優先度の低い人

伴美砂都

優先度の低い人

 ああやって泣いたことは、たぶん一度もなかった。

 美空みそらちゃんがそう言ったとき、私は、ああ、うらやましいなあ、と思った。私にとって、泣くことは日常茶飯事だった。

 美空ちゃんとふたりで駅の構内を歩いていたときだった。人でごった返す通路で、だだをこねて大泣きしている幼稚園ぐらいの子どもがいた。いやだーあーあー、と妙にはっきりと発音するのが耳についた。

 子どもの泣き声は嫌いだ。うるさいし、あざとい、と思う。それは、私が子どものころ、同じように泣いてばかりいたからかもしれない。

 でも、それを顔や口に出してしまっては意地の悪い人だと思われてしまうような気がして、ことさらに笑顔を作って横を通り過ぎようとしながら、すごい泣くねぇ、とできるだけ明るい声を出して言った。美空ちゃんは、え、と言ってこちらを見た。


 「あ、ほら、さ、あの子」

 「うん?……あぁ、うん、そうだねぇ」


 美空ちゃんは私のようにわざとそうしたのではなく、本当に気にしていない様子だった。変なことを言う人だと思われてしまっただろうか。その間にもう私たちはそこを通り過ぎ、泣き声も少し後ろに遠ざかる。

 そのとき彼女がそう言ったのだった。実際には、もう少しくだけた言い方だったかもしれない。


 「そっかぁ、へぇ、そうなんだ、」

 「うん、なんか全然泣かない子どもだったらしい、わたし」

 「そうなんだ、え、すごいね、私なんてすっごくよく泣く子でさぁ、幼稚園とか行きたくないって大泣きしてたし、ピアノのレッスンもいやで泣いてさ、それですぐやめたし、体操教室なんか行ったその日にさ、なんか同じクラスの男の子にからかわれてさ、すごい泣いて一日で逃亡しちゃってさぁ、」


 そこまで言って、美空ちゃんが少し、ほんの少し困ったような顔をしているのに気付いてしまって、しまった、と思った。えへへ、とごまかすように笑ってみせて、私は黙った。

 本当は幼稚園どころか、小学校も中学校でさえも私は行きたくないと言って玄関先で泣いていた。さすがにそれは恥ずかしくて言わなかったけれど、もしかしたら幼稚園でもじゅうぶん恥ずかしいことだったのかもしれないし、いきなり自分のことばかりを話しすぎてしまったのかもしれない。

 さすがに義務教育はやめずに通ったが、ピアノと体操は本当にすぐやめた。元々あまり教育熱心ではなかった両親は、そのあと他の習い事を私に勧めることはなかった。何の特技もないまま、もうすぐ三十になる。


 美空ちゃんとはSNSで出会った。きれいな空の写真をアップしている人がいて、プロフィール欄を見てみたら、友達の真紀の相互フォロワーだった。

 知り合ったのはもう三年ほども前だ。美空、というのはハンドルネームだ。たぶん。私はまだ、美空ちゃんの本名を知らない。


 美空ちゃんとしばらく歩いて、駅から少し離れたところの、マリブカフェというカフェに入った。前にネットで調べた店だ。平日の夜なのに混んでいて、少し待たされた。

 美空ちゃんは、ほかのお店のほうがよかったと思っているだろうか。真紀から少し遅れると連絡があったとき、私がまっすぐこのお店に向かってしまったから、言い出せなかったのかもしれない。そう思って少し心配になったとき、名前を呼ばれた。

 私はカフェオレ、美空ちゃんはミルクティーを頼んだ。真紀と三人で遊んだことは何度かあるけど、美空ちゃんとふたりになることはほとんどないから、私は嬉しかった。でも、何を話せば場が盛り上がるのかわからず、ついスマホに指をすべらせてしまう。

 先週、真紀と美空ちゃんがSNSのタイムラインで、水曜日だけデザート食べ放題のお店に行こうよと盛り上がっているのを見て、思い切って、いいなー、私も行きたいな、とリプライを送った。え、でも名駅だけど、いいの?真紀から来たメッセージは、そっけなかった。

 名駅というのはこのあたりの中心市街地である名香浜駅の略称で、私の職場からは三十分以上もかかる。真紀の職場も美空ちゃんの職場も名駅が最寄りだ。

 全然いいよー、と返事をしながら、真紀はもしかしたら、美空ちゃんとふたりでごはんに行きたかったのかもしれないな、と思った。ひとり遅れて行くのは嫌だったから、繁忙期に休日出勤したぶんの代休を取って、自宅の最寄り駅から早めに電車に乗った。


 「あっ、あのさ、そういえばさ」


 すぐ冷たくなってしまったカフェラテの、最後の一口を飲み干して私は言った。美空ちゃんは、窓の外を少しだけ見ていた視線をこちらへ戻して、うん、と言った。


 「あのさ、美空ちゃんの本名ってさ、なんていうの?」


 あ、もちろん嫌だったら言わなくてもいいんだけどさ、えへへ、と笑った声は、自分でも引くくらい高音だった。

 少しの間があって、美空ちゃんは口の端を少しだけ上げて、少しだけ、笑った。


 「え、今頃?」


 そのとき、お待たせ、と声がして、美空ちゃんの隣に真紀が座った。


 「ごめんごめん、もう、定時ダッシュのつもりだったのに、部長につかまっちゃって」

 「あぁ、あの部長?」


 二人は笑った。あの部長がどの部長なのか知らないまま、私は二人に向けて笑った。

 っていうかこっちのマリブカフェまで来てたんだね、駅の地下にも店舗あるのに遠くない?、と真紀が言うのを聞いて、私は、ああやっぱり別のお店にすればよかった、と思った。



 地元の駅は無人駅で夜は暗い。駐車スペースの中に、母の乗った軽自動車があるのを見つける。遅くなってごめん、と言いながら乗り込むと、いいよ、と母は言い、ゆっくりと車を発進させた。

 家に帰ると父はもう寝ていた。母ももう寝るというので、できるだけ音を立てないよう静かにお風呂に入った。

 両親とも夜は早いので、たまにとはいえ遊んでいて遅く帰るのは申し訳ない気もした。でも美空ちゃんは一人暮らしだし、真紀は実家住まいだが名駅のすぐ近くだ。私だけ少し家が遠いので、ひとりだけ早く帰ると言い出すのは気が進まなかった。

 私が遅く帰っても両親は叱ることはなかった。それどころか、夜道が心配だからと送り迎えまでしてくれる。

 とくに母は、友達と遊んでくるというと嬉しそうな顔すらした。私に友達ができたことに、安心しているのかもしれない。こんな歳なのに、服でも買いなさいと言ってお小遣いを渡してくれようとするときさえあった。

 真紀は大学の同級生だった。真紀はどちらかというと気が強くて、私とは正反対の性格だ。必修科目で同じクラスになって、なぜか仲良くなった。卒業間際にSNSでフォローし合ったこともあり、就職してからも連絡を取り合っている。というか直接やり取りすることはあまりないけれど、SNSでつながっているということは心のうちまで見えてしまうということで、私は勝手に真紀のことをよく知っているようなつもりでいた。

 でも、もしかしたら私は、真紀のことを勝手に友達だと思っているだけかもしれなかった。真紀が私に送るメッセージやリプライは、真紀が他の人に向けるそれよりずっとそっけない。

 それは、もう長い付き合いだから気を許しているのだと勝手に思っていたけど、ここ最近はたまに会うと、本当に小さなこと、たとえばランチに何を食べるかとかで私がなかなか自分の意見を決められなかったり、訊かれたことに的外れな答えを返してしまったりすることに、真紀はいら立っているのかもしれないと思うときがあった。


 部屋に戻り、中二からずっと使っているベッドの上に寝転がってSNSの画面を開いた。

 美空ちゃんの投稿を見ると、今日の空、というコメントと一緒に、綺麗な夕焼け空の写真がアップされていた。それを美空ちゃんがいつ撮ったのか、私は知らなかった。

 美空ちゃんはSNSで人気があった。彼女の投稿や写真は頻繁にアップされるわけではなかったけれど、お気に入り登録を示すハートマークがいくつもついたし、美空ちゃんがだれかにリプライしたり、タイムライン投稿に名前を挙げる「空リプ」でだれかの名を挙げたりすると、そうされた人は必ずその投稿をお気に入り登録やシェアしたり、リプライを付けたりして反応していた。それを見ながら私は、みんな、美空ちゃんに構ってもらいたいんだな、と思っていた。

 真紀もその一人だ。真紀は誰かの後ろにくっついていくようなタイプじゃなくて、でもそんな真紀が美空ちゃんへのリプライには絵文字や顔文字をたくさん使ったり、美空のこと大好き、というような内容を送ったりしていて、私はそれを、ふーん、と思いながら見ていた。真紀もそんなふうに、美空ちゃんに構ってもらいたいんだ。そう思って、見ていた。

 それなのに、美空ちゃんも、真紀のことを親しく思っているようだった。

 美空ちゃんの「空リプ」に私の名が挙がったのは、これまで一度だけだった。私はその投稿をシェアし、お気に入り登録し、すぐリプライした。

 タイミング悪く、私はそのリプライを美空ちゃんの、今日は早寝するー、という短い投稿とぴったり同じ時間に送信してしまい、その後、美空ちゃんはしばらくSNSにログインしていなかったようで、リプライが返ってくることはなかった。


 美空ちゃんと行ったカフェの、特にラテアートなどが施されているわけでもないカフェオレの写真を撮ったものを、アップロード手前の画面まで呼び出して色味調整の加工もして、結局、投稿せずにやめた。向かいに座った美空ちゃんのミルクティーのカップが少し映るような角度にした写真。

 美空ちゃんは私が一生懸命カフェオレの写真を撮るのを見ていたけれど、自分では一枚も写真を撮らなかった。

 起き上がり、今日地下街のお店で買ったスカートを袋から出した。お店の人に勧められたときはあんなにかわいいと思ったのに、部屋の蛍光灯の下で見たそれは少しペラペラの布に見えた。

 スカートをクロゼットの空いていたハンガーに吊って、眠ると、私が会計をして店を出たとき美空ちゃんと真紀が、わたしこの店ではほとんど買ったことないなあ、あたしも、と話していたときの夢を見た。



 毎朝の通勤は、田んぼと田んぼの間のだだっ広い道をまっすぐ行く。家に二台ある車の、軽自動車のほうを通勤に使わせてもらっていた。

 運転は得意ではない。通勤路はずっと二車線なので、まだ気が楽だった。海水浴などできない工業港の海沿いを少し走り、今はもう稲刈りも終わった田んぼの真ん中をしばらく走ると、工場や倉庫、鉄工所などが固まって建っている企業団地に差し掛かる。

 同じような建物ばかりで間違えてしまいそうになるので、いつも、半多製薬、と大きな赤字で書かれた看板を目印に曲がる。ずっと地元に住んでいるけど、こんな道があるということは就職するまで知らなかった。

 半多製薬はたぶん製薬会社なのだと思うけれど、どんな薬を作っているのか、私はいまだに知らない。

 半多製薬の広い敷地の隣、ウェルライフ西浦と書かれた小さなビルが私の職場だ。車椅子や介護用ベッドなど、福祉器具のリースを主に取り扱う会社。入社してから三年ほどは名駅の近くのオフィスで働き、その後、倉庫併設のこの営業所に異動になった。


 始業の朝礼を終えると、契約社員の三浦さんが、加藤さん、と私を呼んだ。


 「すみません、このリース更新のお客さま、機種がHの二番ってなってるんですけど、データベースでヒットしなくて」

 「あ、これね、たしかHHK二番っていうのが後継機だから、そちらで出てくるはず」


 すみません、ありがとうございます、と三浦さんはぱっと笑顔になり、業務用端末のほうへ戻って行った。

 営業のサポートや事務を担当する私たちの部署は正社員が少なく、部長と係長、私と同期以外は契約社員だ。その中でも三浦さんはまだ若く、結婚もしていないはずだった。

 契約社員の雇用はたしか一年更新だし、お給料も正社員よりずっと安いだろう。三浦さんはしっかりしているように見えるけど、何かあってきちんと就職できなかったんだろうか。いつも私は心のどこかでそう思ってしまっていた。

 でも、決して口には出さない。仕事で、少し調べればわかるようなことを尋ねられても、笑顔で答えるようにしていた。契約社員の人たちにうまく指示をしてスムーズに業務を進めるのも、正社員の大事な仕事だと思っているから。


 席に戻ると、机の上に付箋のついた書類が置いてあった。見ると、私が作ったものではない。係長の字で数値が正されており、間違って置かれたもののようだった。

 担当者欄の名前を見て、私はその場で立ち上がる。


 「菜々美ちゃん」


 呼ぶと、向かいのデスクでパソコンに向かいながらマグカップでなにか飲もうとしていた菜々美ちゃんが顔を上げた。


 「ごめんこの書類間違ってたっぽいんだけど、直して回してもらってもいい?」

 「あ、ごめん」


 よろしく、とだけ言ってデスク越しに書類を渡す。少しきつい言い方になってしまったからか、菜々美ちゃんはちょっと緊張したように表情を曇らせて席に座りなおした。ちょろい仕事してんじゃねえよ、と私は心の中だけで毒づいた。

 菜々美ちゃんは同期で、とてもいい子だけれど、私は時々、菜々美ちゃんの仕事のやり方が少し抜けているように思えて納得できないときがあった。

 部長も係長も穏やかな人柄なので、きつく言うようなことはまったくなかったが、それもまた私をイライラさせた。

 管理職を除けば部署にたった二人の正社員なのに、ちょっと頼りにならない。表向きは仲良くしていたけど、こういうときはいら立ちが声に出てしまった。

 申し訳ないと思いながらも、どこかで仕方のないことだとも思っていた。それは、私が仕事に対して、少しは自信を持てると思っているからかもしれない。部長にも課長にも、加藤さんはしっかりやってるね、と言ってもらえていたし、契約社員の人たちも私のことを頼りにしてくれていると感じられた。会社は、私にとって初めて、集団の中で認めてもらえたと思える場所だった。


 昼休みはデスクでお弁当を食べることにしていた。休憩室もあるのだが、なんとなくうるさくて落ち着かない。それに、自分のデスクを持たない契約社員の人たちは皆休憩室でお昼を食べるから、あまり仲良く話しすぎては、仕事をするときにダレてしまうのではないかと思っていた。

 お弁当は母が作ってくれる。自分で作らなければと入社してしばらくは頑張っていたけど、朝が苦手でギリギリにしか起きられなくて、やめてしまった。

 歯ブラシを持ってトイレに向かう途中、休憩室の横を通る。菜々美ちゃんが、契約社員の三浦さんや松岡さん、深尾さんたちと談笑しながらお弁当を広げているのが見えた。

 菜々美ちゃんはいつも、昼休みが終わる直前に席に戻ってくる。私は、いつも十分前には仕事を始めるようにしていた。


 歯磨きから戻るとき、ロッカールームで菜々美ちゃんと三浦さんがまだ話をしていた。すいませーん、と小さな声で言いつつ後ろを通って、自分のロッカーに歯ブラシセットとお弁当袋をしまう。

 菜々ちゃん、こないだ言ってたベトナム料理のお店いつ行く、と三浦さんが言った。

 菜々美ちゃんは私と同い年のはずだ。三浦さんがタメ口で話したことを意に介する様子もなく、えー、いつでもいいよ、まおちゃんいつ空いてる?、と言って、うふふ、と笑った。


 「なっちゃんも誘おうと思ってるんだけど」

 「あ、いいねー、グループラインするよ」


 黙って二人の背後を通りロッカールームを出た。三浦さんが、まおちゃんという名前だということを私は知らなかった。なっちゃん、というのが誰のことなのかも知らない。もちろん、誰のラインのIDも。



 美空ちゃんと真紀とまた遊ぶことになったのは、もう冬の気配が近づいてくるころだった。

 地元の冬は晴れて乾燥していて、風が強い。冷たい向かい風に吹かれると、小学校や中学校のとき、ただでさえ気が進まなかった登校が余計に嫌だったことを思い出す。

 名駅から快速電車に乗って、隣の隣の市の繁華街まで行った。真紀が買いたい本があると言ったので大きい本屋に行き、そのあと、百貨店や地下街を歩いた。

 名駅よりもっと訪れる頻度が低いこの駅の地理はまったくわからなくて、美空ちゃんも真紀も特別に歩くのが速いわけでもないのに、私がひとり後ろにはみ出すような形になってしまう。ショルダーバッグの中で、朝、うっかり500ミリリットルを買ってしまったお茶のペットボトルが重かった。


 しばらく歩いて、ハンバーガーショップに入った。私が先にバーガーとポテトとドリンクのセットを頼んだその瞬間、後ろで真紀が、あたしあんまりお腹減ってないし、ちょっとでいいや、と言うのが聞こえ、美空ちゃんが、あー、わたしも、というのが聞こえた。

 二人はポテトの小とドリンクだけを頼んだ。私だけが、山盛りのポテトと、大きなチキンバーガーを前にした。


 バーガーを半分食べたところで、ふっと苦しくなって、手が止まった。こちらを見た美空ちゃんが少し笑って、言った。


 「おなかいっぱいになっちゃった?」


 そんなことないよ、と私は笑い、残りのバーガーにかじりついた。


 テーブルの上に置いた真紀のスマホがピコンと音を立てた。SNSの投稿を誰かがお気に入り登録した音だ。

 真紀はスマホのロックを解除して通知を見、なんだルリか、と言って、ぷっとロックボタンを押して画面を閉じた。

 すっと背中が冷たくなる。ルリちゃんのことは私も相互フォローしていた。実際に会ったことはない。私の投稿をよくお気に入り登録してくれたりリプライをくれるので、最近わりと頻繁にやり取りするようになった子だ。

 ルリちゃんは真紀にも同じようにリプライしていたが、真紀の返事は、そっけなかった。私はそれを見て、ルリちゃんは真紀に構ってほしいけど、相手にされていないんだな、と思っていた。

 そういう優先度は、どこで決まるんだろう。冷めてしまったポテトをコーラで流し込みながら、私は、もしかしたら私のいないところで真紀の投稿に私からの通知が届いても、真紀は画面を閉じて、なんだヨリコか、と言うのかもしれないな、と思った。


 二人と別れて、地元へ帰るローカル線に乗る。コーラもLサイズを頼んでしまったからかトイレに行きたくて仕方がなく、脚の付け根にきゅっと力を入れた。

 私は、SNSで人気者の美空ちゃんが羨ましく、美空ちゃんと親しくしている真紀のことも羨ましかった。仕事では少し抜けているのに契約社員さんたちとタメ口で会話したりご飯に行ったりすることができる菜々美ちゃんのことも、羨ましかった。だれかと仲良くなれる人たちのことを、羨ましくて仕方なかった。でも、羨ましいと思えば思うほど、そして、羨ましいといつも思っている限り、だれとも仲良くなれないままだとわかっていた。



 年末が近づくと、なんとなく業務も慌ただしくなる。少し残業して帰宅すると、妹が帰ってきていた。妹は早くに結婚して、隣の市に住んでいる。

 居間に入ると妹の娘の望実のぞみちゃんがぴょこんと立ち上がって、よりこねえちゃん、こんばんは、と言った。

 保育園の年中か年長だっただろうか。こんばんは、と返しながら、すごいな、と思う。私は小学校を卒業するころまで、親戚の人にうまく挨拶をすることができなかった。


 夕飯はエビフライだった。仕事から帰った父も一緒に食卓を囲む。父と妹はビールを注ぎ合って飲んでいた。


 「直樹さんは?」

 「金曜まで出張、っていうかナオよりねえちゃんの方が年上だし、さん付けしなくていいのに」

 「まあ、そうだけどさ……いつ来たの?」

 「今日の午前中、二泊するからよろしく」


 妹は書店でアルバイトをしている。シフト制だから、事前に申告すれば比較的休みは取りやすいのだと言っていた。


 「のんちゃん今日どっか遊びに行ってきたの?児童館とか行った?」


 つとめて明るく言うと、望実ちゃんは一瞬の沈黙のあとううんと首を横に振り、パワードーム行ったよ、と近所のショッピングモールの名を挙げる。え、と妹が言った。


 「児童館って、小学校の近くにあったあそこ?」

 「うん、そうそう」

 「めちゃ懐かしいじゃん、っていうか、あの児童館もう取り壊されたの知らんかった?」


 エビフライを噛みながら、へえそうなんだ、と私は返事をした。田んぼと道路の間の三角地帯のような敷地に建っていた、庭に大きな石のすべり台のあった児童館のことをぼんやりと思った。

 小学校五年生のとき、その児童館でお祭りがあった。隣のクラスの友達と行く約束をしていて、とても楽しみにしていた。

 それなのにその日の朝、友達から「お母さんが風邪をひいてしまったので行けなくなった」と電話があった。しかたがないので、私は妹を連れて児童館へ行った。

 児童館にはクッキーやみたらし団子の屋台、バザーのコーナーなどもできていて気分が盛り上がった。クラスの友達に遭遇した妹は、遊戯室にあるトランポリンで遊ぶと言って行ってしまった。

 みたらし団子を片手にひとりで外へ出ると、石のすべり台の根元で、電話をかけてきたその友達が、ほかの友達と遊びに来ているところに出会った。

 私はすごく怒って泣いて、友達は、ごめん、だって、お母さんの風邪治ったからさ、と言った。

 私は妹を置き去りにして家に帰り、帰ってなお癇癪を起こして泣いた。どうして泣いているのと母に何度も尋ねられたが、本当のことは言えなかった。妹は、たぶん自力で帰宅した。

 友達もまだ子どもだったから、約束がブッキングしてしまった末の、苦肉の策だったのだと思う。私のほうが、優先度が低かったという、それだけだ。

 その友達の名前は、のぶこちゃんといった。のぶこちゃんとは家が近所で、小学校を卒業するまではよく一緒に帰ったりしていた。

 中学校になって、のぶこちゃんはギャル系の女の子たちのグループに入り、いつしか廊下で会っても挨拶もしないようになった。

 パドかあ、と、子どものころよく使っていた呼び名で言うと妹は、その言い方もなんか懐かしいね、と言って笑った。


 食後、ケーキ買ってきたんだ、と妹が冷蔵庫から箱を取り出した。車でここまで来る途中に寄ったのだろう、ふだんあまり行かない人気店のパッケージ。


 「えー、かわいい、私、これ、このクマのやつがいいな、」


 テンション高く言ってしまってから、私が指さした熊の顔の形を象ったチョコレートケーキを、望実ちゃんがじっと見ているのに気が付いた。しまった、と思う。のん、いいの?、と妹が言うと、望実ちゃんはにこっと笑った。


 「うん、よりこねえちゃんにクマあげる!」


 えっいいよいいよ大丈夫だよ、のんちゃんクマ食べたかったんでしょ私知らなかったんだよ、クマ食べたくて買ったんでしょごめんね、ごめんねいいよ、と何度も言って、モンブランをお皿に取って逃げるように部屋に上がった。

 息を殺してしばらく階下を伺ったけれど、望実ちゃんが泣いたり怒ったりする様子はなく、楽しげな話し声がかすかに聞こえていた。


 モンブランを載せたお皿を机の上に置いて、スマホで写真を撮った。カメラアプリで少しレトロな色味に加工する。

 妹も、むかし、学校へ行きたくないと泣いていた。ふたりともお腹が痛いと言って学校を休んで、アニメのキャラクターカードを交換し合う「カード交換」をしていたら、それしてる元気あるなら学校行きな、と珍しく母に叱られた。

 いつからこうなってしまったのだろう、と思った。それは妹が何かになってしまったのではなく、私だけが、何にもなっていないのだろう。


 ノートパソコンを立ち上げ、SNSの画面を開いた。スマホでも同じ画面を開き、ケーキの画像を投稿しようとして、私は美空ちゃんの書き込みを見つけた。時刻は、つい三十分ほど前だった。


   このアカウントはもう少しで削除します。

   環境が変わったりして、新たな場所に行くことになったので、心機一転。

   今まで仲良くしてくださったフォロワーさま、ありがとうございました!


 え、と思わず声が出た。モンブランをフォークで刺し、半分ほどを一気に取りほおばった。甘いクリームと生地を噛みながら、その投稿を何度も読んだ。

 私は、美空ちゃんの新しいアカウントを知らなかった。美空ちゃんにどんな変化があり、どこへ行くのかも。

 フォロー欄を辿り、おそらくそうだろう、というアカウントは見つけた。真紀のアカウントが相互フォローになっている。そのアカウントは、承認されないとフォローできない「鍵アカウント」で、私は一時間ほども悩んで、フォローリクエストのボタンを押した。

 少ししてピコン、と音が鳴り、私は飛びつくようにスマホを見た。それは、しばらく前の私の投稿をルリちゃんがお気に入り登録した通知だった。私は画面を開くことなく、ロックボタンをぷちんと押した。

 夜中まで待ったが、フォローは承認されなかった。エアコンもストーブも点いているはずなのに、足もとが冷えた。美空ちゃんの人生に、私はいなかった。美空ちゃんの古いほうのアカウントには、夕方の書き込みに一つ追記の投稿がなされていた。


   切り捨てる人間関係もあるけど仕方ない。

   本当に大切なものだけ、持って行く。

   どこかへ行こうと思えば、そのくらいの強さは必要なのだから。




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優先度の低い人 伴美砂都 @misatovan

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