第2話 親の言いなり
憂鬱な気持ちのまま帰宅した誠を、母の美奈子が出迎えた。
「お帰り、誠。あら、ユニフォーム泥だらけじゃない。塾までまだ少し時間あるし、すぐお風呂入っちゃったら?」
「うん」
そう言って、誠はすぐに風呂場へ向かった。
汚れたユニフォームを洗濯籠に放り込み、風呂場に入る。
鏡を覗き込むと、顔にも少し泥が付いていた。熱いシャワーで、汗と泥を洗い落とすと、疲れた身体にシャワーの熱さが染み渡った。
できれば浴槽にも浸かりたいが、七時には塾に行かなければならないため、あまりゆっくりはしていられない。
「はぁ……」
思わず、ため息が漏れた。
部活の後で疲れていたこともあるが、それだけではない。
東商への進学を父に断られてから、誠は毎日、どうすれば父を説得できるだろうかと、そればかり考えていた。
しかし、あの融通の利かない父が、自分の主張を曲げる事などあるだろうか。
誠が野球を始めたのは、小学三年生の時だった。
きっかけは、その年クラスメイトになった佑介に誘われたからだ。
もともと運動神経は良い方で、足も速かった事に加え、真面目で練習熱心だった誠は、めきめきと上達し、五年生でショートのレギュラーポジションを獲得した。
以来誠にとって、野球は何よりの楽しみだった。
平日の午後は、水曜日以外は塾に通わされていた誠は、その水曜の放課後も、大概野球をして遊んでいた。
相手が見つからなければ、一人で校舎の壁に向かって、日が暮れるまでボールを投げつけていた。
中学に上がっても、誠は一年生からサードのレギュラーに抜擢され、三年生の引退後は、ショートを任されるようになった。
少年野球とは違い、平日は毎日、場合によっては休日にも練習に駆り出されるする日々は、決して楽ではなかったが、辞めたいと思ったことは一度もなかった。
義秀は、勉強に関しては職業柄からか特に厳しく、テストなどは満点でない限りは褒められる事はまず無かった。
その甲斐あってか、誠の成績は小学校時代から常に上位だったし、クラスメイトや教師たちからも「井岡君は、頭がいい」と言われた事は少なくなかった。
そう言われること自体は素直に嬉しかったし、そしてそれが父の厳しさのおかげだと言う自覚もあった。
だが、どんなに良い成績を収めても、勉強が楽しいと思ったことは、一度もなかった。
父に言われるままに、勉強に打ち込む自分に疑問を感じるようになったのは、少年野球のチームメイトの言葉がきっかけだった。
六年生だったある日、野球の練習中に、グラブが破けてしまった事があった。
紐も何箇所か痛んでいて、今にもちぎれそうだった。
もともと、ホームセンターで買ってきた、安物のグラブだったということもあったのだろう。
家に帰った誠は、義秀に新しいグラブをねだった。
義秀は素っ気無く「それじゃあ、明日の帰りにでもまたホームセンターに寄って、買ってきてやろう」と言った。
だが、誠が欲しかったのは、ホームセンターで売っているような安物ではなく。プロ野球選手が使っているような、野球用品専門メーカーのグラブだった。
「そういうのじゃなくて、スポーツ用品店で売ってるやつが欲しいんだ」
「いくら位するんだ?」
「一万円、くらいかな……。もうちょっと、安いのもあるかもしれないけど」
「そんなにするのか? しかし、さすがにこいつをこれ以上使うのは無理だしな……。よし、買ってやる」
義秀は、使い古してぼろぼろになったグラブを、手にとって眺めながら、そう言った。
「本当? ありがとう!」
「但し」
はしゃぐ誠を制するような口調で、義秀は付け加えた。
「今度の塾のテストで、いい点が取れれば、の話だ。それが出来なかったら、ホームセンターの物で、我慢しなさい」
「うん、わかった」
一瞬気落ちはしたが、誠は俄然やる気になった。
そして入念に予習をし、義秀が納得するだけの点数を取った。
「よく頑張ったな、誠。それじゃあ約束通り、グローブを買いに行こう」
返却されたテストの答案を見ながら、義秀は満足そうな笑みを浮かべ、誠の頭を撫でた。
そして誠は、憧れの野球用品専門メーカーのグラブを買って貰った。
それまで使っていた、安物のグラブにはない本革の香りに胸を躍らせた事を、今も鮮明に覚えている。
そのグラブを、初めて少年野球の練習で使った日、チームメイトの川西弘之が、誠がグラブを新調した事に気づいた。
「お前、グローブ買い換えたんだ」
「うん。塾のテストでいい点とったら買って貰うって、お父さんと約束してたんだ」
誠がそう言うと、弘之は、嘲るように言った。
「なんだよそれ、お前、親の言いなりじゃん」
「えっ?」
確かに誠は、義秀に逆らう事は殆どなかった。
というより出来なかった。
ほんの小さな頃は、たまに反論したこともあったが、すぐに言いくるめられてしまうし、何度も口答えをすると、義秀はすぐに怒って声を荒げるのだ。
そういう事を繰り返すうちに、確かに誠は義秀に対して、言いなりと言っていいほど、従順になっていた。
だがそれまで、自分と父のそういった関係にさほど大きな疑問を持つことは無かった。
子供は親の言う事をなんでも聞くのが、当たり前だと思っていたし、学校へ上がってからも、お父さんやお母さん、先生の言うことをよく聞く子が〝いい子〟であり、将来はそういう子供だけが、立派な大人になれるのだと教わってきた。
どこの家でも、それは同じなのだと思っていた。
「おまえさ、そうやって親にエサで釣られて何とも思わないのかよ。超だっせぇ」
何も言い返せなかった。確かにそうかもしれない。
義秀は、誠が欲しがっていたからではなく、誠の成績を上げることに利用できるかもしれないと思って、あのような条件をつけたのかもしれない。
自分は、父の手の平の上で踊らされていただけなのだろうか。
それでも、買って貰ったばかりのグラブを愛しく思う気持ちは変わらなかった。
手入れを怠らず大切に扱い、今でも愛用している。
だが、あの日、誠の胸の奥を抉った弘之の言葉は、今も深く突き刺さったままだった。
「誠。随分長く入ってるみたいだけど、塾の時間大丈夫?」
母の声にはっとしてシャワーを止め、扉越しに尋ねる。
「今何時?」
「六時二十分。塾、七時からだっけ?」
「うん。もう少ししたら出る」
風呂場の鏡が、湯気で曇っていたので、それを手で擦った。
曇りの取れた鏡に、自分の顔が映る。
顔の泥は、すっかり落ちている。
誠は、鏡の中の自分をじっと見つめた。
日に灼けにくい体質なのか、野球部員にしては色白で、二重の瞼には長い睫毛。
どちらかと言えば小柄で細身な体格のせいもあってか、年齢よりも幼く見られる事がよくある。
幼少の頃は、女の子に間違われる事も多かった。
誠は、幼く見られたり、女の子に見られたりすると、自分が弱々しいイメージを持たれている様に思えて、あまりいい気がしなかった。
自分の内面の脆弱さを痛感しているここ最近は、特にそう感じていた。
風呂場から出た誠は、部屋に戻って塾へ行く支度をした。
それでもまだ少し時間が余っていたので、グラブの手入れをすることした。
ローションを滲み込ませた布で満遍なく汚れを落とし、薄くオイルを塗って、よく馴染ませた後でボールを挟み、伸縮性のある専用のベルトで固定する。
いつもより、少しだけオイルの匂いが強めな、手入れ直後のグラブの匂いが、誠は好きだった。
野球部に入って間もない頃、青木にグラブの型を褒められたことがあった。青木は
「道具を大切にする選手は、必ず上手くなるからな。井岡もきっと、いい選手になるぞ」と言ってくれた。
嬉しかった。
自分の野球に対する熱意を認めてくれる大人が、身近にいてくれているということが、たまらなく嬉しかった。
高校で野球をすることになっても、高校野球は硬式野球だから、軟式用のこのグラブを使うことは無い。
野球を続けるにしても、辞めるにしても、このグラブで野球をするのは、中学卒業までの間だけだ。
野球に対する情熱と父に対する従順さを共に象徴する黒ずんだ黄色いグラブは、役目を終えた後、誠にとって何を思い出させる物になっているだろう。
誠は携帯電話のディスプレイを見た。待ち受け画面には、野球部の仲間達と並んで移った写真が映し出されている。
その下に表示されているデジタル時計は、十八時二十八分を示している。
塾用のショルダーバッグを肩にかけ、部屋を出る。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん。行ってきます」
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