第8話

 温泉旅行のチケットの贈与があったのは、3連休の一週間ほど前だった。チケットの贈与は乙姫先生(成人バージョン)からだった。


 ペルはチケットをじっと見つめながら、訊いた。


「ど、どーして、突然、温泉旅行のチケットをくれるんですか? しかも、ペアで?」


「先生ね、ペルくんのお母様にとてもお世話になっていた時期があるんです。いつか恩返しをしたいと思っておりました。どうぞ、期限は次の連休中に限っていますので親子水入らず、お二人で楽しんでらしてください。お母様のご都合……宜しかったですか?」


「次の3連休ですね……多分、休みのような事を言っていたと思います」


「それもそうですわ。ちゃんと調べまし……はぐっ」


「えっ?」


「い、いえ。なんでもありません。おほほほほ」


 先生は手を口にあてて、上品に笑った。


「ところで乙姫先生。姉が、先生にお話があると言っていますが」


「あらららら、ペルくんにお姉さんって、おられましたの?」


「先生……僕の隣をよーく見てください」


「えーと? えーと?」


「いや、見るのではなく、凝視してください」


「なにもありませんけどって……あああ! これこれは、ぬらひょんさんではありませんか。お久しぶりですね」


 お姉ちゃんは目を細めて、じっと乙姫先生を見つめる。まるで怨念でもかけるかのように。先生は、ようやくお姉ちゃんの姿を認識できたようだ。お姉ちゃんは口をすぼめながら言った。


「お久しぶりなんかではありませんよ。そもそも私は、乙姫先生が担任をしているクラスに在籍していて、無遅刻無欠席でもありますから」


「……あら? あらら? そうでしたっけ? そういえば、いたようないなかったような。ってあれ? どこ、どこにいきましたかー、ぬらひょんさーん。ぬらひょんさーんどこですかー。おーーーいおーーーーーい、どこに行かれましたかああああーーーーーーー」


 ………………。


 お姉ちゃんは、再び目を細めて乙姫先生を見つめる。


「乙姫先生、私はさっきから、ずっと同じ場所にいますけど……」


「あら本当だわ。そ、そうですよね。気を抜いたら、透明に見えてしまいます。そういえば、ぬらひょんさんとペルくんは姉弟の関係でしたね。先生、すっかりぬらひょんさんの存在自体を忘れておりました。おほほほほ」


「ひどい! ひどいですよ、毎日顔を合わせているのに。いくら私の存在感が薄くても、忘れないでくださーい。そして温泉旅行っ! 私、家で留守番していたくありませーん。私だって行きたいです。どうしてチケット、二人分しかないのですかっ!」


「ね、姉さん……もらいものだから仕方がないよ……。ケチつけちゃだめだよ……」


「そんなの関係なああああーい」


 お姉ちゃんは先生に猛抗議した。久し振りに怒るも、すぐにクールダウンして、一気に存在感が薄くなる。お姉ちゃんは、熱しやすく冷めやすい性分なのだ。


「あらららら? そういえば、先生、今誰とおしゃべりしていたのかしら? あっ。そうそう。ぬらひょんさんでしたー」


 それを聞いて、お姉ちゃんは頬を膨らませた。


 ………………。


「ごめんなさいね。ぬらひょんさんのチケットも用意しておきますね」


「追加で用意できるのですか? ところで乙姫先生。うちの家族には、新しく妹も加わったのですよ。なので、現在の家族は、僕、姉さん、妹、母の4人です」


「あららら。あららら。そうなのですね。では、チケットをもう1枚用意しまして。えーと、合計……妹さんの分を、1枚用意しておけばよかったのかしら?」


「いえいえ。本当に用意する事が可能でしたら、姉と妹の2人分があれば、嬉しいのですけど」


「そうそう! ぬらひょんさんがいるのでしたね。あら? ぬらひょんさんは、どちらにいかれたのでしょう? ペルくん、ここだけの話なのですが、私の頭の中での彼女の存在感がとても薄く、気を抜いたらすぐに忘却の彼方に行ってしまいそうなんですよ。全く面倒な生徒を持ってしまいましたよ」


「せ、先生……姉はさっきからずっと、僕の横にいますけど……。そして位置的に、先生の真ん前です」


「う、うわあああああ。本当ですね。目を凝らしたら、そこにはぬらひょんさんが! ぬらひょんさん、ごめんなさい。陰口とか、そんなんじゃないんです」


「陰口も何も、私本人の前で言っちゃってますからねー。どうせ私は、忘却のかなたへ忘れ去られるような、そんな、ちっぽけな存在ですよー。単なる空気ですから」


「ぬらひょんさん、イジケないでください」


 お姉ちゃんはそっぽを向いた。


 ………………。


 ペルは、乙姫先生に言った。


「ところで、先生。チケットの用意の件ですけど、もし仮に新しく購入されての『用意』でしたら、それは結構ですので……」


「そ、それに関しては、また明日お伝えしますわ。とりあえず、安心してください。ペルくんは、本日中にお母様を温泉旅行に御招待してくれますか? そして予定が大丈夫かどうかを確認し、明日教えください。いいですね?」


「は、はい……。それはもちろん、いいですけど」


「それで、えーと、追加で用意するチケットの数は2枚でしたね。新しく出来たというペルくんの妹さんの分と、えーとえーと。あらららら? もう1枚は、誰のでしたっけ?」


 ………………。


「先生、さすがにそれだけやられると、わざとボケているって分かりますよ。ずばり確信犯ですねっ!」


「てへ。バレちゃいましたか。うふふふ。先生は途中から面白くなって、ぬらひょんさんをイジってしまいました。おほほほほほ」


「全然、面白くありませんから。ぬらひょん姉さん、怒ってどこかに行っちゃいましたよ」


「あれ? ぬらひょんさんなら、ずっとペルくんの隣にいますよ?」


 ペルは、隣をじっと凝視した。


 すると……。


「えっ。ああああああー! 本当だ。ごめん、姉さん」


「ペルくんも確信犯ですね。うふふ。先生は分かってますよー。分かってますよー。ペルくんもお姉さんのことをイジリたくなったのですよね? 先生は分かります」


「そ、そうだよ姉さん。僕が姉さんの存在を忘れるわけないじゃないか」


「……怪しいなあ。でも、まあいいよ」


 お姉ちゃんは苦笑いをした。


 この日の夜、ペルは母に温泉旅行を乙姫先生に招待された事を伝え、連休の予定を確認した。どうやら大丈夫のようだ。

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