スタンディングアップ

四季

Standing up for someone

 誰だろうか。歴史上の偉人の格言だったかも知れない。もしかしたら、街角の売れないミュージシャン歌った歌詞だろうか。それとも、神話の中の神が民衆に向けて言ったかもしれない。


“誰でもいい、誰かのために困難に立ち向える人間になるべきだ” と。

でも現実では、自分自身の困難に立ち向かうのでさえとても難しい。


夢の中であなたのお悩み解決します

リプレイスドリーム社 

我社のモットーは Standing up for someone;


---高校2年生 遠野とおの 冷澄れいすの話---


 勘弁してほしいくらいのうだるような暑さ。こんな狭い教室の中に40人近くの人間を閉じ込めたらそりゃ気温だって湿度だって上がっていくさ。こんなに鬱陶うっとうしいのに7月に入るまで教室の冷房は入れられないらしい。公立の学校らしい杓子定規しゃくしじょうぎな規則がとても憎たらしい。


 今やっている授業は週に一度のロングホームルーム。私は暑さだけではなく、延々と30分以上も続くこの時間にも辟易していた。夏のスポーツ大会の選手割り振り決めなんてさっさと終わらせれば帰れるのに。どうせ私はそんなに運動ができないのだから適当な競技を選択して、はい。終わり!って帰りたい。


 梅雨らしいのっぺりとした灰色の雲模様。風が伴わないから真っすぐと落ちる雨。もっともっと、スコールみたいに豪快に雨が降れば、こんなに暑さなんてどこかに散ってしまうのに。ああ、何もかもが面倒。

 はぁっと小さなため息をついて窓に付いた雨粒の行く末をじっと眺めて時間を潰す。水滴と水滴がぶつかって大きくなって、また別れて小さくなって……

「…さん。」

 誰かに呼ばれた気がする。

「……遠野さんいい?」

 そっぽを向いていた私はその高くてはっきりとした声に驚いてしまう。

「え?」

「遠野さんって背がすっごく高いじゃない。水嶋さんと一緒にバスケットボールに出てくれない?」

「……は?」

 声をかけてきた彼女はクラス委員の誰か。興味がないから名前なんて覚えていない。でも水嶋さんは知っている。


 水嶋みずしま ひいらぎはこのクラス中心的な存在で一番目立っている女子。結構な好成績を残す我が校のバスケットボール部のセンターポジション。しかも、去年の県大会では1年生からスタメンに選ばれている。とっても明るくて誰にだって優しい良い子。ちゃんと話したことはないけれど、大きな声のクラスメイトが話していたから知ってる。


「このクラスが一番になるようにしたいが、経験者は一競技に一人になるようにしないといけないからなあ、遠野やってくれるか。」 

 声も存在もこの夏よりもずっと暑苦しい担任の先生がダメ押しで私の外堀を埋めてくる。

「……はい。いいですよ。」

 私は自分の声が嫌い。とっても低くって女の子らしくなんてない。

「えっと、遠野さんって下の名前なんだけっけ。」

 さっきのクラス委員が私の名前を聞いてくる。黒板に決まった人を書いていくらしい。

「……冷澄。冷たくて、むって書く。」

 私は自分の漢字が嫌い。名前に冷たいなんて漢字を使う親のセンスを疑っている。

「えっと、スム?」

「……こう。」

 私は立ち上がって代わりに黒板に書いてあげる。確かに説明が足らなかったかもしれない。その帰り際に折角だからクラス委員の子の顔を覚えておこうとしてじっと見る。

「……あ、ありがとうございます。」

 クラス委員の子がすっと目線を反らして下を向いてしまう。

「今、遠野さん睨んでなかった?」

 自分の席に戻るまでにひそひそとした声が聞こえてくる。睨んだつもりなんてない。私は自分の目が嫌い。名前に冷たいなんて入れるからこんな一重で切れ目になるんだ。そんなつもりはこれっぽっちもないのに。

 

 嫌気がさして椅子に座ると、ガタンとちょっと大きな音が鳴ってしまった。

「うわ、こわ。」

 またひそひそ声。

 私は自分の背が高いのが嫌い。身長が高いから全然かわいい服が似合わないから。

 あぁ、今日も現実だと何も上手くなんていかない。

 

 その後、延々と20分くらいかけてようやく名前通りに長いロングホームルームが終わる。私はぐっと背伸びをして、ため息をつく。そうしてさっさと帰ろうと支度をしていたら、件の水嶋さんが私に声をかけてきた。

「遠野さん。スポーツ大会よろしくねー。」

 すっと手が差し出される。これは握手なのだろうか?

「……律儀ね。大丈夫、足引っ張らないようにだけは頑張るから。」

 彼女がクラス代表ででるのだったら何も問題なんてない。私が何もせずに突っ立ていたって優勝できるだろう。

 わざわざ数合わせのメンバーでしかない私に声をかけるあたりが良い子の彼女らしいと思う。私はそう言い捨てて、その手をそっと避けて教室を後にする。


「なにあの態度。柊、なんであの子に声かけたの?」

「そんな、一緒に出場するんだからさ。多分今日は気分が悪かったんだよ。」

 私の後ろでまた知らないクラスメイトが話している。知ったことじゃない。どうせあと1年半もしたらみんなバラバラ。そうしてお別れだから、今更クラスでの立ち位置なんてどうだっていい。

 

 私はこんな場所よりも、ずっと楽しい場所を知っている。

 

---->遠野家----> 


 梅雨のじとじとして一様な雨のカーテンをくぐって、歩道の凹凸にできた水たまりを避けながらようやくの思いで自分の家にたどり着く。靴と靴下は避けきれなかった水たまりに嵌ったお陰でもうぐちゃぐちゃのびちょびちょ。このまま家に上がると母さんからまたこっぴどく怒られる。仕方ないから靴下を脱ぎ払い洗濯かごへ入れておく。今日はこんな小さな動作でさえ煩わしい。


「冷澄おかえりー。」

「ただいま。」

 母親がかけてくる声に適当に返事してリビングをスルーする。そうしてさっさと階段を駆け上がって自分の部屋へ向かう。扉を開けて、振り返りカチリと。邪魔されないようにしっかり自分の部屋の扉に鍵をかけておく。


 さあ、ようやく私の夢の時間の始まりだ。


 机の引き出しの奥にしまい込んだ金色の懐中時計を取り出す。それをぐっと握りしめてベッドに飛び込むように転がる。自分の耳元に時計をあててすっと目を閉じる。カチ、カチと懐中時計が動く音にぐっと耳を澄ませる。

 カチ、カチ、カチ、カチ……1, 2, 3, ……!

 

 目を閉じていたのに視界がぐっと広がって、宙に浮かんだ私は自分の家の屋根を突き破って外へ飛び出る。そうして空をびゅんとひとしきり飛んで雨雲を突き抜ける。急にぐわんと世界が止まって。雨粒が文字通り粒に見えて。そう思ったら止まってはいけないことを思い出したみたいに慌てて動きはじめて。

 色彩豊かな景色が視界を覆いつくす。絵の具をこぼしたみたいな朱色と藍色の空、突き抜けるように透き通ったコバルトグリーンの海、深海の底のように深い蒼い森。見慣れたコンクリートジャングルだってはっきりとしたコントラストで、夢の様に景色が揺らめいて……。


----> リプレイスドリーム社 待合室---->


「帰ってきて早々にココにくるなんて、いつも通り仕事熱心だね、冷澄。」

 すっかり聞きなれた渋い声が響く。目の前に立ったファンシーな熊のぬいぐるみが私に話しかけている。

 ぬいぐるみが喋るのが可笑しい?

 

 でも大丈夫。そんなことよりも周りの景色のほうがもっと可笑しい。

 空に、いや宇宙に浮かんだ大きな金色の懐中時計。海のずっと上、宙の上に浮かんだ石畳の世界。透き通った水がどこかからか流れてきて、どこかに流れて消えていく。水の行く先なんて知らない。街路に桜が咲いて舞い散っていると思ったら、ちらちらと雪が舞い降っている。こんな世界の前では喋るぬいぐるみぐらい何てことはない。

 

「局長!冷澄、今日もアルバイトに来ましたー!」

 私は熊のぬいぐるみに対して元気いっぱいに挨拶をする。

「本当に、現実の君はあんなにも根暗なのにココではすごく明るいね。」

「現実の私はどうでもいいでしょ。ここの方が楽しいし。」

 ここは私のアルバイト先。目の前の喋るぬいぐるみは局長、って勝手に私が呼んでいる。局長は私の上司でそれでいてこの世界の神様。


「さ、今日はどんな子の夢をリプレイスしてあげる?」

 見た目に反した渋い声で局長はゆっくりと話す。

「焦らなくていい。まだみんな寝ていないからね。」

「えー。つまんないなー。」

「いつもみたいになんでも取り出して遊んでいて待っておいてくれ。」

「はーい!」

 現実と違って元気いっぱいに挨拶をする。

 

 この場所は高い所から落ちたって死んだりしない。飛びたいって強く思ったら自由に空を飛べる。何か欲しいものを思い浮かべたら何だって取り出せる。

 

 ここはリプレイスドリーム社のアルバイト専用の待機室。リプレイスドリームっていうのは会社の名前でもあるし私の仕事でもある。

 簡単に言うと、誰かの悪夢に入ってその夢(ドリーム)の結末をリプレイス(置換)する。

 もうちょっとだけ詳しく説明すると、悪夢を見るってことはその人は心に悩みを抱えている。

 夢占いってあるでしょう?蛇に追われて噛まれる夢、誰かに襲われて殺される夢、高いところから落ちて死ぬ夢、誰かを殺す夢。そんな悪夢を見る人の心はどこか壊れかけている。そんな悪夢の結末から夢の主を助け出す。そうするとことで、夢の主は現実世界での悩みが解決するらしい。


我社のモットーはStanding up for someone; 誰かのために立ち向かえ!

局長から入社してから耳が痛くなるくらいに聞かされた


 なんで神様自身が夢の主を助けないのかとか、なんで夢の中で助けたらその人の悩みが解決するのか。私は仕組みを何も知らない。あと、興味ない。だってこの場所、つまり夢の中だったら私は何にだってなれる。天高く空を掛ける正義のヒーローにだってなれる。

 ここに居られたら、面倒な現実なんて要らない。夢の中でこの力を楽しんで人助けしたら神様の役に立つ。しかも会ったこともないけれど知らない誰かの悩みだって解決できる。つまりとってもこの世界の役に立つ。Win-Winな関係でしょ?

 


 さて、今日は何をしてアルバイトが始まるまで時間を潰そうか。そう思ったらバスケットボールがポンっと飛び出して、床下の石畳がバスケットコートへとその姿を変貌させる。

「冷澄はスポーツ大会。バスケットボールをするんだったね。」

「また、私の様子見ていたの?局長、ストーカーじゃないの。」

 飛び出してきたバスケットボールを手にして、

「私はなんでも見えるし知っているからね。そんな言い方しなくてもいいじゃないか。」

「私の着替えとか覗いてないよね?」

「さあ?私には何でも見えるからね。」

「この変態熊!」

 私はバスケットボールをぶんっと投げつけるが、こともなげにかわされてしまう。

「上司に向かってまあ、言うようになったね。昔はココでも大人しい子だったのに。」

「そりゃ、こんな場所に急に飛ばされて来て、ほとんど強制的に働くことになったんだから。」

「君があの時計を見つけてしまったからだよ。」

 この時計を見つけたのは1年程前のことだった。ちょうどその前に亡くなった祖母の遺品整理を手伝っていると、棚の奥から大事そうに小箱にしまわれたこの懐中時計を見つけた。キラリと不思議に光るそれに無意識の内に惹かれこんでしまった私は、親に頼み込んで貰うことになった。


「あの時計に意味はあるの?」

 バスケットボールを床にダンダンとリズムよく跳ねさせる。現実と違って夢では身体が自由に動く。イメージしたとおりに、テンポ良く。

「あまり意味はない。君のような素質のある人間を呼び寄せる記号みたいなものだから。依代は何だっていい。ここは君の心の中でもある。」

「ま、よくわからないけど。……よっと。」

 スリーポイントラインの外から放ったショットが頭の中で描いたとおりの軌跡でゴールリングへ吸い込まれる。

「上手いじゃないか。スポーツ大会でも活躍できるのでは?」

「ダメだよ、ここは夢だから。現実だったら、絶対に、出来ない。」

 ここだったらレイアップだって、フローターだってどんなシュートも思いのまま。



「……。」

「はぁ……はぁ……。」

 どれほどの時間が経ったのだろうか。日頃の苛立いらだちをぶつけるようにゴールへと向かう。息が切れてきた。身体全体、肩を使って呼吸しないと全身が苦しい。

「冷澄。」

「なに!局長?」

「楽しんでいる所申し訳ないが。そろそろ仕事の時間だ。準備はいいか?」

「待ってました!さぁ、今日はどんな夢に入るの?」

「今日は迷子の女の子を送り届けるんだ。さぁ。行っておいで。」

 バスケットコートは光の屑になって消え去って元の石畳に戻る。局長の後ろ側、宙に浮かぶ大きな時計に向かって半透明の光の階段ができる。

「よぉっし。行ってきまーす。」

 気合をいれて階段を駆け上がる。螺旋状に入り組んだ階段を羽が生えているように軽やかに飛び移っていく。ぎゅっと圧縮された風の様に駆け巡り、光り輝く大きな時計の針の隙間へ飛び込む。


----> XXXXの夢---->


 気がつくと海辺の街に立っていた。コンクリートの波際にはテトラポットがずらりと並び、打ち寄せる波々を打ち消している。頭上に燦々と輝く太陽から出る光がじりじりと身体を焼き付けるように突き刺さる。

「あっつぅ。何ここー……。気温40度くらいあるんじゃないのー……。さっさと終わらせよー……。」

 防波堤にぴょんと飛び乗って早速に夢の主を探し始める。遠く向こうに見える街の方角には逃げ水が揺らめいている。この世界では風が全く吹いていない。

 高い場所に飛び乗った私はじっと道の向こう側に人影を発見する。真っ白いワンピースをきた少女がフラフラと足を絡ませながら歩いているのが微かに見える。

「みつけた…。よし!」

 ぐっと足に力を込めて少女のところまで飛び込むように走る。止まったようなこの世界で唯一の風になるように。

「そこの君、待ってー待ってー。」

 張り裂けそうになるくらいの大きな声を出して足元がおぼつかない少女を追い越しそうになりながら急停止する。

「……お姉ちゃん、だあれ?」

 ワンピースの少女が突然現れた私に驚くことなく首をかしげて尋ねてくる。

「私は冷澄!あなたを助けに来たわ。」

「……私、迷子になっちゃった……。どこへ行ったらいいのかも分からないの……。」

 首をしゅんと落として下を向いてしまう。夏に迷子の夢だとすると、夢の主は何か重大な決断を悩んでいるのだろう。1年以上もこの仕事をしてきたので大体は分かってきた。

「あなたが行く先は分からないわ。だけど、君がそこへたどり着くまでずっと私がそばにいるよ。」

 そっと彼女の頭を撫でて、下むいた頭をそっと上げる。カラカラのミイラになりそうなこの真夏の世界で彼女はぼろぼろと涙をこぼしている。


「こんなところで泣いちゃったらすぐに水分がなくなって、死んじゃう!」

 慌てた私はイメージをする。さっきっまでいた待合室のように想像してもすぐには物がとりだせない。局長によると他人の夢と私を無理やり繋ぐ以上、位相同期をするのに時間が掛かるためらしい。

 まあ、よくわからないからそのままの言葉を覚えているだけだけれど。


 ぎゅっと握りしめた手をそっと開いて、二人分の冷たい瓶のサイダーを取り出す。

「ほら、飲みながらあるきましょ。」

 少女へ冷たく冷えたサイダー手渡して、そっとその小さな手を取る。

「……冷たい……えへへ。」

 彼女は受け取ったサイダーの瓶を頬にこすりつけて、大輪の花が咲くように笑ってくれた。

「ゆっくりでいいの。さ、どっちでもいいよ。あるきましょう。」

「うん……。」

 コンクリートの地面がゆらゆら揺らめく夏の海辺を二人歩き始めた。

「れいすお姉ちゃん。ありがとう。」

「いいのよ。困っている誰かを助けるのが私の仕事なんだから!」

 優しく握っていた手を離れないようにぎゅっと握りしめる。

「そういえば、君の名前は?」

「わたしは、みずしま ひいらぎ。ひいらぎはね冬の木ってかくんだよ。」

 その名前には聞き覚えがあった。まさかとは思うがクラスメイトの彼女だとすると結構な偶然だった。確証は何もないが、じっと少女を見つめると確かにあの水嶋さんに似てなくもない。

「お姉ちゃん、どうかした?」

 首をかしげる彼女はずっと幼いが、目が似ている。ま、今は仕事中なのだから現実のことは考えないでおく。

「ううん。何でもないわ。いい名前ね、柊。」

「でしょう。お母さんがつけてくれたの。」

 小さな歩幅ではあるがしっかりとした足取りで彼女は歩いていく。おそらくは心の芯の部分はまだ折れていないのだろう。


「れいすお姉ちゃんはどんな字を書くの?」

「冷たくって澄んだ水って書くのよ。」

 ちょこんと、また少女が首をかしげる。

「冷たいは分かるよ。すんだってなあに?」

 習っていない漢字だろうし当然だろう。今日起こった出来事との若干共通性にデジャヴュを感じながらも、子供相手なのだからそっと教える。

「綺麗な水のことよ。透明な、あの海みたいな。」

 テトラポットの向こう側にはサファイアみたいな海が広がっている。太陽の光を散乱させて透明なはずの水に色がついて見える。

「んー。みえないよー。」

「あ、そうだねー。じゃあ、ちょっとだけ捕まっててね。」 

「うん。」

 背の低い彼女の脇にそっと手を差し込み、後ろから抱きかかえて持ち上げる。目線の高さを私と同じ位置にまで上げてあげる。

「わぁ。きれい。ずっとみえなかったの。すごーい。」

 嬉しそうにキャッキャとはしゃぐ彼女をもっともっと高く持ち上げる。

「すんだって、あの海の色?」

「そうよ、あんな色のこと。」

「お姉ちゃんもいい名前だね。冷たくってすんだ水。とびこんだらきっと気持ちいいね。」

 純粋な笑顔に頬ずりがしたくなる。なんて良い子なんだろう。

「柊ちゃん、かわいいー。良い子ね。」

 我慢できずにぎゅっと抱きしめる。こんな真夏の暑さの中でもそれは気にならない。

「おともだちになってくれる?」

「いいよぉ。あはは。」

 夢の中でろくに話したこともないクラスメイトの水嶋 柊と友達になるなんてとっても奇妙な体験だ。彼女は私とは正反対の人間のはずなのに。まあ、夢でしかないのだけれど。


 夏の陽射しが落ち込んで夕方になっても二人で歩き続けた。ときには立ち止まって休憩もしたけれども着実にこつこつと歩いていった。じりじりと肌を焼いていた太陽は水平線ぎりぎりまで下がってきて夜が始まろうとしていた。



「お姉ちゃん。ありがとう。」

 ふとある場所で彼女が立ち止まる。

「歩けなくなっちゃった?」

「ううん。思い出したの。わたしがこなきゃいけない場所はここ。」

 海辺のぽつんと立つ大きな病院。嘘っぽいくらいに真っ白でどこか冷たい印象。

「ここで間違いない?」

「うん。ここ。お姉ちゃん、わたしと友達のままでいてね。ありがとう。」

「ええ、こちらこそ楽しかったわ。おやすみなさい。ずっと友達よ。」

 夕暮れの病院の中へと消えていく彼女を見送ると、夢の世界が崩壊し始める。情景が光の欠片となって粉々に砕けていく。ああ、人の夢はこれで終わり。


 ----> リプレイスドリーム社 待合室---->


 気がつくとまたこの世界に戻ってきた。

「おかえり。冷澄。今日も無事に終わったね。」

「ただいま戻りました!」

 びしっと敬礼をするポーズをとる。

「手際がとても良くなった。思っていた3倍以上早く夢の結末を置き換えたね。」

「そうかなー。今日は歩いていただけなきもするけど。」

 子供の姿をした水嶋 柊との旅を思い出してみても、特別なことをした覚えはない。

「それでいいのだよ。きちんと成果は出ている。今日はちょうど時間だ。そろそろ戻りなさい。」

 ああ、楽しかった時間が終わってしまう。本当はこの世界にずっと住んでいたいのだけれども局長はそれを許してくれない。

「また来てもいいよね。仕事だし。」

「それは構わない。ただしゆめ現実げんじつの区別はできるようにね。」

 言われなくても分かっている。向こうはココみたいに全然楽しくないから直ぐに分かる。

「おやすみなさい!」

「ああ、おやすみ。良い夢を。」

 この待合室に来たときと逆の光景が目に浮かび始める。視界いっぱいの色とりどりの世界が色彩を失っていく……。


---->遠野家---->


「……冷澄!」

 遠くから母さんの声が聞こえる。今は何時だろう。

「なあに、母さん。」

「もう、また寝ていたの?心配になるから鍵をかけて眠るのは止めてよ。」

 時刻はすでに夜の11時になっていた。思っていたよりもまだ早い。

「夕食、置いてあるからちゃんと食べてね。」

「わかった……。」

 扉の向こう側でため息をつく母さんの声を聞いてここが現実であることをちゃんと理解する。局長、ほら大丈夫。ちゃんと区別はできている。重たい頭を上げて立ち上がる。

 現実こっちでジャンプしたって空は飛べないし、水嶋 柊とも友達ではない。そっと懐中時計を元の引き出しの奥へとしまって、ずるずると身体を引きずるように階段を降りていった。リビングにたどり着くと、一人分の夕食が用意されている。そっと席に着いて誰もいないリビングで食事をする。あの世界に取り憑かれてから家族で夕食を食べるのは珍しくなってしまった。麻薬のように引きずり込まれているのは自分でも分かっている。局長の言いたいことはそう言うことだろう。


 翌朝、学校へ向かうために玄関を開ける。もちろんあたりまえのように雨が今日も続いている。梅雨はたった一日たったくらいで急に終わったりはしない。よくこれだけ雨が降っても地面が腐らないか感心する。また風のない雨。真っ直ぐとぽつりぽつりと落ちる雨が制服にかからないようにそっと傘で遮って、夢の世界へいくために今日も現実を生きていく。


---->学校---->


 自席につくと、なにやらやたらにクラス内がざわついている。どうせ誰かが誰に惚れたのだの腫れたの、それか他人の悪口をしているだけ。そう思ってまた意識をシャットアウトしていく、ずっと心を沈めて入ってくる音を雨音のように気にしないようにしていく。だけれども一つの言葉が耳にこびりついた。

「柊が手術するために入院するんだって。なんか、肩の手術だって……。」

 昨日の夢は彼女の役に立ったのだろうか。それにしても肩の手術となると彼女はバスケットボールは続けられるのだろうか?

 ああ、違う関係ないのだった。ここはあの世界じゃない。現実の水嶋 柊は友達ではない。私は心配するような立場の人間じゃない。頭の中を切り替えていこう。こんな狭い世界なんて捨てて飛び去りたい。


 ----> リプレイスドリーム社 待合室---->


「バスケットボール、気に入ったのかい?」

 あの日以来、夢の中へ入ってからずっとこれで遊んでいる。性にあっていたのか、この背の高さが活かせるのが楽しい。局長にアドバイスを貰ってディフェンスをするアバターを取り出して1 on 1をしていた。今はディフェンス側のアバターがボールを保持している。

 一定のリズムで床に弾むボールの裏拍のタイミングを意識する。右、左、左右に触れる相手の視線と身体の傾きに意識を集中して、一瞬のすきにボールを相手の手から取り払うようにカッティングをする。事前に意識した通りに身体が動き、弾かれたボールが見事に自分の左手吸い込まれる。そのまま相手の脇をかいくぐってリング下まで一気に一直線。1, 2, 3…しっかりと足を踏み込んで空高く飛びボールを投げ込む。

 …ダンッ…ダンッダン。

 床にボールが跳ねる音が響き渡る。



「気に、入ったよ。ここなら、楽しい。はぁ…はぁ……。」

 肩で息をしながら、先程の局長からの質問に回答する。

「何かヤケになっていないかい?」

「なってないよ。なんにも、変わってない!」

 他にも遊びはあるのになぜこれをひたすらに続けているのだろうか。本当のところはやんわりと理解している。口に出すのなんてもってのほか、頭の中で考えるのさえはばられる。心の奥底で思っていることを間違えてでも口に出してしまったら、後悔で地面に縛り付けられて動けなくなりそうだ。だから、ずっと動き続けないといけない。夢の中でも止まってしまったら私は現実でも夢でも動けなくなってしまう。

「マグロか!」

 しようがない自分の感情へセルフ突っ込みを入れる。

「何の話しだい?」

 局長が可愛らしい頭をちょこんとかしげて、コートの向こうからずっと見守ってくれている。

「何でもない!はぁはぁ……。今日、仕事は、なさそう?」

 毎日のようにこの世界に来ているが、仕事自体はずっとあるわけではない。局長が開く夢の主はどの様に選ばれているかは教えてくれない。謎だった。

「しばらくはないかもね……。冷澄、君もそろそろ一人前になる試験を受ける時期かもしれない。」

 ボールが弾む音と、バッシュが擦れて鳥の鳴き声のような音が鳴る。その中で局長の言葉に驚いてしまった。

「一人前にって。……もしかして、正社員、採用?」

「まあ、そんなところかな。君がこの一年間のアルバイトで見せた心の強さは知っている。あとは1つだけ課題をクリアすれば、採用しよう。」

「私ってずっとアルバイトじゃなかったんだ。ここで就職できたら、現実でも生活できる?」

「ああ、対価をきちんと渡そう。今まではここで遊べることが対価だったからね。」

 そう聞いたらなんてブラックな職場なのだろうか。正社員になったらお金でも持って帰れるのだろうか。でも、良かった。いつの日かこの世界に来られなくなってしまったら、私は、私の心は壊れてしまいそうだった。動けない現実だけになってしまうと、立ち止まった回遊魚が酸欠するように死んでしまうだろう。

 局長のその言葉は心の支えになった一方で、一層この世界にのめり込みそうだった、


 結局その日というか、しばらくはずっと仕事が無かった。


 ---->学校---->


 ようやくに梅雨が開けた。本格的な夏が到来したが、教室の冷房がつくようになったので窓越しの陽射しが肌に刺さること以外には快適な学校生活になってくれた。

 水嶋 柊はあの日以来ずっと休みになっていた。クラスメイトの中心が空白になったことで、多少にはクラスメイトの関係性が変わっていった。どこか浮ついたような空気が漂っていた。このままでは何かのバランスが崩れてしまいそうだったが、それは今日までの杞憂だったようだ。


「柊!おかえり!大丈夫だった?」

 クラスメイトの女子が久しぶりに登校した水嶋 柊に駆け寄って話しかける。

「おはよう。大丈夫だよ、手術は成功したから。もう元気いっぱいさ。」

 爽やかな声がクラスに満ちていく。浮ついて吊り上がったような落ち着きのない和音に足りなかった音が足されたみたい。彼女の存在が鮮やかに空気の響きを変えていく。

「じゃあ、こんどのスポーツ大会もバッチリ?」

「あはは、ちょっと無理しすぎなければね。ちゃんとできるよ。」

 黄色い声の歓声が、すでに優勝したようなくらいの喜びで満ちている。そんな人だかりの中心にいた彼女の横顔をみて心の中塞ぎこんでいた感情が湧き出してしまった。ずっと心の声にも出さないように気をつけていたのに。


 ああ、羨ましい って。


 もしかするともう彼女はバスケットボールができなくなってしまうかもって、頭の中で考えていた自分が嫌い。あの日の夢で助けなければ……そんな事を考えてしまった自分が嫌すぎて殺したくなる。

 明るくって綺麗な彼女を直視できない。憧れる。我慢できなくなる。見ないふりをしていたけれどダメだった。意識しないようにすればもっと気になってしまって。

 

 私は水嶋 柊のようになりたい。


 夢の中で何度ショットを決めたって、どれだけの夢の主を救い出しても、現実の私自身は変わらない。私は強く、強く歯を食いしばらなければ泣いてしまいそうだ。

 

 横顔を睨むように見つめる私の視線に気がついた水嶋が私の方を見た気がする。不思議な目で私を見ている。懐かしい何かを見つけたような綺麗な目で。でもきっと私はそんな目を羨望に満ちた汚い目で見ていたに違いない。このままでは自分がだめになりそうで、目線を無理やり外してぐっとこらえた。


「柊?どうかしたの?」

「ああ、いや何でもないよ。……ちょっと勉強分からないからノート見せてほしいな。」

「いいよー。私のならいっぱいいくらでも見てー。」

 日常に戻っていく。この狭い部屋で私は勝手に苦しくなって窒息死にそうになっている。もっと大きく息を吸って酸素を取り込めばいいのに、息を殺すようにそっと微かに消えゆく呼吸しか出来ない。私は自分自信が嫌いだ。


----> リプレイスドリーム社 待合室---->


 折角の夢の中だったが、精神状態は最悪だった。今日の光景を見て逃げ込むようにこの世界へとびこんだけれど何もする気がしない。

「ここへ来たばかりの君みたいだね。どうしたんだい?」

「局長はなんだって知っているでしょう。どうせ今日の私の様子だってココから見ていたんだから。」

「……。」

 熊のぬいぐるみは本来の姿を取り戻したようにじっと黙りこくる。

「この世界でいくらゴールを決めたって何も変わらないわ。」

 じっと局長のガラスでできた黒い目を見つめる。彼が何も答えてくれなくなったら私はこの世界でも一人になってしまう。そうしたらどうすればいい?

 この世界で友達を想像すればいいのか?私のことを好きなってくれる誰かを呼び出してお人形ごっこしたって、直ぐに嫌になって、消え去りたくなるだけだ。嘘の幸せで満ち足りても、ひび割れた器に何を注いでもこぼれ落ちていってしまうに決まっている。


「なんで何も言ってくれないの!ねえ、私のこと捨てるの!?」

 ずっと黙っている局長の肩を握り込んで地面に膝をつく。頭を落として涙がこぼれていく。石畳の明るい灰色が、涙に濡れて黒色みたいな灰色に塗りつぶされていく。

「冷澄。試験を始めようか。」

「え……?なんで、今日なの……?」

 最悪のコンディションだ。この状態で誰かの夢の中で幸せな結末へ置き換えられる自信が全くない。


「いじわる!なんで今日なの!」

「今が一番いい。辛いだろうが君ならきっと乗り越えられる。」

 すっと霧になるように局長が姿を消していく。握りしめていたぬいぐるみの柔らかい感覚も消え去っていく。それを取り戻すように空気をつかみの直しても何にも手には残らない。

 辛かった。今日に誰かを助けることなんてできない。この世界から追い出されてしまうのかと思うともう何もかもダメだ。



「遠野さん。」

 後ろから柔らかな声がかけられる。驚いた私は飛び跳ねるように立ち上がる。

「私と勝負しようか。遠野さんはずっとこの世界でバスケットボール練習していたでしょう?ずっと見ていたよ。」

 水嶋 柊が、現実の世界と同じ姿をした彼女が青色のゼッケンを着て目の前に立っている。

「なんで、あなたココに……?局長!試験ってこれなの?趣味が悪い!どうして?ねえ!」

「私と勝負できないの?」

 挑発をするように彼女が私に赤色のゼッケンを投げ渡してくる。放物線を描いて床にポスっと落ちる。

「あなたはバスケットボール部、それもレギュラーメンバーじゃない。勝てるわけない。」

 涙に揺れる視界のなか、にらみつけるように彼女と対峙する。余裕な表情を浮かべる彼女が妬ましい。

「この世界だったら、君は羽が生えた鳥みたいに何でもできるでしょう。それなのにこの世界でも私に勝てないの?」

 その言葉に冷たい私の心に火がついた。私がこの世界で勝てない相手なんているはずがない。

「夢の中のあなたは現実よりもずっと嫌な子なんだね。もっと性格の良い子だと思っていた。……後悔するまでぼろぼろに負かしてあげるわ。」

「いい表情できるじゃない。」

 投げ捨てられた赤色のゼッケンに袖を通して、ぐっと目を閉じて涙を拭い去る。石畳の世界がぐっと様相を変えていく。景色が世界大会でも行われそうな大きな会場へと変貌する。



「1 on 1だよ。君が時間内に1回でも私のゴールに入れられたらあなたの勝ち。」

「随分と舐めるじゃないの。ほんと腹立つ……。一瞬で終わらせる。」

 はらわたが煮えくり返るようだ。胸の奥から憎しみと怒りの感情が溢れきって止められない。

 彼女は腰をすっと落としてボールをつき始める。そのリズムに呼応するように空の時計が制限時間を表示する。

「あの時計が一周したら君の負け。私の勝ち。」

「言われなくても分かる!」

 言葉の一つ一つが私を挑発してくる。まるでわざと私の調子を狂わせるように。


 ゴーン、ゴーンと時計が大きな鐘の音で試合開始の合図を伝える。

 

 まるで本物の風のように彼女の姿が視界から消える。早い。必死に食らいつくけれど左右に揺れ動くその速さに追いつくので精一杯だった。

「クッ。」

「そんな動きで私に勝てるの?ほら、こっち、やっぱりこっち。」

 彼女は翻弄するように、揺れながら余裕な表情で煽ってくる。

「クッソーーーー!」

 全力で立ち向かっていく。私がどんなに早く動いても彼女は揺れる蝶のようにひらりひらりとかわしていく。

「ほら、隙だらけ。」 

 私の一瞬の間をついて、私の足の間にボールを通されてしまう。くぐり抜けた先にあるゴールリングに向かって一直線。私は必死に振り返ったが間に合わない。

 彼女の身体はまるで本物の鳥のようにふわりと浮かび上がる。シュートしたボールはまるで当然のようにリングへと吸い込まれる。会場に得点を告げるビートが鳴り響く。


「まだ始まったばかりだよ。こんなところで諦めたりしないようね。」

 視界が真っ赤になる。悔しさで食いしばった歯から血が出ているのかも知れない。苦い鉄の味が口の中に広がる。

「諦めるわけない!ココで負けたら私はどこでも何にもなれない!」

「じゃあ、頑張ってみてよ。」

「うるさい!黙れ!黙れ!!」

 ひらりひらりと舞い踊るように優雅な彼女に襲いかかる獣のように、何度ボールを奪おうとしても、私の身体は昨日までの練習みたいには動かない。どんどんと動きが悪くなっていく。まるで現実の世界でバスケットボールをやっているように。

「遅いよ。遅い。何より視線がわかり易すぎる。」

「五月蝿い、五月蝿い!!!」

 目の間の彼女にただ突っ込んで、自分自身の身体の境界だってわからなくなって。

 私のすきをついて彼女は何度もゴールドリングへボールを入れていく。夢の世界でここまで必死になったのは初めてだ。ポイントを告げるブザーが聞き飽きるくらいに何度も、何度も、何度も、鳴り響く。その音に頭が割れてしまいそうだ。


「勝てないね。ダメだね。やっぱり、ダメだね。」

「頑張れないの?あんなにも練習していたのに、たったの1点もとれないの?悔しい?辛い?止めたい?忘れる?面倒くさくなった?いつもみたいに逃げる?」

「黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!」

 自分の声なのか彼女の声なのかさえわからなくなってきた。逃げたくなっているのは私の声なのか?それとも彼女が煽りなのか。



「はぁ……はぁ……はぁ……。」

 全身の力を使い込んでどれだけ息をしても頭に酸素が回らない。足元がもうおぼつかない。倒れ込んでしまったら負けだ。たったの一回も彼女からボールをとることもなく、たったの一回もゴールチャンスが生まれない。

「頑張れないの?もう終わり?」

「うる…さい……。」

 本当の事を言うともう諦めてしまいそうだ。これが局長の言っていた試験だろうか。だとしたら、あまりにも残酷過ぎる、非道すぎる。


 頑張れないよ……。もう、出来ないよ。時計の制限時間が後3分を切っている。もう諦めるしかなかった。そう思ってしまったら膝が自然に地面についてしまう。また涙がこぼれ落ちそうだ。視界が真っ白になる。



「れいすお姉ちゃん?」

 急にあの夢の少女の声がする。楽しかった夏の夢の少女が、今は私の目の前に立っている。ゆっくりと顔を上げて周りを見渡すとバスケットコートではなく、夏の海辺が広がっている。

「わたし、お姉ちゃんのおかげで手術をうける決心ができた。ねえ、お姉ちゃんのおかげでがんばることができた。ありがとう。ほんとうにありがとう……。」

「え……。」

「だから、お姉ちゃんも、もうちょっと。あともうちょっとだけがんばって!」

 明るい元気な声が響く。その声に呼応して消えかかっていた火がまた灯った。

 そう言って目の前の少女もさっきの局長のように消えていく。姿はもうつかめない。声だけかけてまた消えていく。これは夢だろうか。何でも諦めてしまった私が見ている妄想なのだろうか……。



「おかえり。遠野さん。夢の中は楽しかったかい?」

 また視界が戻ってきたら元の現実世界と同じ姿をした水嶋 柊が目の前に立ちふさがっている。さっきまで必死に食らいついていた彼女だ。

 でも、さっきまでの血の味は消えて不思議と頭の中がクリアになっていた。

「とっても楽しかったわ。現実よりもずっと楽しい。」

「でも、もう終わりそうだね。」

 ボールは未だに相手の手の中。残り時間は後1分。これがラストチャンス。

「私は頑張れる……!頑張れ……頑張れ、頑張れ、頑張れ!!」

 履いていたシューズが足を締め付けてきて痛い。そんな痛みと苦しみを無視して自分を奮い立たせるように大きな声を腹の底から出す。



 まっすぐと彼女に立ち向かっていく。試合はあと少しだけれどもここで諦めたらもう何もかもが終わってしまう。イメージして、想像して、揺れ動く彼女の動きを、じっと考えてただがむしゃらに突っ込むのではなくて、ちゃんと想像して……。そうしたら、世界が止まった気がした。

 ボールが次に跳ねる動きが……見える! 練習したとおりに。このチャンスで奪い去れなければもうおしまい。だから手をのばす。いつも手が届かない何かを掴むように必死になって、もがくようにして。

 そうして指先がボールに触れて弾き出した。そこからはあまり覚えていない。なぜかにっこりと微笑む彼女を横目に弾き出したボールを必死に掴み直して。脇をすり抜けてゴールリングまで立ち向かっていく。


 そしてさあ、いつもみたいに練習したとおりに1,2,3……ここ!


 ぽすっとボールが吸い込まれる音と自分の心臓の音だけが聞こえる。

 やってやった。憎たらしい彼女から1点奪い去ってやった。どうだと言ってやろうとして、振り返と世界が崩れ始めた。もう終わっていた? 時間切れだったの?


 ----> ????---->

 

「冷澄。あとは任せたよ。」

 崩れ落ちた世界から気がつくと周りはさっきまでのバスケットコートじゃない。学校の体育館のコートだ。水嶋 柊が、夢じゃない現実の彼女が同じ赤色の色のゼッケンを着て隣に立っている。

「私の肩、ちょっと無理しすぎたみたい。もう限界。」

「え?どういう?何ここ?」

「いまはスポーツ大会の決勝。試合時間は残り1分。得点は相手チームのほうが1ポイントリード。」

 とても早口で彼女が状況を説明する。

「期待のバスケットボール部水嶋は病み上がりに無理して肩が上がらない。だから冷澄、あなたが最後の得点決めるんだよ。さっきみたいにね。」

 状況が全く理解できない。待合室でもなければ夢でもない。自宅で目が覚めるわけでもなく急に学校のスポーツ大会が終わりかけている。

 さっきまであんなにも憎たらしく私のことを煽ってきた彼女が同じゼッケンを着ている。


「え、そんな。こっちだと私は……。」

「大丈夫。絶対に大丈夫。信じられないかも知れないけど、絶対に大丈夫。私がゴール前まではボールを運ぶ。冷澄は誰にもマークされてないわ。ちゃんと私のパス受け取ってね。」

 言っていることが何も理解できない。ただそのままに試合再開の音が体育館に鳴り響く。水嶋さんは流れる風のようにまたボールを運んでいく。ただ、肩をかばっているのか動きの切れがさっきみたいにはいかない。


「2組!!!頑張れー!!柊―――!」


 クラスメイトの歓声が体育館を揺れ動かすくらいに大きい。なんで学校の大会くらいでこんなにも本気になれるの?信じられない……。

 信じられないけれど、私の身体が彼女を追いかけるように自然に駆け出す。夢の中のように軽やかに。水嶋さんがゴール前で囲まれる直前に私へ向けて切れの良いアンダーパスでボールを投げ渡してくる。いつもだったら絶対に受け取れないはずのその素早いボールをしっかりと左手で受け止める。そうしたら、なぜかやることは分かっている。さっきと同じ……!

 ノーマークだった私へのパスに相手は驚いている。必死に食らいつこうとする相手チームの誰か立ち塞がる。だけれども水嶋 柊の上手さに比べたら下手くそだ。動きが分かり易すぎる。なんてことはない。こっちへすり抜けられる!


「行けーーー! 冷澄――!!!」


 水嶋さんが誰よりも大きな声で私の名前を呼ぶ。時間が止まったようにゆっくりとした感覚に包まれていく。あと3歩。


 さっきとおなじ。1,2,3,……ここ!


 わぁーっという地響きのような歓声が体育館全体に響き渡る。試合終了のブザーがかき消えてしまうくらい大きな声で。

 目の前の光景が信じられない、まだ夢を見ているのかも知れないそう思いながら必死に呼吸をする私に水嶋さんが抱きついてくる。

「やっぱり頑張れるじゃん。さすが、冷澄お姉ちゃん。」

「柊、覚えているの……?」

 試合終了のブザーが鳴っても歓声収まらない。高々学校の中の大会なのに、いつまでも響く歓声と自分の汗の匂い、夏の体育館の暑さ、夢の中よりももっとドロドロとしていて全てが煩わしかったはずのそれらがこれらが現実だと教えてくれる。


「遠野さん、すっごい!」

「実はバスケットボールやってのた?」

「え。いや……。」

 ちゃんと話したこともないクラスメイトに囲まれて話しかけられて驚いてしまう。

「私と一緒に練習したもんね。冷澄。」

「柊?あれは、夢じゃあ……。」

「二人共はなに実は仲良かったの?」

「そう!私達友達だから。」

 私が答える前に柊がすっぱりと答えてしまう。

「なんで隠してたのさー。」

 普段会話しない皆に話しかけられながら、ずっと続く暑さとアドレナリンに胸を高鳴らせて。心臓の鼓動が止まらない。



「おめでとう、冷澄。本当の君は他人のために立ち上がることができる、選ばれた善い人間だ。ただ、本当の意味でリプレイスドリームを続けるには君が自分自身の困難にも立ち向かえる人間になる必要があったのだ。本当に……おめでとう。」


 ----> リプレイスドリーム社 待合室---->


「今日から我社に新属の社員、遠野 冷澄と、新人アルバイトの水嶋 柊を迎え入れます。」

 いつもの石畳の不思議な世界に、偉そうに座る熊のぬいぐるみの局長が私達にそう告げる。

「ここじゃあ先輩だね。冷澄。」

「じゃあ……。あれは柊が私の夢に入ったの?」

「いや、少し違う。あれは君自身の思い描く水嶋 柊だ。いうなれば自分自身の虚影でもある。」

「ちょっとだけ、入り込んで姿を借りただけ。だって私、あそこまで口悪くないよ。」

 頭の中にいつまで立っても話が入ってこない。

「冷澄、柊。早速仕事だ。今日の夢は崩れ去るビルから夢の主を助け出しなさい。」

「え、はい!」

「はーい。熊ちゃん。」

 私は反射的に返事をしてしまう。柊は局長を熊ちゃん呼びしている。

「頑張ろう。冷澄!」

「まって、柊!私まだ話せてないことあるの!局長!」

 熊のぬいぐるみはその手を振りながら私達を見守っている。時計の針の間を目指して駆け登る柊を追いかけて、私も光の階段を登っていく。


 時計の前ですっと手を差し出す柊。

「まだまだ時間はいっぱいだよ。夏は始まったばかり。話したいことはこれからいくらだって話せる。」

「そうだけどさ。……あーもうっ。何でもいいや!」

「いいじゃん、その冷澄。もっとおっきく声出していこー!」

 手を取り合って今日も知らない夢の世界へとびこんでいく。いつもと違ってもう一人ではなくなった。光りに包まれて視界が真っ白になっていく。


---->


我社のモットーはStanding up for someone; And myself.

よりすぐりの社員が夢の中であなたのお悩み解決します。





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