『胡蝶の宿③』


 これは確かにアレだよな――。アダルトショップで売ってる奴……。一つずつ透明なプラスチックのケースに入れられたそれは数こそ多くないがサイズS・M・Lと売られてる。ピンクローターの方は水色と白のカラーバリエーションが選べるようだ。何故ここに???

 いや、単に俺が行く飲食店で売ってなかっただけで、この辺りのお店ではデフォルトの光景と言う事なのだろうか? それともあの商品はジョークグッズやパ―ティ―グッズの品目なので普通に売っていてもおかしくは無いと言う事なのだろうか……。そう言えばどこかでこんな光景を見たことがある……。そう、あれは伊豆の熱海温泉・秘宝館!


「何、まじまじ見てるのよこのスケベ!」


 その時、背後から若い女性の声が聞こえた。振り向くとそこには紺のスポーツジャージを着た二十代前半と思しき女性が饅頭を頬張りながら立っていた。髪は短く切りそろえ顔は小顔で目が大きい、肌は健康的に焼けていていかにもスポーツマンな雰囲気を漂わせている。――誰?

 女性はヒョイと俺の横に腰かけて手に持っていたお茶で饅頭を飲み込んだ。


「ちょっと、驚いて見てただけだよ」俺は取り敢えず言い訳した。


 女性はその大きな目でこちらをじっと見つめながら声を発した。


「まあ、いいわ。ねえ、あんたさっきバイクで輝陽館に来た人でしょ」

「どうして、それを知っている」

「この温泉にバイクで来る若い人は少ないのよ。もう多分この温泉中で噂になってるわよ」

「……」まじか……。

「何? あなたツーリングの途中で立ち寄ったの」

「ああ、そうだよ」

「これからどこ行くの」

「北海道」

「ふーん、いいなー」


 何とも不思議な女である。妙になれなれしいが嫌ではない。この温泉の人だろうか。


「あ、私、寺岡瑞樹てらおかみずき、よろしくね」いきなり自己紹介をしてきた。

「俺は一条いちじょうだ」

「ふーん、一条君ね。さんの方が良いのかな」

「どちらでも」

「そっか、じゃ、私まだ仕事あるから、またね」


 そう言い残すと寺岡瑞樹と名乗った女性は慌ただしく店を出て行った。本当に不思議な女である。一体何がしたかったのだろう。俺は残りの饅頭を頬張った。――そう言えばあの女どこかで見た気がするのだが……気のせいか。


 コーヒーを飲み干しお金を払って店を出た。そろそろ二時間経っただろう。俺はゆっくりと輝陽館へ向けて歩き出した。

 ステンドグラスの扉を開く。おや、荷物が見当たらない。

 そこへ、先程の四十代の着物の女性が現れた。


「お荷物お部屋へお運びしましたよ」

「すみません」

「では、宿帳のご記入をお願いします」

「はい」


 俺は宿帳に添えてあった万年筆で名前と住所と電話番号を記入した。


一条御影いちじょうみかげ様ですね。ようこそおいで下さいました。私、当旅館の女将・寺岡早苗てらおかさなえと申します」そう言って女将は丁寧にお辞儀した。


 成る程、女将はいつもニコニコと目を細めているので気が付かなかったが、先程の瑞樹と同じ顔だ。多分親子だろう。俺は南館の二階の部屋へと通された。


「夕食は七時から北館一階の大広間になります。では、ごゆっくり」そう言い残し女将は去って行った。


 部屋の広さは六畳の和室と窓際の板張りの四畳。和室には大きなテーブルとコイン投入式のテレビが設置されている。板張りの上にはチャタレー夫人が座っていそうな籐編みの椅子が二脚に机が一つ。窓の外にはこの温泉町ののどかな風景が広がっている。


 今の時刻は五時を過ぎたところだ。食事までは二時間近くある。俺は自分の荷物を開き服を着替えた。これまでの汚れた服を纏めてレジ袋に詰め込みフロントへと向かった。フロントの中で女将は電話を掛けていた。俺は会話が終わるのを待って話しかけた。


「すみません服を洗いたのですが、近くにコインランドリーはありますか」

「洗濯でしたら、洗濯室がございます。北館一階の一番奥になります」

「すみません行ってきます」


 俺は荷物を抱え洗濯室に移動した。ここは湯治客などの長期滞在者向けの施設だろう。洗濯室にはコイン投入式の洗濯機が四つとコイン投入式の乾燥機が二つ並んでいた。洗剤や漂白剤も自動販売機で買えるようだ。洗剤を購入し洗濯機に汚れ物を放り込む。コインを入れて三十分の通常コースを選んだ。ベンチに腰掛け置いてあったタウン情報誌を見ながら待つことにした。洗濯が終わったら次はニ十分の乾燥機。乾燥が終わる頃には時刻はもう六時半を過ぎてい居た。一旦、洗濯物を抱えて部屋へと戻りきちんと畳んでバックの中へしまっておく。


 少し藤編みの椅子で夕暮れの景色を見ながらくつろいだ。


 ――よし丁度、夕食の時間になったな……。


 俺は部屋に置いてあった浴衣を服の上から羽織り北館の大広間へと向かった。五十畳はある宴会場。その広さの中に用意されたお膳は四つ、二つ、二つ、一つ。どうやらお一人様客は俺だけの様だ。俺は一番奥の一つだけ離れてポツンと用意されているお膳の席へと付いた。


 すぐに料理が運ばれてきた。小鉢が五つ、どんぶり鉢に入れられた野菜たっぷりの味噌汁に、大皿に乗ったマグロと赤身の牛肉。お櫃に入ったご飯を女性が茶碗に装ってくれる……。と言うか和服に着替えた寺岡瑞樹だった。


「さっきはゴメン。本当は部屋が用意できたって知らせに行ったのよ……」


 そんな話は聞いて無い。こいつは三歩歩けば忘れる鳥頭なのだろうか?


「……でもあんたがエッチな物をまじまじ見てたから忘れちゃった」


 出来ればそっちの方を忘れてくれ。「うん、気にしてない」と言っておく。と言うか早くご飯を食べさせて。


「ありがとう。ねえ、一条君。食事の後でちょっと話ししてもいい?」

「ああ、いいけど」

「よかった。じゃ、また後でね」そう言って寺岡瑞樹は去って行った。


 そして、俺は豪勢な夕食に箸を伸ばしたのだった。

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