東洲斎江戸日和(その10)
泪橋のお役者目明し浮多郎に、めずらしい客があった。
先手組の小頭の重野清十郎が、着流し姿で現れた。
中に招じ入れようとすると、重野は、「火頭としてではなく私人としてやって来た」
というので、泪橋のたもとで話を聞くことになった。
「組内に不穏な動きがある」
思い川の夏枯れした細い流れを見やりながら、重野はぽつりといった。
重野の下に箭内謙作という部下がいるが、どうも組内の若手らと語らって勝手に動いているという。
「謙作は、ここ二日ほど怪我をしたといって出仕していない。若手にたずねても何も答えない。いまいち釈然とせん。漏れ聞いた話では、『瓦版がけしからん』と、しきりに憤慨しているそうだ」
重野は、懐から瓦版を取り出した。
上段に富籤の当り番号、中ほどには紀伊国屋文左衛門が花魁を侍らせて花見をする錦絵が摺り込んであった。
浮多郎はひと目見て、これは写楽こと東洲斎の手であることがすぐに分かった。
「この紀文花見の図の、どこが『けしからん』のでしょうか?」
素知らぬふりをしてたずねると、
「分からん。この春の谷中感応寺の富籤興行の当り番号ではない。よく見ると、『感応寺』ではなく『惑応寺』とある。何か陰富とからんでいるかもしれん」
重野は、ひそかにこの箭内という男をさぐってくれという。
―家に帰って、養父の政五郎に瓦版を見せると、
「ははあ、惑応寺ねえ」
と、しきりに何か思い出そうと首を捻った。
「そうそう、感応寺の富籤興行のあとしばらくすると、この惑応寺の陰富がある。三文で買った当り籤が十六文ほどに化けるだけなので、お上もたいして目くじらは立てないが・・・」
「惑応寺ってどこにあるんで?」
浮多郎がたずねると、
「あはは、・・・そんなお寺はないよ。目くらましさ。瓦版売りが口上をいって陰富を売り歩くのだ」
政五郎は、世間を知らない息子を笑った。
―箭内謙作は駿河台の旗本屋敷に住んでいた。
重野によれば、若い謙作は大身旗本の次男の部屋住みで、駿河台から清水門外の先手組へ通っていた。
浮多郎は下っ引きの与太とともに、箭内家の門が見通せる駿河台の坂下で見張った。
ある日、日が傾きだしたころ、若い侍がふたり坂を登って門に吸い込まれていくのが見えた。
しばらくすると、顎の下を包帯で巻いた鬼瓦のような武骨な侍が若いふたりの侍を引き連れて坂を下りて来た。
あわてて路地に隠れて、三人をやり過ごしてから後をつけた。
一行が、駿河台下から和泉橋を渡って神田に入り、玄冶店近くへ来ると三人の侍は黒覆面を被った。
浮多郎は、すぐさま清水門外の先手組へ与太を走らせた。
辺りはすでに薄暗くなっていた。
三人の侍の狙いは、どうもこの先の二階造りの町屋のようだった。
半時ほど暗闇が一帯を覆うのを待って、三人はかねて用意の縄梯子を黒塀にかけてよじ登りはじめた。
浮多郎は、足元の二三の小石を拾うと、二階の障子戸めがけて投げつけた。
障子戸が開き、町火消の装束をした大男が顔を出し、足を欄干に掛け、手にしたガンドウで下を照らした。
門の木戸を十手でこじ開けて、左手の枝折戸を押し入った先が坪庭だった。
廊下に並べられた雪洞に灯りが点り、庭を煌々と照らしていた。
雪洞の裏から町火消の衣装の一隊が現れ、鳶を槍のように突き出した。
ひとの気配に振り向くと、髭面の東洲斎が浮多郎の横をすり抜けて、坪庭に入った。
「おのれ東洲斎、謀ったな!」
箭内謙作が叫んだ。
「いつぞや、『飛んで火に入る夏の虫』と拙者を嘲ったが、そのままお返ししよう」
東洲斎が一歩踏み込むと、謙作は長刀を抜き上段に構え、さらに一歩を踏み出すと、唸りを上げた謙作の長刀が頭上に降って来た。
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