第72話 君とバックドロップ

「ちょっと、大丈夫なんですか?」俺は心配そうに昌子の様子を見る。しかし、彼女の表情は思ったよりも落ち着いているようであった。


「何かありそうね・・・・・・」綾は真剣な顔でリングを見つめている。その顔は完全に仕事に没頭するビジネスマンの顔であった。辺りのスタジオの選手達もリングに釘付けになっているようだ。


 後で聞いた話なのだが、あの久保という社長は現役の選手として活動もしており、海外のタイトルも奪取したことのある。女子プロレス界では有名な存在だそうだ。


 リングネームは『ユウキ』で人気レスラーとして活躍しているそうである。そんな彼女とスパーリング出来るなんて、彼女に憧れてこの世界に入ったような者なら夢のようなことなのだろう。


 それを、片手間でやっているようなタレントの卵がそのチャンスを物にするなど、彼女達にとっては鼻もちならないのであろう。昌子を見る視線が冷たく感じた。


「好きなように掛かってきなさい!」有紀は両手を前に構えて昌子をあおる。


「はい!」元気よく返事をすると、足を交差して前にでると綺麗な回し蹴りを繰り出した。


「えっ!」その蹴りを見て俺は正直驚いた。俺もずっと空手を続けているので、ある程度の技を見極める事が出来る。昌子が繰り出した蹴りは、何年も修行した者が体得したような本物の蹴りであった。彼女が格闘技を学んでいたという話など聞いたことのなかった俺は目を見開いた。


 昌子の繰り出した蹴りを有紀は見事に両手でさばいた。そしてその軸足を刈るかのように蹴り昌子はマットの上に落ちる。しかし隙を見せないようにバネのように体をしならせるとジャンプして立ち上がった。そのまま体を捻りながら飛び上がって後ろ回し蹴り、その尋常じゃないジャンプ力に俺も他の選手達も感嘆の声を上げる。


 有紀は嬉しそうに昌子の蹴りを交わすと、彼女の背後に入り腕を絡め取り関節を決める。一瞬、昌子の顔が苦痛に歪むが、宙を舞うように体を回転させて、その関節技から逃れて距離を取る。


 そして二人は少しの睨み合いを続ける。痺れを切らせたのか有紀が前に出て昌子の両手を掴み力比べのように激しく詰め寄る。昌子も負けないように力を込めているようだ。しかし、有紀のほうが一枚上手のようで、昌子は押しまけるようにマットの上に膝をつく。その瞬間、有紀は昌子の背後に入って、腹の辺りを両腕で抱え込んで、ブリッジの姿勢になるようにして昌子の体を投げた。所謂、バックドロップというやつである。


「昌子!!」俺は立ち上がって彼女の名前を叫んだ!昌子は立ち上がれない様子で、リングの上を転がっている。


「ねえ、綾ちゃん!この子、私にくんない!」ロープに凭れながら有紀は嬉しそうに綾におねだりをする。


「だ、駄目よ!あげない!!」なぜか綾をしっかりと俺の腕にしがみついている。


「いや・・・・・・・、それはいらない・・・・・・・、昌子ちゃん!この、本格的にプロレスさせてみない!きっと私がチャンピオンにしてあげるよ」有紀は嬉しそうに歓喜の声を上げる。いや、それにしても俺の扱い悪くない・・・・・・・・。


「う、ううん・・・・・・」昌子が首を振りながらゆっくりと立ち上がる。彼女のその姿を見てスタジオ内から拍手が鳴る。本気でプロレスラーを目指す彼女達にとっては実力がなによりも一番の証なのであろう。昌子は有紀との試合でやっと皆に受け入れられたのかもしれない。


「駄目よ!昌子ちゃんはうちの大事なタレントなんだから・・・・・・・、いくら有紀ちゃんの頼みでもあげない!」綾は年甲斐もなくアカンベーをした。


「なによ!ケチ!!ふん!」有紀も少し不貞腐れたような顔を見せる。


「えっ・・・・・・・」リングの中央で、昌子がキョトンといた顔をしている。どうやら当の本人は一体何が起こっているのか全く分かっていない様子であった。


 ひとまず、昌子の様子が大丈夫なようなので、俺は溜息と一緒に胸を撫でおろした。

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