5
この流れだと私は過去を話すのが通例なのだろうという自覚はしている。
しかし。
しかし出来できない。私にはそれが出来なかった。
今まで考えもしなかった。何故いままで気付かずに過ごしてきたか。それさえも分からぬ今である。
これ以上誤魔化しても意味がない。単刀直入に言うと、『私には記憶が無かった。』
じゃあ話していた楽器云々や、この服装への誇りはなんだろうと言われると、それは”初期設定”みたいな。そういう感じだった。そこそこな大学生レベルの頭脳がある、世間一般的な礼儀作法とかもわかるし、自分が今毎日繰り返していたこと、言い換えれば”習性”だろうか。それもしっかりとわかっている。
がしかし、何故ここに住んでいたのかだとか、親の顔とか名前だとか、そもそも何故音楽が、ユーフォ二アムが好きなのかとか、なんでこんな女性の格好しているのか、そんな”理由“が全く思い出せなかった。
そういうのって、記憶に霧がかかるとか、雲がかかるとか、そういう例えをよく使うが、これはそうでは無い。何も無い筈の箱を振ると、何故かカラカラ音がしたから、割って中を見てみたらやっぱりも無かったみたいな。そんな感じだ。
面倒くさい言い回しをしたが、つまるところ記憶がなくなったんじゃなくてそもそも無かった様な。そんな気がするのだ。余程酷い記憶喪失なのだろうか。いや、そういうプログラムをインプットされたロボットの様な気もしてきた。
「どうしました?顔を顰めすぎて、顔全体くしゃっとしてますよ。」
というクラインの声で一気に現実に引き戻された。
「おじいちゃんみたいに?」
「どちらかというとおばあちゃんみたいでした。」
なんだと!?おばあちゃんの方がくしゃっと度高いじゃないか!
「そんなに酷かったのか?」
「そんなに…?おじいちゃんって提示されたから、どちらかというと顔も女性的だから、どちらかというとおばあちゃんみたいだと言ったまでですが。」
え?おばあちゃんって言ったのはそんな理由だったのか?
「酷かったからではなく?」
「逆に訊きますけどおばあちゃんの方が酷いって思ってたんですか?」
え?そりゃあ
「一般常識じゃないのか?」
「いや、多分違うと思いますが。」
ん?一般常識以外の情報が入っているのか。それともこの子が知らないだけなのか?
もし前者なら、もし仮に私がロボットだとかそういうものだったら、ベースとなった脳が存在するということになるし、違うならやっぱりただの記憶喪失だろう。しかしそんな認知症みたいな忘れ方の記憶喪失なんてあるのだろうか。
「あの…」
「はい」
「会話の途中で僕のは入れないゾーンに入るのやめてくれません?」
「はい。すいません。」
「何考えてるかは知らないですが、さっきから玄関のドア全部僕がひねってるって気付いてますか?」
…すまん!気づいてなかった!
「…ごめんなさい。」
「分かればいいんです。」
えっへんと言って、腰に手を当てスーパーマンのポーズをした。腰に拳を当てるあれだ。
「まあ一件も空いてなかったのですが。」
と顔を反対側に向けて少し小さめな声で言った。
「まあそれはしょうがないだろ。クラインのせいではないし。」
ニコっと笑ってこっちに視線を戻してきた。はじめからこう返答してくると分かってましたって感じだ。捻くれれば良かった。
「あっ。」
トラウマを感じた。
鼻孔を吹き抜けるトラウマ。だいぶ慣れて耐性がついたとは言え分かる。
「どうしたんですか?そんな立ち止まって。」
「この今までの臭みとは明らかに違う匂いがわからないのか?」
「そう言われればそうですね。」
トラウマを私が溜め込んでるせいで過剰に反応してしまったのだろうか。
まあそんなことはいい。多分この近くに、あの悪臭少女がいる。
あの、悪臭少女だ。
逃げなければいけない。そう直感した。彼女はきっと私を見つけると、突然逃げたことを怒っているか、それでも慕ってくるかのどちらかを選ぶと思われる。どちらにしろ接近は避けられない。
そう逃げるしかないのである。逃げるしか手は無いのである。
「クライン、逃げるぞ。」
そうキザっぽく言ってみた後、え?と戸惑っているクラインの腕を豪快に掴んで
今まで来た道を戻るように走ることにした。滅茶苦茶にカッコつけてるが、していることといえば幼女から逃げてるだけで、滅茶苦茶にダサい。
そして気付いた事がある。私はてっきり臭い出したのは自分が近付いたからだと思っていたが違った。
背後から向こうが近付いて来ていたのだ。何故かこの臭いを嗅ぐと冷静さが損なわれてしまう。
まあそういうわけで。
「あっ!おねーちゃん!」
見つかってしまった。ふとクラインに目を送ると、頭上にハテナマークが乱立しているかのような、困った表情をしている。ごめん!あとで説明するから!
「さっきはだいじょーぶ?」
出会ってしまったら逃げる訳にはいかない。
「ごめんね。やっぱりくさいのにがてだった?」
あれ、優しくない?
「でもあたし、くさいのすきなの。でもね、みんなからきわれるのもいやなの。」
ん?
「だからね、くさいのやめる!」
「でもやめるったってどうするんだ?」
やっぱり臭いな。でも耐えるか。
「えーっと…みんなはどこでからだをきれいにするの?」
それも知らないのか。どんな環境で育ったのだろうか。本当にあの生ゴミ置き場に巣食っていたのだろうか。
「僕らは身体を綺麗に保つ為に、お風呂っていうのに入るよ。」
とクラインが口を開く。
「それはどこにあるの?」
さっきまで逃げようとしていた自分が申し訳なくなって来た。
「おうちってところにあるんだよ」
とクラインが少し屈んで、デルタの頭を撫でる。
コップの中の水が、表面張力が耐え切れず溢れてしまいそうな、そういう顔をしてデルタは言った。
「それって、おとーさんとおかーさんがいるところ?」
涙が溢れた。
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