傍観令嬢は悪役になる

神無月もなか

第1話 《審判》は気付く

 もう二度と目覚めない、母の静かな寝顔を見て唐突に理解した。

 フェリシア・ブレーデフェルトは、選ぶ道によっては誰もいない孤独の道を辿ることになるのだと。

(……え?)

 周囲の音が遠くなったように感じる。

 悲しみに包まれた葬儀会場で、フェリシアは今まで自分が見ていた世界が一気にひっくり返ったような感覚に襲われて思わず片手で自分の口を覆った。

 心臓がどくどくと嫌な音をたて、頭の先から爪先まで急激に冷えていく感覚がする。

 花に満たされた棺の中で眠る、二度と目覚めることのない女性の安らかな顔を凝視した状態のまま、フェリシアは散らばりそうになる頭の中を必死に繋ぎ合わせていた。

(どういう、ことなの)

 頭の中で、つい先ほどまで知らなかった――これから先も知ることがなかったはずの情報がぐるぐると巡っている。

 否、知っているはずだが忘れていたという感覚に近いかもしれない。

 どちらにせよ、急に大量の情報を頭の中に直接叩き込まれたことには変わりない。

 口元を覆ったまま、息を吸って吐いてを繰り返し、そっと手を離したところでフェリシアは自分の手が見慣れたそれではないことに気付いた。

 傷やささくれ一つない、白くて綺麗な少女らしい華奢な手。

 自分の手はこんなに白くなかった。手荒れを気にして自分なりにケアをしていたけれど、こんなに綺麗ではなかった。これは一体誰の手だ?

 混乱するフェリシアの肩を誰かが叩き、はっとそちらへ目を向ける。

 背後にはいつからそこにいたのか、冷たく見える薄氷色の瞳をした男性が心配そうにこちらを見ていた。

「フェリシア、大丈夫か?」

 どこか冷たくも聞こえる、低く落ち着いた声。

 フェリシアは彼の目を、声をよく知っている。彼はよく遊んでいた乙女ゲームに登場するキャラクターの一人だ。

 同時に理解する。


(私……フェリシアになってる?)


 自分が、ゲームキャラクターの一人であるフェリシア・ブレーデフェルトになっているのだと。

 ゲームキャラクターになってしまうなんて、ありえない。だが、フェリシアは今、その普通ならありえないことを実際に体験している。

 理解が追いつかず、呆然としているフェリシアへ、気遣うような声がかけられる。

「……どうしてもつらいのなら、無理をしなくてもいいぞ」

「い、え。大丈夫です、……お父様」

 そこでようやく我に返り、フェリシアはなんとか返事をする。

 正直なことをいうと、全く大丈夫ではない。だが、自分の記憶にある『フェリシア・ブレーデフェルト』がそのことを素直に口に出すことを許さなかった。自分がよく知っている『フェリシア』は、何かあっても大丈夫だと口にして周囲を心配させまいとする少女だった。何故自分が『フェリシア』になっているのかはわからないが、『フェリシア』らしい振る舞いをしたほうがいいだろう。

 息を吸って、吐いて、軽く混乱する頭を落ち着かせてから改めて眠り続ける女性と向き直る。

 『フェリシア』というキャラクターには、母親がいない。フェリシアがまだ幼い頃に不治の病にかかり、最終的に病死している――そういう設定だったはずだ。つまり、これは命を落とした母の葬儀。『フェリシア』が母に別れを告げる瞬間だ。

 もう一度深呼吸をし、冷たくなった母の手に自分の手を軽くそえて、フェリシアはそっと小さな声で呟くように言葉を紡いだ。

「……おやすみなさいませ。お母様」

 わけのわからないまま、けれど母を慕っていた『フェリシア』らしく紡いだ声は、予想以上に震えていた。





 ――改めて、何があったのかを整理しよう。

 葬儀が終わり、母が眠る棺が土の下に埋められるのを見届けたあと。適当な理由をつけて、静かな公園に逃げてきたフェリシアは、深く息を吐きだした。

 葬儀が行われていた教会の近くにあったこの公園は、教会の関係者が管理しているのか綺麗に整えられている。芝生や木々は綺麗に整えられ、花壇には色とりどりの花が咲き誇っている。緑豊かな景色は見る者の心を落ち着かせる力があったが、フェリシアの心は全く落ち着いていなかった。

 目の前にある噴水の水面には、白に近い桜色の髪と氷のように冷たい薄氷色の瞳をした少女の顔が映っている。年齢はおそらく九歳程度。全体的に色素が薄く、浮かない顔をしているせいか儚そうに見える。

 彼女の顔を見つめながらそっと頬に手を当てれば、水面に映っている少女も同じように頬へ手を当てた。

 ああ、認めたくないけれど。これは、やはり。

「……フェリシアになってるんだ、私……」

 同じように唇を動かして呟く顔を見つめたまま、フェリシアは深い溜息をついた。

 フェリシア・ブレーデフェルトは、自分がよく遊んでいた乙女ゲーム「アルカナ・ラヴァーズ」に登場するライバル役のキャラクターだ。生まれは冬の月。いわゆるブレーデフェルト家の第三子として誕生した伯爵令嬢。上には将来家を継ぐことが決まっている兄がいる。父はブレーデフェルト伯爵として領地を治め、母は治らぬ病で帰らぬ人になった――そんな『設定』の少女だ。

 アルカナ・ラヴァーズには、他にも様々なライバルキャラクターがいる。その中で一番気に入っていたのがフェリシアだが、まさかフェリシア本人になってしまうなんて誰が予想できただろうか。

「好きだけど、だからってフェリシアになりたいわけではないのに……」

 深い溜息とともに、小さな声で呟く。

 だって自分はフェリシアのような、しっかりとした女の子ではない。彼女のように綺麗な髪の色でも目の色でもない。そんな自分がフェリシアになるなんて、そんなこと『フェリシア』に対して失礼だ。

 それに、名前だって――。

 そこまで考えて、気付いた。

「……あ、れ……名前……」


 『私』の名前って、なんだっけ?


 ぞわりと悪寒が走る。

 頭の片隅で、自分は『フェリシア・ブレーデフェルト』ではないとわかっている。では、自分は一体誰なのかと考えたとき、本来自分に与えられているはずの名前が思い出せない。思い出そうとしても、出てくるのはフェリシア・ブレーデフェルトという名前だけだ。

 フェリシアでいることを否定したら、自分が一体誰なのかわからなくなる。その不気味さと恐怖に身を震わせ、フェリシアは自分の身体を抱きしめた。

 一体自分の身に何が起きたのか、どうしてゲームのキャラクターになっているのか、わからないことだらけだ。

 はっきりわかっていることはただ一つ。フェリシアになってしまっている以上、フェリシアとして生きなくてはならないことだけだ。

(もしかしたら夢かもしれないし。夢から覚めるまでの間だけでも、『フェリシア』らしく振る舞わないといけないよね)

 自分に言い聞かせ、もう一度深呼吸をしてからフェリシアは改めて考える。

 『フェリシア』という少女がいるのなら、ここはアルカナ・ラヴァーズの主な舞台となるアルカルム国だろう。古くから魔法に馴染みがある国で、生まれつき魔力を持った子供には生まれたときに自分の運命を示すカードを渡す――そんな文化がある国だ。

 主人公を含む、ゲームの主要キャラクターはみんな魔力を持っているためこのカードを受け取っている。確か、『フェリシア』が受け取ったカードは《審判》のカードだったはずだ。今は手元にないが、部屋のどこかにはカードがしまってあることだろう。

(本当に『フェリシア』になってるのなら、ぼーっとしてるわけにはいかない。私は今、あの『フェリシア』なんだから)

 自分の両頬を軽く叩き、心の中で言い聞かせる。

 ゲームキャラクターとしての『フェリシア』は、ライバル役でありながらほとんどのルートでは何もしてこない。主人公や攻略対象たち、そして他のライバルキャラクターたちがすることを眺めているだけだ。

 その特殊な立ち位置から、アルカナ・ラヴァーズのファンからは傍観令嬢というあだ名をつけられていた。ほとんど何もしてこないライバルキャラクターというのは、アルカナ・ラヴァーズが発売されたばかりの頃は非常に珍しがられた。

 そんな『フェリシア』がライバル役として主人公の前に立ちふさがるのは、特定の攻略対象のルートに入ったときだ。そのときのフェリシアはあの手この手で主人公の邪魔をして、ライバル役として――いわゆる悪役令嬢としてふさわしい振る舞いをする。

 最終的には慕っていた攻略対象から手を離され、傍に親しい人が誰もいない孤独の道を歩むことになる。まるで、タロットが正位置から逆位置へと変化するように、彼女を取り巻く運命は悪い方向へと転がっていく。

(そして、そのきっかけになるのが――)


「フェリシア嬢、大丈夫ですか?」


 たった今、フェリシアに声をかけてきたこの少年だ。


 引きつりそうになる表情を必死で取り繕い、振り返る。

「ええ。大丈夫です。ご心配をおかけしてしまったようで申し訳ありません、リズレイ様」

 そういって、フェリシアは声をかけてきた少年に向かって深々と頭を下げた。

 シャロン・リズレイ。それが今、フェリシアに声をかけてきた少年の名前だ。

 アルカナ・ラヴァーズに登場する攻略対象の一人であり、『フェリシア・ブレーデフェルト』の運命が悪い方向へ傾く原因になる人物だ。古くからブレーデフェルト家と親交があるリズレイ家の第三子で、生まれたときに受け取ったカードは《月》。

 後ろで一つに結った銀髪と優しげなブルーグレーの瞳が特徴。ゲームのストーリーでは、今よりも成長した姿で登場する。今の年齢は、フェリシアの一つか二つ年上くらいだろう。

 ゲーム中では、フェリシアの婚約者として登場し、落ち着いた振る舞いと丁寧な言葉遣いで主人公に接する。まるで正統派王子様のような立ち振る舞いをするため、彼のことを王子様系のキャラクターだと思った人も多かった。

 しかし、それは彼が見せる一面であり表向きの姿でしかない。本来のシャロンの姿は、なかなか癖があるものだ。

 シャロンはブレーデフェルト家に恨みがある父に育てられた子供で、なんとかしてブレーデフェルト家を引きずり落とすことを命令されてフェリシアに近づいた。彼女の婚約者になったのも、フェリシアに対して優しく接していたのも、全ては父からの命令を遂行するためだった。

 命令を遂行するためなら、愛していないくせに誰かを愛しているふりができる。上辺だけの言葉と振る舞いで誰かを騙すことが平気でできる。シャロン・リズレイという少年は、そういう人間だ。

(ゲームを遊ぶただのプレイヤーだった頃は、他人事みたいな気持ちで見てたけど……今は、私が『フェリシア』なんだから他人事では済ませられない。それに、ゲームの『フェリシア』みたいな道は辿りたくない)

 ゲームのシナリオを優先するのなら、『フェリシア』らしく坂道を転がり落ちるべきなのだろう。しかし、今のフェリシアにとってこれはゲームではなく現実の世界だ。自分が最終的に苦しい思いをするとわかっていて、その道を自ら選ぶ理由はどこにもない。

 どうして『フェリシア』になってしまったのかはわからないが、どうせなら平和に過ごしたい。

 そのようなことを考えているフェリシアの前で、シャロンは安心したようにほっと息をついた。

 何も知らなければ、相手のことを心配している優しい少年に見えるのかもしれないが、シャロンの本当の姿を知っているフェリシアからするとその仕草さえも恐ろしく見えてくる。

 今すぐこの場から走って逃げ出したくなるのを堪えながら、フェリシアはシャロンへ問いかける。

「リズレイ様は何故ここへ? 葬儀も無事に終わりましたし、もうお帰りになられたものだと思っていたのですが」

「ブレーデフェルト夫人へ別れを告げるとき、ずいぶんとお辛そうにしていたのが気になって……ブレーデフェルト卿に居場所を聞いて会いに来ました。ああ、立ったままだとフェリシア嬢も疲れてしまいますね。どうぞこちらへ」

 途中ではっとした顔をし、シャロンは当然のようにフェリシアの手を取ってベンチへと誘導した。ハンカチを取り出し、ベンチの上へ敷いてからその上へ座るように促す。

 流れるような一連の動きに、内心表情を引きつらせながらフェリシアはそっとベンチに腰掛けた。シャロンも自然な動きでフェリシアの隣に座り、心配そうな顔でこちらを見る。

「本当に大丈夫ならいいのですが……。ブレーデフェルト夫人のお顔を見たとき、強いショックを受けているように見えました。無理をして大丈夫と口にしているわけではないんですよね?」

「はい。本当に大丈夫ですから。どうかご心配なく」

 ブレーデフェルト夫人――フェリシアにとって、母の顔を見たときといえば『フェリシア』になっていることに気付いたときだ。あのときは混乱し、動揺していたがタイミングがタイミングだっただけに、周りからすると母の死を改めて理解してショックを受けていたように見えていたようだ。

 軽く首を左右に振り、フェリシアは申し訳なさそうな笑みをシャロンへ向ける。

「あのときはお見苦しいものをお見せしてしまって申し訳ありません。……母は、もう帰ってこない。きちんと理解していたつもりだったのですが……覚悟が足りなかったようです。ですが、本当に大丈夫ですから」

 記憶にある『フェリシア』らしい言葉を口にする。

 シャロンは無言でこちらをじっと見つめていたが、シャロンは困ったように笑った。

「強がらなくてもいいんですよ。ここには僕とフェリシア嬢以外に人はいませんから」

「強がっているわけではなくて……本当に大丈夫ですから」

 もう一度首を左右に振り、大丈夫だと主張する。

 頑なにも見えるフェリシアの態度に、シャロンは心配そうな顔から真剣なものへと表情を変化させた。おもむろに手を伸ばし、膝の上で軽く握っていたフェリシアの手に自分の手を重ねる。

 突然のことに驚いて思わずシャロンの顔を見ると、シャロンはそんなフェリシアの目を真っ直ぐ見つめながら唇を動かした。

「フェリシア嬢」

 一言、名前を呼ばれる。

 たったそれだけで心臓が微かに跳ねるのは、自分が今『フェリシア・ブレーデフェルト』になっているからだろうか。

「……な、んでしょうか」

「……落ち着いてから改めていうつもりでしたが……今、いわせてください。僕は、あなたが強がらずに弱みを見せられる唯一の人になりたいと思っています。あなたが本来の姿でいれる、唯一の居場所に」

 ああ、これは。

「フェリシア嬢」

 もしかしなくても。

「あなたの傍にいれる権利を、僕にくれませんか」

 『フェリシア』が、シャロンのことを特別な存在だと扱うようになったきっかけの出来事か。

 シャロンは、『フェリシア』が弱っている瞬間に入り込み、彼女にとって大切な存在になったのか。

 すぅっとフェリシアの中で、何かが急速に冷えていく。心臓の鼓動は未だに早いが、それに伴い湧き上がってくるはずの恋情はどこにもなかった。

 あるのは、嫌な予感と冷えた気持ちだけ。

「……いえ。その場所を、リズレイ様に差し上げることはできません。リズレイ様の気持ちはとても嬉しいのですが」

 フェリシアは、はっきりとした口調で彼の告白を断ると重ねられた手をそっと解いた。

 断られるとは思っていなかったのだろう。シャロンは大きく目を見開き、ぽかんとした顔でこちらを見ていた。数秒遅れて、くしゃりと苦しそうに表情が歪められる。

「ごめんなさい」

 謝罪の言葉を告げ、フェリシアはシャロンへ軽く頭を下げた。

 対するシャロンは、軽く深呼吸をしてから唇を動かす。

「……何故でしょうか。僕はフェリシア嬢とずっと親交がありました。あなたのことをよく知っているし、家同士も古くから繋がりがある。あなたにとっても悪い話ではないはずでしょう?」

 確かに、ブレーデフェルト家とリズレイ家は古くから親交がある。そこに生まれたフェリシアとシャロンも何かあるたびに顔を合わせていたし、ずっと幼い頃から親しくしていた。

 だが、今のフェリシアはリズレイ家の中にブレーデフェルト家を恨んでいる者がいることを知っている。今目の前にいるシャロンだって、ブレーデフェルト家を今の地位から引きずり落とすために送り込まれてきた刺客のようなものだ。

 自らの家を揺らがせる原因になるとわかっている相手を、わざわざ招き入れてもメリットはない。

(それに、これはシャロンが私の傍にいても不自然じゃない状況を作るための申し出)

 特別な関係になってしまえば、シャロンがフェリシアの傍にいても周囲から不審がられることはない。むしろ、微笑ましそうな目で見られることだろう。それはつまり、シャロンに有利な状況を作り出すことに繋がる。

 シャロンは、最初からずっとフェリシアのことを愛していなかった。全ては父からの命令を達成するための手段。今のフェリシアはそれをよく知っている。

 そんな状態でシャロンの言葉に頷いて、彼の手をとっても虚しいだけだ。

 一回、二回、深呼吸をしてからフェリシアは目の前にいるシャロンの目を真っ直ぐ見つめる。

「確かに私とリズレイ様は昔から親交があります。大変親しくしていただいている自覚もあります。ですが、私はリズレイ様のことをそのような対象として見ていないのです」

「……僕は、ずっとあなたのことを特別な人だと見ていました。それを知っても、あなたの目線は変わりませんか?」

 嘘をつけ、と言いたくなるのを必死で飲み込む。ここで下手なことをいえば、シャロンに警戒されるのは目に見えている。

「はい。申し訳ありません、リズレイ様」

 そういって、こちらも申し訳なさそうに笑ってみせる。

 シャロンは一度苦しそうに表情を歪め、俯いたかと思うと切なそうな笑みを浮かべて再び顔をあげた。

「……では、友人から始めるのでは? もうすでに友人関係にあると僕は思っていますが、せめてそこから始めていただくことはできますか?」

 なるほど、そうきたか。口には出さず、フェリシアは心の中で呟く。

 やはりシャロンにとっても、フェリシアが弱っている今は絶好のチャンスなのだろう。そう簡単に逃がしてはくれないだろうと予想はできていたが、ここまで予想通りだと少しぞっとする。ここで拒絶すると、後々ぎくしゃくして余計に面倒なことになりそうな状況を作ってくるのも、絶対に逃さないという意思が滲んでいるようだ。

 表情が引きつりそうになるのを必死で抑え、フェリシアは小さく頷いた。

「そう、ですね……それくらいであれば」

 フェリシアがそう返事をした瞬間、シャロンはほっと安心したような顔をした。

 先ほどまでの苦しそうな表情から一変し、嬉しそうに笑って再びフェリシアの手をとった。

「ありがとうございます、フェリシア嬢。これからもよろしくお願いします」

「ええ。こちらこそ、友人としてよろしくお願いします」

 友人としてという一言を強調し、シャロンの手を握り返す。

 ようやく快い返事が返ってきたからか、たったそれだけのことでもシャロンは柔らかく表情を緩めた。

(でも、多分これも演技の一つ)

 そう思うだけで、目の前の彼が一気に恐ろしいものに見えてくる。

「ああ、でも……もしフェリシア嬢の気が変わったら、すぐに教えて下さいね?」

 ふわり。優しい笑顔とともに、シャロンは言う。

 そんな彼へ曖昧な笑みを返し、フェリシアはシャロンの手をそっと離した。

 完全に諦めてもらえたわけではなさそうだが、とりあえずは切り抜けられたはずだ。何か厄介なことが起きなければだが、当分は平和に過ごせる――はずだ。

 話が一段落したところで、フェリシアはいつも身につけている懐中時計を取り出して蓋を開けた。母の形見であるそれは、フェリシアが広場に来てからそれなりの時間が経過していることを示している。

 あまり遅くなっても父が心配するだろう――そう考えて、顔をあげてシャロンへ声をかける。

「リズレイ様、私はそろそろ戻らせてもらいます。それなりの時間が経っているようですから、そろそろ父が心配しているかもしれません」

「ああ、結構お話してしまいましたね……すみません。フェリシア嬢が戻るなら、僕もそろそろ戻ることにします」

 シャロンも同じように懐中時計で時刻を確認し、言葉を返す。

 なんとか自然な流れで解散できそうなことにほっとしていると、ああ、と何か思い出したように呟いてシャロンが言葉を続けた。

「そういえば、僕のことはリズレイではなくてシャロン、と。そちらのほうが友人らしさがありますし、リズレイでは僕を呼んでいるのか僕以外の誰かを呼んでいるかわからないじゃないですか」

 片手を自分の胸に当て、シャロンは優しく微笑む。

「え……いや、ですがリズレイ様」

「シャロンと」

「……リズレイ様」

「シャロンです」

「……」

 二回訂正され、フェリシアは思わず溜息をついた。

 目の前のシャロンは、穏やかな笑顔でフェリシアが折れるのを今か今かと待っている。ここで折れて彼の思うとおりになるのは悔しいが、折れないと話は終わらないだろう。今は返事を曖昧にする選択肢もあるが、彼がそれを選ばせてくれるとは思えない。

 じとーっとした目つきでシャロンを見てみるも、彼は笑顔を崩さないままだ。

(これは私が折れないと駄目そう。本当に悔しいけど)

 深く溜息をつき、フェリシアは口を開く。

「……では、シャロン様で」

「様付けも必要ありませんよ?」

「いいえ。ここは譲れません。リズレイ様と呼ぶのが駄目なら、シャロン様で」

 フェリシアの返事を聞いた瞬間。


 ふっ、と。


 シャロンの瞳に冷たさが混ざる。

 よく見ていないとわからないほどに小さな変化だったが、フェリシアの背筋を凍らせるには十分すぎる変化だった。

(……失敗した?)

 急激に全身から体温が失われ、指先からどんどん身体が冷えていく。心臓は嫌な音をたて、背筋を冷や汗が伝っていった。

 時間としてはほんの一瞬。だが、フェリシアはその瞬間に全ての時間が凍りついたように感じられた。

「……なら、仕方ありませんね」

 シャロンの瞳から冷たさがかき消える。

 先ほどまでと同じような暖かな色が戻り、フェリシアは心の中で安堵の溜息をついた。

「まだ少し壁を感じて寂しいですが……無理強いをしたくありませんしね」

 凍りついていた時間が動き出す。

 一瞬選択肢を間違えたかもしれないと思ったが、なんとかなったようだ。

「ありがとうございます、シャロン様」

「いえいえ。こちらこそ、僕のわがままを聞いてくれてありがとうございます」

 そういうシャロンの表情は穏やかで、一瞬冷たい目をしたのと同一人物とは思えない。

 あのときは本当に自分の選択を間違えたかと思った。まさかこんなところで、本当の彼に近い目をするとは思っていなかっただけに。

 結果的にはなんとかなったが、これからは少し気をつけたほうがいいのかもしれない。

(ゲームの『フェリシア』のようにはなりたくないけど……『フェリシア』と違う道を行くのは、思っているよりも大変なのかもしれない)

 ゲームどおりの『フェリシア』にならないということは、シャロンが命令を実行できないようにするということだ。それはつまり、シャロンの計画を妨害するということでもある。

 シャロンのことだ、フェリシアが自分の真の目的を知っていると気付いたら即座に何らかの行動を起こすだろう。友人のシャロンではなく、ブレーデフェルト家を陥れようとするリズレイ家の刺客として。

 故に、フェリシアはシャロンにそのことを気付かれずに、『フェリシア』とは違う道を行けるようにしなくてはならない。

(普通に考えたら、無理に近いけど……)

 それでも、自分は悪役にならず、傍観令嬢のままでいる道を選びたい。

 『フェリシア』と同じように暴走し、悪役令嬢になり、最終的には周囲に誰もいない孤独の道を辿るなんてまっぴらごめんだ。

「さて、と……では戻りましょうか。フェリシア嬢……いえ、フェリシア。お手を」

「え? あ、はい」

 片手を差し出され、彼の手の上に自分の手を重ねる。

 シャロンは少し嬉しそうに表情を緩め、フェリシアの手を優しく握りしめて来た道を戻り始めた。

 彼に手を引かれるようにして、フェリシアも同じように歩き出す。

(ああ、お手をってそういうこと……)

 静かに納得しながら、自分の前を歩くシャロンの背中を見つめる。

 やはり、彼は《月》にふさわしい。





 そのようなことがあった日の夜。

 とても静かに夕食をとり、自分の部屋に戻ってきたフェリシアは勢いよくベッドへ倒れ込んだ。

「……本当に、今日だけでいろんなことがあった……」

 いつのまにか自分がアルカナ・ラヴァーズに登場するフェリシアになっていて。

 しかも、よりにもよってフェリシアの母の葬儀の最中でそのことに気付いて。

 宿敵ともいえるシャロンには、上辺だけの告白のようなものをされて。

 本当に、キャパシティがオーバーしそうになるくらいには一度にたくさんのことが起きた。錯乱したり倒れたりせずに、フェリシアとして今日一日を過ごせたのは奇跡に近いだろう。

 寝返りをうち、うつ伏せから仰向けへ姿勢を変えながら思い出すのは、やはりシャロンの顔だ。

 夢か現実かはわからないが、フェリシアになった以上シャロンと関わるのは避けられない。場合によっては、シャロンだけでなく他のリズレイ家の面々と顔を合わせることもあるに違いない。

 つまり、今後も自分にとっての敵と顔を合わせる必要がある。

(平穏な日々を掴むためには、シャロンと他のリズレイ家の人たちに私がリズレイ家の目論見を知らないと思わせ続ける必要がある)

 でも、それはいつまで?

 『フェリシア』は隠し事や嘘をつくのが上手だったが、彼女の中に入り込んでフェリシアになった自分はそうではない。とっさに取り繕えても、嘘をつく時間が長くなればなるほどボロが出る可能性は高くなっていく。

 もし、途中でボロが出たら――考えるだけで寒気がする。

 溜息をつき、フェリシアはもう一度寝返りをうって身体を横向きにする。

「……そういえば、ゲームのほうではシャロンってどういうルートがあるんだっけ……」

 フェリシアになる前、一度プレイしたシャロンルートの大体の流れを思い出す。

 確か、ゲームではシャロンは最初から選択できる攻略対象だったはずだ。登場したばかりの頃はフェリシアの婚約者として振る舞うが、彼とのイベントをこなしていく中で主人公にどんどん惹かれていっていたはずだ。

 そして、最終的に父の命令に従うのではなく主人公とともに自分の意思で生きていきたいと願うようになる――記憶が間違いでなければ、そういったストーリーになっていたはず。

「……それだ!」

 大声で叫び、フェリシアは飛び起きる。

 そうだ、シャロンはゲームの主人公と出会って、彼女に惹かれることで父に従わない道を選ぶようになる。ゲームの主人公はシャロンにとってターニングポイントといえる存在のはずだ。

「シャロンがゲームの主人公を本当の意味で好きになれば、私は傍観令嬢のままでいられるはず……!」

 ゲームの主人公と出会い、彼女に惹かれればシャロンの興味もフェリシアからゲームの主人公へとそれていくに違いない。ゲームのストーリーと同じように、最終的にシャロンが主人公と生きる道を選んだらフェリシアは悪役令嬢にならず、平和に過ごせるはずだ。

「シャロンと良いお友達を続けながら、ゲームの主人公が現れるまでなんとか過ごす。ゲームの主人公が現れてからは、シャロンと主人公の仲を邪魔せずに応援する。この作戦だ!」

 リズレイ家によるブレーデフェルト家への作戦も、シャロンが放棄してしまえば実行するどころではなくなる可能性がある。もし、それでも強行してきそうだったら父に警戒するよう進言しよう。

 永遠にシャロンを騙し続けるのは不可能だが、この作戦ならある程度のところで一区切りがつく。シャロンがフェリシアへの興味を完全に失ったタイミングで、そっと彼の傍から離れれば変に追求されることもない。

 状況によっては作戦を変更しないといけない事態になるかもしれないが、今のところはこれが一番良い作戦だ。

 自分一人しかいない部屋で、フェリシアは晴れ晴れとした気持ちで一人頷く。

「あの……お嬢様、何やら大きな声がしましたが大丈夫ですか?」

「あ、ああ……ごめんなさい。なんでもないから大丈夫」

 そのタイミングで扉がノックされ、フェリシアは慌てて返事をした。

 姿勢を正し、髪を軽く整える。数分の短い間のあと、部屋の扉が開かれてティーカートとともに執事が姿を現した。

 先ほどのフェリシアの叫びを聞いていたからだろう、フェリシアを見る目はどこか心配そうだ。

「ナイトティーをお持ちしました……が、本当に大丈夫でしょうか? 具合が悪ければ、すぐにでもお休みになられたほうが……」

「本当に大丈夫。今日のナイトティーは何?」

 首を左右に振り、執事を安心させるために笑顔を浮かべてみせる。

 執事はまだ少し納得していなさそうな顔をしていたが、やがて小さく息をつき、少しだけ苦笑いを浮かべてナイトティーの準備を始めた。

 部屋に茶器の音と紅茶の香りが広がり、フェリシアは表情を緩める。

「本日はラベンダーティーをご用意しました。奥様のお顔を見たとき、ショックを受けていたようでしたので……リラックスできそうなものを、と思いまして」

 その言葉とともに、カップに注がれたラベンダーティーが差し出される。

 執事の言葉に苦笑いを浮かべながら、フェリシアは差し出されたラベンダーティーを受け取った。

「ありがとう。でも、私そんなにショックを受けてるように見えたのかしら……? シャロン様にも心配されたし……」

「普段のお嬢様は、何があってもめったに動じないお方ですから。リズレイ様のお子様も、普段のお嬢様のお姿をよく知っているからこそ心配になったのではないでしょうか」

 そっとラベンダーティーを一口飲み、考える。

 フェリシアは今のフェリシアになる前、どのような振る舞いをしていたのか思い出せない。しかし、ゲーム中の『フェリシア』と同じ振る舞いをしていたのなら、あのときの自分の反応は確かにいつもと違っていたかもしれない。

(確か、『フェリシア』はいつもクールな振る舞いをしていた。今日はそれらしく振る舞えたけど、今後も気をつけないと)

 今回はタイミングがタイミングだっただけにほとんど怪しまれずに済んだが、あまり回数が重なれば怪しまれる。それだけは避けなくてはならない。身体がフェリシアのもののためか、口調はある程度補正がかかってフェリシアらしくなるが、立ち振る舞いまではそうはいかない。

 心の中に今後気をつけるリストを作成し、フェリシアはもう一口ラベンダーティーを口に運ぶ。

「そう……なら、あんまり心配をさせてしまわないように気をつけないと、ね。心配させすぎてしまうのは本意ではないもの」

「ですが、だからといって無理はしないでくださいね。お嬢様は、昔から何かあっても我慢してしまうので心配です」

「ありがとう。無理はしないから安心して」

 そう返事をして、フェリシアは執事へ笑みを向ける。

 しかし、執事は安心した表情をせず、むしろ不安そうに表情を曇らせた。

 彼の反応に苦笑いを浮かべながら、フェリシアはすっかり空っぽになったカップを執事へと返した。

「ありがとう、美味しかったわ。やっぱりあなたが淹れるお茶はとても美味しいわ」

「お褒めいただきありがとうございます。……もうお休みになられますか?」

「そうね……今日はいろいろあって疲れたし、そろそろ寝ることにする」

 まだもう少し調べてみたいことや、考えたいことはある。

 しかし、疲れた頭や身体のまま行動に移しても有力な情報や良い結果は得られない。今日のところはゆっくり休んで、また明日から活動を再開するべきだ。

 ――それに。

(今、私が体験してるのがただの夢って可能性もあるし)

 もし、夢だった場合は一度眠ったらそこで一区切りがつき、夢から覚めるかもしれない。目覚めてもまだフェリシアになったままだったら、現実なのだと完全に受け入れられる。

(……明日から、積極的にシャロンも寄ってくるかもしれないし。英気を養っておかないと)

 なんせ、相手はゲームの『フェリシア』を騙しきり、絶望の底へ叩き込んだ人間だ。今のうちにしっかりと英気を養っておかなくては。

 執事はそんなことを考えているフェリシアに優しく毛布をかけ、優しく微笑みかけた。

「おやすみなさいませ、お嬢様。ゆっくりお休みください」

「ええ。いつもありがとう。おやすみなさい」

 フェリシアも笑顔を浮かべ、執事へ感謝の言葉と眠りの挨拶をする。

 直後、執事の手によって部屋の明かりが落とされ、部屋の中に静かな夜の空気が満ちる。

 執事がティーカートを押す音と、扉を開けて閉める音の直後、部屋の中には静寂が広がった。

 ふかふかとしたベッドの中で、フェリシアはゆっくりと目を閉じる。

 緩やかにまどろんでくる意識の中、今はもう聞けないはずのゲームのスタート音を聞いたような気がした。

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