効果切れ

@me262

第1話

 ある時期に、全ての人類は同じ夢を見た。眠る時間帯は人によって異なるので同時ではなかったが、その時期に眠った者は必ず同じ内容の夢を見た。

「汝は許された」

 映像はなかった。低く、太く、穏やかな声がそのように言った。それだけだった。

しかし、眠りから覚めた人々は皆一様に自分が涙を流していることに気づいた。そして、かつてないほどの安堵感に包まれていることにも。

何故自分はこれほどまでに心安らかなのか、その理由は誰にもわからなかった。

 その後、世界中で怪現象が多発しはじめた。


 ニューヨーク発東京行きの五百人乗り旅客機は大パニックに陥っていた。

太平洋の中央で突如として高度の上げ下げと左右への蛇行を繰り返し、不安になった乗客の訴えで乗務員がコクピットを見に行くと、機長と副操縦士が子供のような奇声を上げて操縦桿や各種計器を出鱈目に動かしていたのだ。

 驚いた乗務員が何を言っても二人は全く意に介さず、まるで玩具を弄ぶように飛行機を滅茶苦茶に飛ばした。

 このままでは墜落する。

 しかし、その時旅客機全体を白い光が包み込んだ。すると旅客機は安定を取り戻して飛行を続け、コクピットの狂乱を無視して自動的に成田空港に着陸した。

 乗務員たちはただ唖然とするしかなかった。機長と副操縦士は病院に収容された。


 静寂の支配するワシントンDCの街並みを一台のセダンが走っていた。

道路に無数に散らばるごみを蹴散らしてセダンはホワイトハウスの正面ゲートにたどり着く。ゲートは無造作にも開け放たれており、セダンはそのまま中に入っていく。詰め所にいる警備のSPはぼんやりとした表情でそれを見送り、セキュリティも動作しない。

 一切の妨害なしにセダンはホワイトハウス玄関に到着して停まった。

 ドアを開けて一人の青年が降りる。

 ホワイトハウスの庭園にも至る所に様々なごみが散乱している。生ごみが腐敗臭を放っているので、それらは大分前から放置されたままらしい。青年は辺りを一通り眺め渡し、ため息を吐いて建物の中に入った。

 ホワイトハウス内も、ここが世界の中心だとは思えない程に荒廃していた。引き裂かれたカーテンや割れた窓ガラスの破片が散らばる廊下を足早に通り、青年は部屋の一つの前に立つと扉をノックした。

「入りたまえ」

 中からの声に従って扉を開けると、大きな樫造りのテーブルの脇で一人の男が椅子に座っていた。

「待っていたよ、博士。座りたまえ」

 男はテーブルの反対側にある椅子を指し示した。博士と呼ばれた青年は一礼してそこに腰掛けて言った。

「大統領、一連の怪現象に対する見解を私なりにまとめてきましたので、報告します。本当はもっと早く判明していたのですが、電話やインターネットといったあらゆる通信手段が遮断され、あらゆる交通機関も麻痺してしまったので、直接ここに来るしかありませんでした。しかし、ここは一月前と同じ場所だとは思えませんね。これほど荒れ果てているとは」

「君と会った直後に、周辺の住人たちが食料目当てに乱入してきてね。滅茶苦茶にされたよ。警備やスタッフの者も混じっていた。連中がここを占拠している間、私はまともな仲間達と一緒に地下のシェルターで縮こまっていたよ。ところが彼らも次々におかしくなってシェルター内を荒らしまわったので、私一人が大統領専用室に逃げ込んだ。略奪が終わった後で出てきたのだが、残ったのは調理室の冷蔵庫の奥に転がっていたオレンジジュースの瓶だけさ」

 大統領の前にはガラスのコップがあり、オレンジ色の液体が満たされていた。コップが一つだけしかないので、青年に与えるつもりはないらしい。

「それで、博士。悪いが君の口から用件を言ってくれないかね?一連の怪現象というやつだ。さっきから頭がぼうっとしてね。君と話したことをよく覚えていないんだ」

 その言葉を聴いた青年は唖然として大統領を見つめた。そして二回目のため息を吐いた。

とうとうここまで来てしまったのか……。

 青年は少しの間下を向いていたが、気を取り直して大統領と向き直り、口を開いた。

「一月ほど前、世界中の航空機が管制塔の指示を無視して滅茶苦茶な軌道、航路を取り始めました。しかし、あわや墜落する寸前に正体不明の白い光に包まれて無事目的地に着陸できました。ただしその後、機長や操縦士達は原因不明の奇病に冒されていることがわかりました。全ての知能知識を失い、言葉すらも喋れずに生まれたての赤ん坊のようになっていたのです」

「思い出した!航空機のみならず世界中の船舶、鉄道、自動車までが次々とコントロール不能に陥って大事故を起こす寸前に、不思議な白い光に包まれて安全に停止したんだ!そしてそれらの乗組員達の大半が幼児退行になっていた!私はその原因究明を君に依頼したんだ!三十代の若さでノーベル賞を三つも受賞した世界最高の頭脳を持つ君に!」

 大統領は青年を指差しながら大声で言ったが、その説明口調は青年に対してというよりも自分自身に言い聞かせるようである。

「大統領、時間がないので手短に説明します。私は患者たちを収容した病院の診断記録を全て集めました。この奇病は大脳皮質の脳細胞が極度に減少した結果、知能そのものを失うということがわかりました。大雑把に言えば馬鹿になるのです」

「アルツハイマーかね?」

「違います。アルツハイマーは神経系全体を衰えさせますが、この奇病は大脳皮質のみに起こっています。命に別状はありません。ただ馬鹿になるのです」

「馬鹿になる?もしかして私の周囲の者たちも馬鹿になって、あのような蛮行を行っているのかね?」

「そういうことです。この奇病は全世界に急速に広がっています。このままではそう遠くない日に全世界の人間が発病するでしょう」

「全世界の人間が?伝染性のウイルスなのか?」

「患者の血液やDNAを検査しましたが、ウイルスらしいものは見つかりませんでした。大統領、今まで私は便宜上奇病と言ってきましたが、正確に言えば、これは病気ではないのです」

「君の言っていることがよくわからない。もっとわかり易く教えてくれ」

 大統領はオレンジジュースの入ったコップにストローを差し、中身を吸い上げながらそう言った。

「病院での聞き取りによると、患者たちは完全に知能を失う前に、自分は許されたと言っていました。夢でそう言われたと。どうやら、その夢を見た者はしばらくして知能を失うらしいのです。実は先週、バチカンが自前のラジオ放送局を使って教皇のメッセージを発表しました。お聞きになりましたか?」

大統領はオレンジジュースを吸い上げながら首を横に振る。青年はそれを一瞥して話を続けた。

「我々は許された、と。教団関係者は今まで、神よ我らを許し給えと言ってきました。それが、我々は許された、と言ったのです。それで一連の事象が繋がりました。我々人類は神に許されてしまったのです」

「世界中で恐ろしい奇病が流行しているのに、人類は神に許されたのかね?ますますわからん」

「大統領、人類は何故、神に許されなくなってしまったか、ご存知ですよね?」

「えーと、忘れた」

「それは禁じられていた知恵の実を食べたからです。これによって人類は高い知能を得ることができましたが、神の命に背いたとして楽園を追放されました。しかし今、神は我々を許したのです。それはつまり、元凶である知恵の実の効果が失くなったということです」

「知恵の実の効果が失くなった?博士、本気で言っているのかね?」

「確かに突拍子も無い話ですが、残念ながらこれ以外に説明できません。太古の昔に人類の祖先が食した知恵の実のおかげで我々は高い知能と文明を築き上げることができましたが、知恵の実の効果は無限に続くわけではなかったのです。数千万年、あるいは数億年の期限があったのです。そして今、ついにその期限が切れてしまった。だから、我々は知能を失い、その代わりに神に許されたのです」

「……」

「神は夢を通じて各個人にそのことを伝えたのです。この奇病が、正確に言えば病気ではないというのは、そういうことです。むしろ、今までの人類が知恵の実の毒による病気にかかっていたのです。大統領、夢の中で神から許されましたか?」

 青年が大統領の方を見ると、彼は目の色を変えてオレンジジュースを吸い込むことに夢中になっていた。青年が何度も声をかけてももはや無反応だった。やはり、例の夢を見ていたのだ。青年は三回目のため息を吐いて、かつて大統領だった人間を置いてホワイトハウスから出た。


 セダンに戻り、ドアを開ける前に青年は空を見上げた。絵に描いたような雲ひとつない快晴だ。柔らかに輝く太陽を見ていると、その方向からいくつかの光が降りてくるのが認められた。白く光るそれは、やがて翼を持つ人の形を取り、地上に近づいていく。

 迎えが来たのだ。それが来るということは、ついに全人類の知恵の実の毒が消えたのだろう。おそらく自分が最後の知能の保有者だ。自分は頭が良すぎたのだろう。だから今まで知能を失わなかったのだ。だが、そんな自分でさえ、昨日例の夢を見た。ここに来たのは学者として最後の仕事を果たすためだ。

 天空の光が地上に降り立つまでに、自分は知能を保っていられるのだろうか。おそらく無理だ。先程から頭の中がぼんやりし始めているからだ。

 これから人類は楽園に迎えられるだろう。そこで平和に暮らしていくのだろう。一切の差別や貧困や戦争から開放されるのだろう。知能を持たない獣として。

 自分には耐えられない。子供の頃から天才として栄光の道を歩み、三度のノーベル賞をも受けた自分には、素っ裸で、何も考えずに言葉すら喋れない、その日暮らしの獣の生活は屈辱以外の何物でもない。それはもはや人間ではないのだ。

 青年はセダンに乗り込むと、ダッシュボードからリボルバーを取り出して銃口をこめかみに押し当て、四回目のため息と同時に引き金を引いた。

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