『胡蝶の宿⑩』


「遊郭……」


 遊郭と言えば吉原遊郭を思い出す。男性がお金を払って女性から様々な性的サービスを受ける場所の事である。吉原以外にも大阪・京都・長崎に在った話は聞いたことがある。だが……。

 いや、そう言えば……。人里離れた場所に建つ立派な建物。周囲を取り巻く高い石垣。独特なお風呂の入り方……。思い当たる事はある。


「あ、偏見を持たれないように先に言っておくけど、昭和の初期には日本政府に登録されていた遊郭は全国に五百件以上あったんだからね。未登録はその数倍」

「五百件以上も……」

「そう、ちょっとした宿場町には必ずあったってことよ。それらが戦後の売春防止法で全て無くなったんだよ」

「……」


「でも、全て無くなりましたと言っても消えてなくなる訳じゃないのよ。建物や人は残り続ける。あの源泉の湯はこの集落に富をもたらした、遊女たちの労をねぎらう為に作られた施設なのよ」

「ふーん、それで」

「えーと、だからあそこを利用する人は中に人が居ても入ってきちゃうし、逆に人が居ても掃除していいんだよ。そういうしきたりと言うか、それがここでは当たり前の事になっているの。だから裸を見たくらい問題ないのよ」

「ふーん、それで、何故それを俺に話さなかった」

「ええ、えーと、いやー、変な風に見られるのも嫌だし、多分人に会う事も無いだろうし……ごめん」

「んで、本当は?」

「説明する事が多すぎて忘れてた。てへ」


「……」 〝てへ〟じゃねぇー!! 旅館に迷惑かけるかと思って心配したわ!! まあ、何と無く事情は分かった。と言うか動揺をして損をした。――ん? まてよ……。


「なあ、瑞樹。その遊郭当時の施設が使われている……と言う事は、いまだにその職業が残ってると言う事だよな」

「まあ、そうなるわね。と言っても今残ってるのは芸方の人達だけだけどね」

「ふーん」芸方と言うのは芸者さんやお座敷遊びの事を指すのだろう……。

「あ、中島さん達、もう来たみたい」


 一階から二人の挨拶する声が聞こえた。


「下に降りて朝食の準備しましょう」

「うん」


 遊郭・くるわ・色茶屋・飯盛旅籠……俺の頭の中には様々な言葉が渦巻いては消えていく……。悶々とした気持ちを抑え俺は朝食の準備を手伝う為に急いで一階に下りた。



 やはり手伝えることはあまりなかった。朝食の仕込みは昨晩の内に済んでいる。冷蔵庫から漬物類を取り出してお膳の上に置いて行く。和子さんがご飯を炊き始め、厳吾さんがけの汁を温めながら塩鮭を焼いて行く。瑞樹はお湯を沸かしてお茶を淹れだした。三十分も立たないうちに調理が終わった。


 俺と瑞樹と女将の三人分だけ料理を仕上げ皆より先に朝食を取る事になった。休憩室に料理を運びそのまま食べ始めた。


「瑞樹ちゃん、お昼までに大座敷を一つ用意して頂戴」女将が事も無げに瑞樹に向けてそう言った。

「うん、わかった。んで、どこがいいの」

「そうね、今日は梅の間でいいわ」

「うん、わかった」

「それで、瑞樹ちゃん。ちゃんと一条君に謝ったの」

「謝ったよ、もう」

「本当? 一条君」

「はい、一応……」

「ならいいわ、今日もよろしくね」

「はい」


 俺達は団欒しながら食事をし宿泊客が朝食を食べに来るのを待った。

 全ての宿泊客がやって来て配膳を終えたところで、俺と瑞樹はお風呂の掃除に向かった。

 そして、浴室と脱衣所の掃除を終え、俺達は北館二階へと上がった。


 大座敷は遊技室の隣のふすまの閉じている部屋だ。東から松の間・竹の間・梅の間と札が付いている。

 瑞樹は梅の間の襖を開けて電気を付けた。十畳ほどの畳の間。部屋はきれいに掃除がしてある。部屋の隅に着物掛けがいくつも置いてあるのが見えた。どうやら横の襖を開ければ竹の間と続き間になるようだ。瑞樹が襖を開けた。


「こっちの長机を四つそっちの部屋へ並べて」

「わかった」


 俺は長机を抱えて運び二列に置いた。瑞樹は座布団を集めて持って来た。


「後は人が来てから準備しよう」

「誰か来るのか」

「うん、銀杏の間の人達がここを控室に使うのよ。多分」


 それから俺達は南館へ行き客室の清掃を始めた。今日はあまり天気が良くないので布団は外へ干さず、棚に入れて乾燥機を掛けて置いた。客室の掃除も終わり昼食を取る事にした。


 今日のお昼のメニューはニシン蕎麦だった。乾燥ニシンの甘露煮が半身丸ごと乗っている。旨くて甘くてしょっぱくて最高の味だった。あまりの美味さに打ちのめされている所に客が来た……。


「ごめん下さいまし」


 大きな荷物をそれぞれ抱えた五名ほどの女性達。一人の女性を除いて皆洋服だがその立ち振る舞いですぐわかる。この人達は芸妓さんだ……。和装の女性が進み出て大広間の畳に手をついた。


「今宵もお世話になります」


 女将と瑞樹はすぐに立ち上がり居住まいを正して手をついた。中島夫婦は箸をおいてそのまま座っている。


「こちらこそ、よろしくお願いします。二階の大座敷を用意しておりますので、どうぞお使いください」女将がそう答え瑞樹と共にお辞儀した。


 女性達はそのまま二階へと上がって行った。


「瑞樹ちゃん、後でお茶とお菓子を持って行ってあげて」

「はい」

「それと、杉の間にお布団四つ出しといて」

「はい」


 そして昼食を再開した。俺はそっと瑞樹に質問する。


「なあ、今の人達芸者さんだろ。手伝わなくてよかったのかな」

「いいのよ、皆いつも来てる人たちだから」

「なにが始まるんだ」

「芸者遊び。銀杏いちょうの間は組合の人達が接待で使う場所なんだよ」

「ふーん」


 昼食を終え俺は南館の清掃に行った。


「なあ君、女将はどこかね」丁度南館の一階の掃除を終えるタイミングでスーツの男性に声を掛けられた。

「あれ、フロントにおりませんでしたか。ちょっとお持ちください」


 俺は北館へ女将を探しに行った。一階の調理室を覗いて和子さんに聞いてみる。


「女将さんどこか知りませんか」

「多分、二階です」


 俺は急いで二階へ上がり梅の間を覗いた。女将さんはここに居た。女性たちは皆既に和服に着替え三味線や太鼓を出して音合わせを始めている。女将さんは先程見た和装の女性と打ち合わせをしていた。


「女将さん、スーツの男性の方がお待ちです」と声を掛けた。

「はい、すぐに伺います」


 その時、三味線の軽やかで少し物悲しい音が響きはじめた。

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