのことながらランドルフは私の言うことなど聞かなかったので、ローレンスが代わりに彼を抱き下ろすと私に悪戯っぽい微笑みを向けた。

 それからの数年間の日々は、読書を愛する人間にとって至福だった。私たちは本を同じ書斎の違う本棚に置き、互いに自由に読めるようにしていた。私は詩や短編を書き始め、ローレンスは暇な時に添削してくれた。当時書いた詩の中でも比較的ローレンスの評価が良かったものは、


翠色グリーンの女主人の見せるき夢ゆへに、我は薄明のうちに目覚めていと甘やかなる嘆きせり

北極星ポラリスなる君が導く地にひて、我あへて語らるることなき秘儀を知る……


から始まり、


森の黒山羊は豊饒ほうじょうを恵み、かのまなこの妙なる色は我が目を惑はし、思ひの深き海より旧支配者の大司祭来たりて我ら二人を聖石の前で結びけり


で終わる、つまりは神話的祝婚歌であり、しかも明確なモデルがいた。

 クトゥルー神話を扱う作家の中でも抜きん出て成功していたサムことサマンサ・ヴェルディと私を引き合わせたのはまさにこのアーカムだった。車で一時間半ほど離れたプロヴィデンスから執筆の資料を求めて大学を訪れていた彼女は、自分を図書館まで案内した痩せぎすの院生が、前日の学生演劇の公演でマクベスを演じていたことに何かを見出したらしい。(私の死にっぷりはなかなか見事だったのではないかと思う。)そして夏のプロヴィデンスにその年最大の嵐が来た停電の夜に——数日前に訪れた墓地で見た、死後もなおサムとローレンスと私を含む無数の人々を禍々しき夢へと導いたあの紳士の墓石が脳裏をかすめる中——若者は女性への愛を知りそめたのだった。私のマクベス夫人、私のガートルード、私のヘレネー。

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