『峠を走る人⑤』
実は俺が新しくバイクを買ったのはゴリラ……いや、広重店長が言う様にCBに乗りたかったためと言う訳では無い。
本当の事を言えば、限定解除が教習所でも取れるようになった事と、たまたま、仕事の有休が溜まっていたので、その期間で免許を取りに行こうと考えた事である。そして、免許を取って乗りたいバイクはCB750Fしか思いつかなかったと言うのが真相である。その辺の誤解を一々説明するのが面倒だった。
バイクは店長に頼んで程度の良い物を探してもらった。店長が見つけてきたバイクはワンオーナー物でノンカスタム、錆び一つない極上品だった。俺はそれに飛びついた。もうこれ以上程度の良い出物は出てこない。それを今日納車してもらったのだ。
「なあ、黒瀬。ナナハンだからって、あんま飛ばすんじゃねえぞ」ゴリラ店長がそう言い放つ。
「わかってるって」
俺は店の前でヘルメットを被りスタンドを跳ね上げた。
「んじゃ、ちょっくら行ってくる」
「ああ、気を付けてな」
俺はアクセルを開けた。スムーズにCB750Fは発進した。
乗り味は以前乗っていたVT250Zによく似てる。素直で走り易くてどこからでも加速する。
――クルージングで走るにはもってこいのバイクだな。
俺はCB750Fに跨って自然と例の峠へと向かっていた。
この道の二輪車通行禁止は既に解除されている。道路も何度かの工事を経て拡張された。当時狭かったヘアピンカーブも道路が拡張されてRの緩やかなカーブになっていた。それでもここを走るバイクは今ではほとんどいない……。
コーナーに設置された
俺は心地よい速度で峠の道を上って行った。流れる景色が美しい。吹き抜ける風が心地よい。
ゆったりとした速度でコーナーを曲がりしっかりとトラクションを掛けて立ち上がる。こういう穏やかな走りもいいものだ……。
山頂の駐車場に辿り着いた。数台の自動車が止まり家族連れがはしゃいでいる。ここからは街の展望、遠くの海が見渡せる。近くに運動公園もあって平日の昼間は家族連れが多いのだ。俺は駐車場の片隅にCB750Fを止めた。
バイクを降りヘルメットを脱いで、遠くの海を眺めた。良く晴れ渡った空に穏やかな風が吹く。今日は海原を行き交う船が良く見えた。
「あら、懐かしいバイクね」
声のした方を振り向くと、そこにはメガネを掛けた赤毛の女性が立っていた。
「どうも」俺は軽く会釈した。
「懐かしいわ。私も結婚してイギリスからこっちへ越してきたばかりの頃乗ってたのよ」
「え……?」
「あれ? そう言えば貴方……ああ! そうだNSRの子じゃない!」
そう言って見開いた彼女の瞳の色は水色だった……。
「あんた、まさか黒い妖精か……」
「あははは、そう言えば私ここではそう呼ばれてたみたいね」快活に笑う小柄な女性。日本語も達者の様だ。その時、吹き付けてきた風に右手で赤い髪を抑えた。
「……」
思わず俺は口をパクパクと空けてしまった。まさかこんな所で出会うとは思っても見なかった……。黒い妖精が女性であることは薄々途中で気が付いていた。やっぱほら、ピッチリ着込んだレーシングスーツに胸有るし……。
「ねえ、貴方、非道じゃない。最後のアレ、レース用タイヤ履いてたでしょ」久しぶりに出会った妖精は腰に手を当てて仁王立ちでそう言った。
「うん、まあ、ああでもしないとあんたには勝てなかったからな……」俺はバツが悪そうに答えた。
「まったく、とんだクレージーボーイだと思ったわよ」
「あんたが、速過ぎたんだよ……」
「当然よ、イングランドに居た頃は私TTのランカーだったんだもの。毎日練習場を走ってたんだから」
TTとはツーリングトロフィーの略で市販車ベースの改造車で行われるレースである。もっとも有名なのはマン島TTレースだろう。島にある一般道を閉鎖して行われる世界レベルのレースである。
「それが何で、こんな所を走ってたんだよ」
「仕方ないでしょ、せっかくバイク大国の日本に来てみたのにサーキットもプラクティスコースも近くに無いんだから。逆に呆れたわよスポーツバイクを売っているのに乗るところが無いなんて。だからこっそり夜中に練習してたの」
「それで何でここに来なくなったんだ」
「ハズバンドの仕事でイングランドに戻ってたのよ。向こうでレースに出てたの」
「それで勝ったのか」
「まっさかー。メーカーサポート程度のプライベートライダーじゃワークスに勝てない無いわよ」
「そんなものなのか……」
「ええ、そうよ。それにしても、貴方がまだバイクに乗っててよかったわ」
「どう言う事だよ」
「あのままだと貴方間違いなくクラッシュしてたわよ。少しは自分に気を付けなさい」
「うん、そうだな……。ところであんたはもうバイクに乗ってないのか」
「ええ、もうやめたわ。だって二児の母ですもの」そう言って彼女は胸を張って微笑んだ。
その笑顔を俺は無性に明るく感じてしまった。
「そっか……」
時代は流れる。そう言う事だ。しかし、俺は彼女の言葉に一抹の寂しさを覚えた。暗い峠道に舞う黒の妖精。間近で見続けたあの流れる様な美しい走りはもう見れないのだと……。
「あら、いけない。私、息子を駅に迎えに行かないといけないの」腕時計を見ながら彼女は声を上げた。
「ああ、そうか……。でも、あんたと話せてよかったよ」
「それじゃ、またどこかで会いましょ。私の名前は鈴木フレイヤよ。チーム:ディーナ・シーのフレイヤ。覚えて置いて」
「あ? ああ、俺の名前は
「じゃあね、クロセ。グッバーイ!」
そう言い残し、彼女はおもむろに白いフルフェイスのヘルメットを被った。
そして、車に乗り込んだ。彼女の車。ホンダシビックタイプRのエンジンが吠えあがる。
激しいスキーム音と白煙を上げながら彼女の車が走り去る。近くの家族連れがドン引きしてた。あんぐりと口を開けた子供の手から落ちたボールが駐車場を転がって行く。
「ははは、一体、誰がクレージーなんだよ。あんたまだ走る気満々じゃねえか……」
誰も聞かないその呟きは青空に消えて行った。
『峠を走る人』―― 完。
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