第88話 名前をかかれた美少女は、僕におまじないを求めたい
「おはよ柚、なにやってるの?」
「漢字練習。おはよ」
彩香さんの挨拶におざなりに答え、ペンを走らせる。
みんなも経験があるのではなかろうか。テスト当日にテストの存在を知り、慌てて勉強を始めること。まさに今、僕はそれの境地にいる。
今日は漢字テストの日だ。そしてそれを僕は今日知った。
もうこれは『ヤバい』の一言に尽きるのだ。
ということで僕は家から持ってきた新品の一センチ方眼ノートの紙に右手に持つ2Bの黒鉛で荒く溝を彫るように、教科書の漢字という名の記号を手で覚えているのである。
おかげで右手は真っ黒だ。
「ふ~ん……」
彩香さんは興味なさげな音を出し、はぁ、とため息を吐いた。
ちょうどそこで一単元が終わり、軽く一息つこうと顔を上げると彩香さんの顔が目の前にあった。
「うぎゃっ」
ビックリして仰け反ると、彩香さんはクスクス笑い、彼女なりの気遣いだろうか、いつもなら意地の悪い顔でからかってくるのだが、何も言わず前を向いた。
どうやら、僕の勉強を邪魔することは本望ではないらしい。
その気遣いに甘んじて勉強に戻ろうとする。
——でも彩香さんという存在は、僕にとっては何をするにも最大の障害物となる。事実、僕はさっきまで覚えていたはずの漢字という名の複雑な記号を全て忘れてしまっていた。
そして勉強に対するやる気も失っていた。
頭の中は彩香さん一色だ。
それもこれも全部彩香さんのせいだ。
半分筋が通っていて、でも半分は理不尽な責任転嫁をした僕は、乱雑な字で埋め尽くされたノートの数ページをめくり、表紙裏にたどり着く。
そこには名前シールや背表紙シールがずらりと並んであった。
そういえば小学校でこのシールを背中にこっそり貼り付けるゲームがはやってたなぁと思い出す。僕はその流行に一切乗れなかったけれど。
顔を上げる。赤シートをペラペラさせながらブツブツ英単語を呟く彩香さんがいる。悪戯心が芽生えてから実行に移すまで三秒もあれば十分だ。
筆箱からマジックを取り出した僕は名前シールに柚木と書き、バレないようにこっそり彩香さんの背中にシールを近づけて――
「勉強中ごめん。柚、この発音記号って――ん?」
ちょうどそのタイミングで彩香さんが僕の方を向き、僕が貼ろうとしたシールは彩香さんの白い頬にペタッと張り付く。
あ、と思っても、慌てて手を引いて何気ないのを装っても、もう遅い。彩香さんは頬に手をやり、シールをなぞって僕を見た。
そして僕のノートを見やり、首を傾げる。
「シール?」
「う、うん……。背中に貼ろうかなぁ~って」
「そ。なんて書いたの?」
「え?」
「貼ったの名前シールでしょ? なんて書いたの?」
彩香さんはシャーロック・ホームズの末裔だろうか。
シールが一枚減ったノートの表紙裏と机の上のマジックを見ただけで考察がそこまでたどり着くなんて……。
かもね、と彩香さんは僕のココロの声に返し、スマホを取り出した。スマホの自撮り機能で確認する気らしい
そこで気がつく。
僕は名前シールに『柚木』と書いた。それを彩香さんに貼った。それってまるで――
「柚、木……柚木? あ、一瞬誰かと思っちゃった。柚か」
僕が焦っているうちに彩香さんがスマホカメラで文字を読み上げてしまう。本名を忘れられたことに悲しさを通り越して呆れてしまう。
そこで彩香さんは一瞬首を傾げて、からかいポイントに気づいてしまったのか、あぁ、と呟いてにやりと笑った。
当然、いたずらの発端は僕なので、漢字の勉強中だから、なんて言って逃げられるわけもない。というか普段の彩香さんなら、人が勉強していようがなにしていようが無遠慮に話しかけてくるのだ。
——あぁ、一年生の頃はもっと遠慮がちだったのにな……。
「へぇ、私に名前つけて何がしたかったの? 私に首輪つけて校内散歩とか? これは僕のものだ~ってみんなにアピールしたかったの?」
「そ、そんなことするわけないじゃん! ただ遊びのつもりで僕はっ……」
「嘘、私にマーキングしたかったんでしょ。柚ってば女子のほっぺに名前シールつけて独占欲晴らすタイプなんだ〜。へぇ~」
「違うよ! そんなわけないじゃん!」
僕の弁明むなしく彩香さんはニヤニヤ、その下では嬉しそうな笑みで頬のシールをさする。小悪魔な彼女の中にうすらと混ざった清純さがこれまたずるい。
僕がそんな彼女に見惚れている間に、彼女は僕の机からノートとマジックを奪った。
キュッキュッと鳴るマジックに僕は我に帰り、戦慄を覚え、彩香さんの意図を悟る。逃げよう、そう思った僕は席を立って――
「座ってて。逃げたら私、みんなに言いふらすから。私は柚の所有物ですって。私はもう柚なしでは生きていけない体にさせられました。私は柚専用の——」
「っ――ズルいぞ彩香さん! 脅迫罪だ!」
「べっつにぃ? ことの発端は柚でしょ?」
そう言われると何も言い返せなくなる自分が恨めしい。こんな事態になってしまったのは全て僕のくだらない悪戯心のせいだ。クソっ。
「じゃあ柚のその悪戯心に感謝しないと。ほら、顔上げて」
観念した僕は席に腰を落とし、言われたとおり顔上げた。
彩香さんは僕に、いつもより比較的綺麗な文字で『彩香』と書かれた名前シールを見せる。
「大事なものにはちゃんと名前、綺麗に書かなきゃだめだから」
「うっ――……は、肌かぶれるから、やめない?」
「それは私もそう。じゃあほっぺに直接書いた方がいい? 油性だから落ちるのに三日かかるけど」
彩香さんは脅すようにそう言って、首を横に振った僕の頬に有無を言わさずシールを貼り、上からシールをなぞってしっかり貼り付ける。
くすぐったさに身をよじると、彩香さんは僕の机に乗り上げて追いかける。そしてじーっと僕を見た。
そしてカメラを構え、フラッシュのまぶしさに僕が目を細める間もなく、パシャリと一枚。
遅れてぎゅっと目を瞑った僕は、頬にふわりと柔らかい感触を覚える。目を開くと、彩香さんは赤い顔でにししと笑った。
確かに彩香さんの唇の感触を頬に覚えた。そのはずだ。
彼女は言う。
「大事なものに名前を書いて、あるおまじないをすると絶対になくさなくなるそうです。さぁ、なんでしょう?」
「さ、さぁ? 写真撮るとか?」
「不正解。柚ってバカ?」
「バカじゃない! 答えは知ってる!」
「じゃあ言って」
「うっ……わかんないよ……」
彩香さんの策に溺れまくりな僕はうつむいてそう呟いた。
未だ感触が残る頬に触れると、そこに熱を感じる。
彩香さんはニコニコして、思い出したようにスマホをまた立ち上げた。
「――ん、そうだ。柚、ピースして?」
「な、なんで?」
「ツーショット撮ろ? せっかくのおそろいだし」
くるりと身を回した彩香さんは僕の机の上からパルクールのように滑らかに僕の真横に着地し、衝撃を抑えるため軽く曲げられた膝をそのままに、中腰の姿勢で僕らの前にスマホを横向きに構える。
画面の中には頬に柚木と書かれた彩香さんと、彩香と書かれた僕がいる。彩香さんはスマホを持ってない方の手でピースを作る。
画面越しに目が合うと離せなくなってしまった。
「はい、チーズ」
素早い展開に頭がついていかず、シャッターを切るお決まりの合図に脊髄反射でピースを作った。
――そう、言い訳しておく。
決して、恥ずかしい思い出も悪くないな、なんて思ったわけではない。
「ん、ちゃんと撮れてる。ねぇ柚」
「な、なに?」
「恥ずかしいならシール、もう剥がしてもいいよ」
言いつつ、彩香さんはスマホを鞄に投げ入れて席に戻る。
ふと周りを見ればいくつもの生暖かい視線が僕を突き刺していた。恥ずかしさに、シールを勢いよくビリッと剥がす。少し痛い。
それを丸めようとして――なんとなく、もったいなく感じて左手の、小指の隣の指に巻き付けておいた。
その意味は知っている。恥ずかしくて、嬉しくて、そんな自分がキモく感じて、でも剥がせなかった。
ふと前を見れば、単語帳を片手にのびをする彩香さんがいて、彼女はまさか僕に聞かれてないだろうと、こう呟いていた。
「柚におまじないしてほしいのにな……」
*
この日の放課後。
真っ赤な顔をした男子生徒が一人、教室から走り出てくる。
彼が出てきた、日の入りが早くなって暗くなった教室の中には一人、女子生徒が頬を赤らめて立っていた。
「えへへ……久しぶりにほっぺにちゅーされちゃった……」
呟いた彼女は、顔を手で覆い、指先で彼の唇の感触が残る頬に、そのシールの上をなぞる。おまじないをされてしまった。これでもう、私は彼の所有物として一生を過ごさねばならないのだ。
そんな、高校生にしては行き過ぎた妄想を抱えながら先に出て行った男子生徒のリュックに触れ、恥ずかしがり屋な彼の帰りを待っていた。
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