34.天使と悪魔が囁いている

 術後診察で、めでたく酒が解禁された。耐え忍ぶこと一ヶ月と少し。漸く喜びが戻ってきた。戻ってきたのは良いのだが、記念すべき一杯目をいつ飲もうか悩んでいる。折角なら良いものを飲みたい。

 この一ヶ月、いかに酒が飲みたくて堪らなかったことか。というかこのご時世、楽しみがそれぐらいしかないのである。休日の昼間に酒を飲み、ぐだぐだするのが嗜好だったのに、ここ数週間は漬物とか作ってた。不健全だ。あまりに酒が飲みたくて、某元メンバーの逮捕にすら憤りを覚えたぐらいである。


 立ち飲み屋でバイトをしていた頃、真夏の厨房はすぐに体感温度五十度を突破していた。当然、水分補給をしなければ死を迎えるのだが、客に見えないように飲まなければいけないと言われていた。最近は少し緩くなったらしいが、当時の飲食店では「店員が仕事中に水を飲むなんて」と大批判されていたのである。

 店の厨房は酷く狭かった。普通体型の大人二人が、体を横にしないとすれ違えないぐらいだった。そんなところで、客から見えないように水分補給をするには、素早くしゃがんで水を飲んで、急いで立ち上がるしかない。のろのろしていたら別の人に突き飛ばされる。


 素早く飲むには飲み口が大きい容器を使うのが良い。そして取手があれば安定して飲むことができる。あと、飲んでいない時はどこかに置いておく必要があるので、底がしっかりしている方がいい。

 結果として水を飲む時はジョッキを使うことになった。


 ドリンク担当になることが多い私は、彼らのために素早く水を作っては渡す係だった。因みに最初はスポーツ飲料を使っていたのだが、偶然それを見た客が「店員がジュースを飲むなんて」と発狂したので水になった。世の中の人は店員をなんだと思っているのか。


 客に見えないように回されたジョッキに水と氷を入れる。渡された相手はその場に蹲み込んで、素早く水を飲み干す。悪いことでもしているかのようだ。水を飲んでいるだけなのに。


 そんなある日のこと、本部のエリアマネージャが視察に訪れた。暑さに死にそうになって水を飲んでいる店員を見て「水を飲むな」とか言うので、全員イラっとした。ちゃんとしゃがんで飲んでいるのだから、それをわざわざ見るんじゃない。お前はトイレの個室を覗き込んで「きゃー痴漢」とか言うタイプか。


 エリアマネージャが水のことをあまりにグダグダ言うので、店長はひっそりと怒りを覚えたようだった。気付かれないように回されたジョッキに水を注ごうとすると、店長は何やら目配せをした。視線の先にあるものを見て、私は何もかも合点した。


 並々と注がれたジョッキを渡すと、店長はその場にしゃがんで中身を一気に煽った。汗だらけの顔に喜悦が浮かぶ。声には出さないが「これだよ、これ」と表情が語っていた。

 仕方がない。暑いから。

 暑いからソーダ水を入れようとして、間違って酎ハイ入れちゃっただけである。ただの事故だ。更に過ちを重ねて自分の分も作ってしまったが、全くの事故である。捨てるのも勿体無いから飲まないといけない。


 床にしゃがみ込み、ジョッキを傾ける。なんだか背徳感がある。多分、堂々と飲んで良いなら生まれなかった感情だ。ひび割れたコンクリの上には、焼き鳥の切れ端や萎びたキャベツなどが仲良く転がっている。それを見ながら飲む酒は美味かった。厨房の温度が高すぎるためアルコールなんて殆ど感じない。水分補給にプラスアルファぐらいのものだが、「今ここで酒を隠れて飲んでます」という状況が美味いのである。

 飲み干してから店長と目があったので、互いに共犯の笑みを浮かべた。エリアマネージャは酒を飲みながら「そもそも水分補給したいと思うってことは仕事を真面目にしていない証拠」とか、まだぐだぐだ言っていた。


 あれからX年。今はどうなっているか知らないが、せめて水ぐらいは気軽に飲める環境になっているといいな、と思う。そうでないと、あの犯罪感丸出しの水分補給しか出来なくなるからだ。

 背徳感で飲む酒は美味かった。禁酒中も何度その欲求に囚われたかわからない。「飲んじまえよ」とささやく悪魔と「良いのですよ、飲んで」と微笑む天使の狭間で悩んだが、どうにか耐え切った。やはり水分補給も酒も、堂々と飲むのが一番美味しいと思う。


※お客さんからごちそうして貰えれば烏龍茶でも酒でも堂々と飲めるが、そんな奇特な人は滅多に居ない

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