第68話 リンゴの皮むく美少女は、僕の親指を止血する




「柚、意外とうまいね……」

「そうかな? ありがと」


 彩香さんの感嘆の声に努めて冷静に答えつつ、嬉しさで跳ねそうな心臓を落ち着かせ、柱に背中を預けるようにして彩香さんに向き直り、リンゴの皮むきを続行する。

 そう、リンゴの皮むき。包丁をリンゴの表面に薄く当て、リンゴをくるくる回転させるだけの簡単なお仕事。


「ちょっ! これピーピー言ってるぞ! 大丈夫か!?」

「————!? ——!」


 彩香さんの奥で、することもないのに蒸し器の前であたふたしている二人――真白さんと波賀崎くんを見て僕は首を傾げる。

 両手をあげてウロウロ小走りする人、初めて見た。

 彩香さんは僕の視線を追って振り向き、僕に目を戻して肩をすくめた。彼女の手には僕と同じくリンゴがある。


 そう、調理実習の授業である。


「真白さんは財閥のお嬢様だし、波賀崎くんに関しては彼が普通だから。柚はすごいよ?」

「そうかなぁ……?」

「そ。お喋りのついでに皮むきが出来るのは凄いことだから」

「へへっ、ありがと――……あぢっ!」


 褒められた僕は気恥ずかしくなって、笑いながらお礼を言った。その次の瞬間のことだ。


 さて、ここで時間を停止しよう。状況説明開始だ。

 僕は褒められたことで調子に乗ってしまった。——そういう人間なのだ。褒められると、調子に乗るヤツだ。

 すると手元がおろそかになってしまった。手が滑り、包丁が予定よりも大きく進み——その結果、終点である僕の親指に軽い切り込みを入れる。

 鋭い痺れが指先を走り、悲鳴が口から漏れる。

 僕は痛みを我慢して、なんとかリンゴと包丁をまな板に戻した。


 この間、数秒もなかったと思う。かなり素早い動きだった。


「あっ、バカッ! つっ――!」


 彩香さんはそんな僕を見て声を上げる。すると彩香さんの手元もおろそかになり、包丁が彩香さんの親指に赤い筋を描く。

 痛みに顔をしかめた彩香さんは僕よりも素早い動きで包丁とリンゴをまな板に戻した。

 そして――


「んっ――」


 僕が親指の根元を押さえようとした時、僕の手を奪った影があった。

 次の瞬間、ぬるりと指に這う小さな肉。強く吸われる感触。一瞬の変化に脳が戸惑い、体が固まる。

 目の前に見える彩香さんの頭。彩香さんが僕の親指を咥えたのだと理解する。その影の下で、彩香さんの親指から出る赤い血が見えた。

 彩香さんは、自分の止血もおざなりに僕の止血をしてくれているのだ。そう知った。


 僕は咄嗟に動いた。僕も彩香さんの出血を止めなければ、と。


 何でこんなことをしたのか、事後になって僕は知った。

 彩香さんの超能力は洗脳や読心、念話などといろいろあるが、あれは全て一つの超能力――うん、【共有】と僕が勝手に名付ける、全ての思考と行動が共有されるこの超能力を、彩香さんが意識して使い分けているだけだ。

 そして【共有】は無意識でも常時発動しているらしい。そしてそれは、肌同士の直接の接触が大きいほど、それに比例して多くのことが共有される。


 つまり、彩香さんの思考と行動が僕にも共有されたというわけだ。――僕に、彩香さんの親指を舐りたいって欲望があったわけじゃない。


 そんな言い訳を僕はした。つまりは先の説明、嘘も多く混じっている。あっ、違うわ! ま、混じってないんだからね! へ、変に勘違いしないでよ!?


「んっ――」


 僕は彩香さんの手を取り、持ち上げて親指を咥える。

 ビクッと彩香さんの身体が大きく震えたが、親指を強く吸うと、彩香さんは曲げていた腰を伸ばして僕との距離を詰めた。

 奇妙な構図だったと思う。


 高校二年生の男女がYシャツの上にエプロンを着て、互いの親指を咥え合っている。

 変態カップル――もとい、二人だけの世界に没入してしまったカップルのように見えるが、これはちゃんとした止血行為だ。


 彩香さんの血を飲んでいると、彩香さんの身体が小刻みに、ふるふると震えだす。咥えた親指から思考が流れ込んできた。


『私の血、柚に吸われちゃってる……! 私の身体の一部が柚の身体を構成する部品になるなんて……。んんっ――頭、変になるぅ……。

 柚の血……美味しい……好き。もっと欲しい』


 彩香さんの、僕の親指を吸う力が強くなる。まるで、乳をもらった子猫がおねだりするような、そんな感じで。


 ――さて、先ほど説明したように、思考が共有されている現在。

 互いの脳内で伝達された思考に互いの恍惚たる幸福感が加えられ、思考が交換されてまた増幅され――と、感情がどんどん膨れ上がっていく。


『柚の血で、私の身体が出来るなんて――柚に支配されちゃうっ、柚の物にされちゃうっ……。柚に染められちゃうのにっ――』


 僕の血を吸うのが止まらない、と続けるつもりだったのだろうか。


 ピピッピピッ


 だが、それを切ったのは忌々しい、蒸し物が完成したことを告げるタイマーだった。

 僕らは正気に戻り、現状を把握する。先ほど述べたとおり、互いが互いの親指を咥え、吸っている状況。

 僕を見上げた彩香さんとバッチリ目が合う。

 彼女は自分がどんな顔をしているのか分かってないのだろうか。突然の状況に目を丸くして、きょとんとした顔。そのくせ、とろとろに蕩けきってしまった瞳。


 目が離せなくなる。ずっと見つめていると、彼女は丸くしていた目を、瞳はそのままに、いつもの切れ長の目に戻す。

 にへらぁ、とだらしなく緩みきった頬で口角を持ち上げ、僕に笑ってみせる。加えた親指もそのままに、彩香さんは言った。


「柚、止血したぁ……」

「あ、ありがと……」

「うん、ありがとっ……」


 そのとき、彩香さんの後ろでガッシャーン、と物が落ちる音がした。僕は再び我に返り、彩香さんもその音に反応して振り返る。


「あっつ!」

「――ッ! ――——!」


 真白さんと波賀崎くんが叫びながら、蒸し器と水の入っていたボウルを落っことしていた。二人の足下がびしょびしょになり、水たまりが僕らの方にまでやってくる。

 あの水は、蒸し器の中に水蒸気を送るため、ずっと蒸し器の下で火に掛けられていた水だ。つまり、熱湯だ。


 慌てて、作っていたはずの茶碗蒸しを探す。と、それは既に机の方に並べられていた。

 ほっと一安心して、そこで三度目、僕は我に返って彩香さんの指を口から離した。それに気がついた彩香さんも慌てて僕の指を口から離し、顔を真っ赤に染める。


 そんな間に、騒ぎを聞きつけたのだろうか、先生がやってくる。


「あ~ら、落としちゃったの? ぞうきん持ってくるから待っててね~。そこの二人は?」

「あ……あ、あの二人は指を怪我して――そ、そうだよな? ま、真白?」

「――コクリ」

「そう、じゃあ保健室で消毒と絆創膏、してもらってきて?」


 波賀崎くんと真白さんは応え、先生はおっとりした口調で僕たちにそう言った。

 ふと周りを見渡すと、結構な視線が僕らに集まっていた。

 親の仇敵を見るような視線、呆れたような視線、キラキラと輝いたような視線、なにやら崇拝されているような奇妙な視線。


 彩香さんも周りを見渡し、最後に僕を見、顔を真っ赤にした。


「ゆ、柚ッ――いこっ!」

「あっ、うん——!」


 僕らは小走りに教室を出て、それからいろんな教室から聞こえてくる遠い雑音を聞きながら、シンとした廊下を歩く。

 お互い気まずさで目線をそらし、無口に歩く。


 沈黙が苦しくなってふと自分の怪我をした手を見ると、僕の指は彩香さんの唾液でてらてらと鈍く、蛍光灯の光を反射していた。魅了されてしまう。


 ふと隣を見ると、彩香さんも濡れた親指を見つめていた。

 目が合う。僕らは小さく頷き、互いに背を向ける。先ほどまで共有されていた思考は、互いの欲求を教え合っていた。

 そして、理性はどちらも崩壊しきっていて、その欲求に忠実になることを止めるものは無かった。


 僕はぽつりと言った。


「三ザル協定」

「なにそれ?」

「見ざる、言わざる、聞かざる」

「――分かった」


 彩香さんがそう返す。

 濡れた親指に、僕は唇を当てた。

 背後で、キス独特の水音がした。








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