東洲斎江戸日和(その5)

早朝、蔵前の米蔵の岸から大川に突き出た首尾の松で、男が首を吊って死んでいると、吉原からの朝帰りの粋人を乗せた屋形船の船頭が届け出た。

定町廻り同心の水島源五郎が、見回りの経路を変えて浅草御蔵に立ち寄った。

たしかに、若い町人が大川に突き出た枝に吊り下げられ、大川を渡る爽やかな朝の風にぶらりぶらりと揺れていた。

水島同心は、小者とふたりでやっとこさ首吊り死体を降ろし、松の根元に横たえた。

その懐からはみ出した紙を取り出すと、・・・上段には富籤の当り番号が並び、中段から下段には、花魁を侍られせた紀文の花見の錦絵が印刷された瓦版だった。

―同じころ、『御蔵の先の駒形町のしもた屋で、女が殺されている』と、番屋に届け出があった。

こちらは、岡埜同心が急行した。

たしかに、襦袢ひとつの女の喉に、匕首が突き立てられていた。

届け出た職人によって、この駒形町の家の住人は、錦絵の摺師の長次と知れた。

裏庭に小屋を建て、そこを版画の印刷工場に使っていて、この職人は田原町から通っているとう。

さらに調べると、女は長次の長年の馴染みの浅草寺裏の銘酒屋の酌婦と分かった。

―「長次が女を家に呼び寄せて心中を図り、喉を突いて死ぬのを見定めてから、じぶんは首尾の松で首を吊ったというのが、源五郎の見立てだ」

三ノ輪の吉田屋の蕎麦を食べにやって来た岡埜は、そんなうちわの話を披露した。

それ以上のことはいわず、女将の酌で盃を重ねる岡埜には、浮多郎が首を突っ込んで来るのを待っているような気配があった。

だいいち、蕎麦のおいしい吉田屋の女将に愛嬌があるからといって、八丁堀からわざわざ出張って来る、その魂胆が分からない。

「その酌婦は、しじゅう長次の家にやって来たのでしょうか?」

「いや、職人によれば、はじめてらしい。長次は、蔦屋の頼みで写楽の大首絵も手掛けた腕のいい摺師で、仕事はしきも切らずあって、この若い職人は毎夜宵五ツまでいっしょに働いていたそうだ。女が来たのは、おそらく真夜中近くだろう」

「岡埜さまの見立てでは、この女が自死したのは間違いないと・・・」

浮多郎がこれを口にするのを待っていたかのように、岡埜はニヤリと笑った。

「俺が女を見た時、仰向きの喉に匕首が突き立てられたままだった。両手はだらりと下げてな。どうもじぶんで匕首を握った形跡がない」

「女を殺してから、長次は首尾の松で首を吊った。・・・無理心中というやつですか?」

酒の勢いのせいか、だいぶ調子が上がってきた岡埜は、

「もうひとつあるぞ。女の陰門に指を突っ込んで男の精を掻き出そうとしたが、これが一滴も出てこない。男と女は心中の前に盛大にやらかすからな」

そういって、女将の前に太い中の指を突き立てた。

・・・顔を真っ赤にした女将は、「ひえっ」と、大げさにのけ反った。

「もうひとつあるぞ」

きょうの岡埜は、出し惜しみする。

「源五郎に聞いたら、首を吊った長次の草履が松の根元になかったそうだ。だいたい、首を吊ったり、水に飛び込むやつらは、履物を揃えてからやらかす。空を飛んであの世とやらに行けると思っているので、履物は不要ということだ」

女将は、ケラケラと笑い転げた。

・・・これはお追従笑いだろう。

浮多郎はクスリとも笑わず、

「無理心中というよりも。何者かが女を殺し、長次を拉致して首尾の松まで運び、枝にぶら下げた。・・・岡埜さまは、そうお考えで」

というと、岡埜は得たりや応と腕まくりした。

「だだ、女を殺して気が動転した長次が、裸足で首尾の松まで行ったことも考えられる。だが死のうと思えば、駒形のすぐ裏は大川だ。そこへ飛び込めば簡単だ。しかし、・・・」

「しかし、何でしょうか?」

浮多郎が合いの手を入れると、

「長次の足の裏は土で汚れていなかった。あの夜は、暮れ六ツ前に激しい夕立があった。辺りは泥の海だったはず」

「その酌婦の足の裏はどうでした。だいいち、履物は土間にあったのでしょうか?」

岡埜は意表を突かれたのか、口をぽかんと開け、やがて悔しそうな顔になった。

それには答えず、「こいつが、長次の懐にあった」と、岡埜は懐から瓦版を取り出して畳に置いた。

浮多郎も同じ瓦版を、懐から取り出して並べて置き、

「やはり、偽装心中で殺された聖天稲荷裏の要蔵が、まったく同じ瓦版を売り歩いていたようです」

懐から取り出して並べて置くと、岡埜の開いた口はさらに大きくなった。

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