74.過去は過去として現在のこと

 修羅場が一つ過ぎ去った。過ぎてしまえば皆過去の残物である。徹夜明けの眩いオレンジの朝日も、珈琲の味が失せた缶の液体も、口の中でバリバリ噛み砕かれるビタミン剤も良い思い出となる。

 今まで一番の修羅場は何年も前のことで、あれは本当に辛かった、と当時を知る人と偶に思い出しては地獄の釜を間違ってオープンしてしまって、慌てて閉じにかかるような、そんな思い出である。精神衛生のために忘却力は養っておいても良い。

 まぁそんな「昔は辛かった」自慢を始めたら、老いたも同然なのでこれぐらいにしよう。残念ながら今後も、当時の記憶がエッセイに書かれることはない。多分書いている途中でストロングゼロを鼻から吸引するし、そこにライターの火を近づける。


 そういえば修羅場も過ぎたところで、ふと気になったので歯医者に行くことにした。

 コロナが始まってから全然行けていない、というか少し忌避していたのだが、もう色々吹っ切れた。職場では「絶対去年の上半期中に感染してるって」と皆で言っているような状態だし、実際自分が回った病院を眺めてみても、なかなかのラインナップだ。

 というわけで、引っ越して初めて歯医者に行った。入ってそうそうに出迎えたのは「全員ワクチン接種済みです」の看板。なるほどね、と思いながら初診の手続きをする。しばらく待っていると、中へと案内された。


 適当に予約したのだが、随分と綺麗な上に広い。

 ガラス張りの個室がいくつも並んでいて、奥の壁には水が流れている。なぜ水。そういうインテリアなのか。まぁでも歯医者には水が付き物だ。

 個室に案内された後に、簡単な問診を受ける。そして歯のレントゲン撮影を行い、正面からの歯の画像も撮られた。こういうの久々だなぁと思っていると、衛生士さんが「次は」と切り出した。


「歯型を取りますね」


 取るのか、歯型。ちょっとテンションが下がる。いや、歯医者に来た時点でちょっと下がっているのだが、それにしたって下がる。

 記憶に蘇るのは、歯列矯正を始めた時の歯型取りだ。ピンクの印象材をたっぷりと口の中に入れられて、呼吸をするのも辛かった。なのに「大丈夫ですか? 返事してください」と返事を要求した歯科衛生士はどうかしている。こっちはなんとか嗚咽をしないように頑張っているのだから、無駄に舌を動かすことを要求しないで欲しかった。

 あれやるのかぁ、と思っていたら、取り出されたのはピンクのベタベタではなくて、棒状の機械だった。それが口の中に入れられる。棒の先には長方形の窓みたいなものがついていて白く光っていた。


 これは、あれか。3D撮影か。

 この窓の部分で歯のデータを取得して3D映像を作るに違いない。

 思わず感心したら、うっかり棒を噛んでしまった。すみません、文明の利器に驚きました。


 数分で型取りは終わり、目の前のモニタには歯型の映像が映し出されていた。すごい。これはすごい。これまで数多の人を苦しめてきたピンクのベタベタによる嘔吐反射がなくなる。久々に技術の進歩に感動した。

 感動冷めやらぬ中、歯科医がレントゲンの写真をモニタに映し出した。


「虫歯はないですね」


 虫歯が出来にくいことは知っているので、それには驚かなかった。三才まで虫歯菌が入らないと虫歯になりにくいとか聞いたことがあるので、親に感謝である。


「今日は歯石の除去だけしましょう。あとオススメなのはホワイトニングで……」


 そんな説明を受けながら、椅子に横になり口を開く。

 歯石取りも結構血が出たりするんだよなー。歯茎の間にある石を除去するのだから当然だけど、あまり好きじゃない。そう思っている間に、歯科医は「チュイイイイイン」と音の鳴る何かを私の口の中に入れた。


「はい、終わりましたよ」


 え、終わり? 早くない?

 体を起こして、紙コップの中の水で口をすすぐ。血は出なかった。口の中はスッキリしている。歯石の量は多くなかったらしいが、だからといって出血しないほど歯茎の状態が特別良かったとも思えない。

 このあたりで鈍い私もようやく気が付いた。歯医者はかなり進化している。

 考えてみたら、口腔衛生が大事であることは遥か昔から語られているのになかなか浸透しないのは、もう純粋に歯医者が怖いからとしか言えない。しかし人間の歯のほうが変質することはまず期待出来ないので、歯医者のほうが進化するしかない。すごい。進化凄い。このまま「チュイイイイイイイン」の音も軽快なHIP-HOPみたいな音になってほしい。

 そう思いながら受付に行って、医療費を払う。あれだけやって三千円に満たない。保険凄い。歯医者も凄いけど保険も凄い。凄かったので次の予約も入れてしまった。


 修羅場の後だからか、なんだかいつもより万物に対する反応がプラス方向に働いている。修羅場中はマイナスなことしか考えなかったので、その反動だろうか。

 まぁ何にせよ、知識をアップデートすることも必要である。小説を書いた時に読んだ人から「なにこの歯医者の表現、古臭……」と思われることは避けたい。そう思いながら歯を磨く。次の診察では歯の着色を落とす予定である。

 

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