上海蟹

つぎはぎ

上海蟹

 地球は後十七時間で消滅する。それが分かったのは四年ほど前のことだった。そこから世界は狂い、全ての人々が己の欲望のまま生き、世界の秩序というものは消え去った。


 ある一つの島を除いて。


 その島は地球の最後まで理性ある人間として生きていたいという人々が集合して穏やかな暮らしをしている島だった。


 その島は元々無人島だったが、ある一人の権力者とそれに付き従うものの手で一年ほどで街ができあがった。その街は今の科学技術から考えられないほど遡られた煉瓦や石垣、木材を中心とした街であり、ガスも水道も電気もあるがネットやテレビなんて便利なものはなく、家での娯楽というものは小説くらいだったが、その暮らしは地球消滅目前の中でも住人を穏やかなものにした。


 明日の午前五時に地球は消滅する。

 時刻は十九時三十分。

 

 そんな島に住む僕は人生最後の彼女とのデートとして、僕の家で夜ご飯の上海蟹を彼女と食べていた。蟹というものは往々にして美味しいものだが、何がどういう風に美味しいか説明はできない。ただ、僕も彼女も無言で食べてしまう。


 僕の方が先に食べ終わる。彼女は僕が食べ終わったことにも気がつかずに蟹を頬張っている。それほど蟹というものに魅力があるのだろう。そんな彼女を微笑ましい気持ちで見る。蟹は人を無言にさせるというが、僕にとってこの蟹による無言はとても心地よいものだった。きっとそれは彼女も同様だろう。


 僕は彼女が蟹を頬張っている姿を横目に冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、コップに注いでゆっくり飲んでいると、彼女のごちそうさまという声が聞こえ、僕と彼女は立ち上がり食器を持ってシンクに置く。


 彼女には僕が食器を洗うと伝え、僕は口笛でニュルンベルクのマイスタージンガーを演奏しながら食器を洗う。地球は後十時間ほどで消滅するのだが、地球消滅間近でも人間として生きていく。そんな気持ちで僕は皿洗いに没頭した。


 皿洗いを終えると彼女がお風呂を沸かしていたようで、先に入ってくると告げられたので、僕には暇な時間ができた。


 地球最後の日。まあ正確には明日がその日だが明日の早朝に地球は最後を迎えるので最後の日と言ってもよいだろう。


 僕はこの島に引っ越してきた日から今日までを思い出した。


 辛いことも数え切れないほどあったが、辛い思い出はこの島の住人と地球を見守る彼女のおかげで幸福な思い出ばかりが僕の頭には映し出された。


 僕が物思いにふけっていると彼女はお風呂から出たようで、僕は暑い湯に浸かり、心と体を温めた。


 僕は風呂から出て寝巻きに着替え髪を乾かし冷蔵庫漁り瓶の牛乳を一つ取り腰に手を当てて一気飲みする。彼女はそれをおっさん臭いと言いながらもにこやかな顔をした。


 僕も彼女も歯を磨き、一緒の布団に入った。

 今日の気温は暑いとも寒いとも決定できないようなものだったが、流石に一緒の布団に入ると熱を感じた。だがその熱は地球の消滅を心の片隅で恐れていた僕の心をゆっくりと宥めてくれた。


 僕と彼女は己の恐怖を相手になくしてもらおうと、二人で抱き合いその日を終えた。


 朝の四時。地球が消滅する一時間前、僕と彼女は抜け道を知っていないと出ることのできない海岸の崖に来ていた。


 話す内容はくだらない。きっと地球最後の日に話すことではないことだ。お互い読書が好きなので好きな本をお勧めしあっていた。お勧めしても相手に読む時間は残されていないのにもかかわらず。


 読書のことでたっぷり四十五分話し、時刻は朝の四時四十五分。読書の話題も終え、僕と彼女は地球消滅の恐怖に怯えながらも最後まで普通に過ごそうとにこやかに微笑み思い出話に花を咲かせていた。


 僕が腕時計を見るともう四時五十八分、後二分で地球は消滅する。


 最後に僕と彼女は唇を軽く触れさせ合い、最後はお互いの笑顔が見えるように唇を離し、一歩下がって距離を作り彼女と握手し、その瞬間白い光に世界は包まれた。


 地球消滅は一瞬という言葉で表現できるほど長い時間でない速さで訪れた。それは認識したが、僕は自分の体が消えていく感覚をまじまじと味わっていた。別に痛みはないが、ただ感覚が薄れていく。


 僕は最後まで彼女の方を見ていた。白い光に体のほとんどがつつまれ消滅させられていた彼女だったが、その顔はくっきりと見え、瞳に涙が溜まっているのもはっきりと瞳に捉えることができた。そしてそれに気がついた瞬間、僕にも涙が流れているのに気がついた。


 ただ涙を流しても僕と彼女は笑顔を忘れず、僕と彼女は手を握り合ったまま消滅していった。

 

 彼女の手の感触は、冥土の土産として十分すぎるものだった。


                             上海蟹『END』

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