ファフロツキーズの悪魔

飯田三一(いいだみい)

1 始

それは宛ら悪魔のようで。

それは宛ら種のようだった。

神秘的で泥臭い。こんな感覚を得たのは、これが初めてだった。


1

その日は怪雨が街を襲った。

煉瓦を道にひいて、建物も古風な綺麗な街に魚臭い匂い、虫の青臭い匂い、土の匂いのそれらが充満して、それは私の知り得るどの言葉にも匹敵する臭さとなっていた。

しかし、そんな日に私というものは大学に向かっていた。

誰しもが現実から目を逸らし、放置すればもっと臭くなるとわかっているだろうに、誰も後片付けもしようとしないこの街の道の真ん中を歩いていた。

土が靴に入って鳥のような歩き方になってしまっていた。見渡す限り人がいないので、このまま顔をやつれさせながら歩いても何等問題ないだろう。

そんなことを考えていた矢先、左足に氷のような滑りであるが、それでいて繊維をプツプツと潰すような感覚が足を襲った。

魚だ。旬の魚であろうかという程丸々とした魚だった。

私は背中を地面に向ける形で倒れて、手は慌てて胴体の前でボクシングの構えのポーズのようで、しかしだらしない格好を取ってしまっていた。

一つ。

私はとても不運であった。


それからどれくらい経っただろうか。

そう言いたかったが無傷の懐中時計を見る限り、気を失ってさえいないようだった。

頭には偶然土があった。私は幸運でもあるようだ。しかし私の肩程まで伸びた髪が土と絡まっているのを想像するだけで虫唾が走った。しかし今なら道の真ん中で本当に吐こうが、この街にはなんの影響もない気もするが。

しかしこの土のお陰で痛みを回避できたのは確かであるので、ここに吐いて恩を仇で返すようなことはしないようにしよう。

しかし胃酸を虫の唾と考えた先人方はいやはやすごい想像力である。感性は科学の力の発達により現実を知り、つまらなくなったものだ。

さて、私も現実に戻らないといけない。ただでさえ砂が入った靴であるのにそれに追い討ちをかけるように魚臭い左の靴、茶色と白の使い古したハイカットだ。

藍色に縦の白い線が入った硬めの素材のガウチョのお尻と膝裏辺りも土の感じがする。しかも膝裏の土は泥に近い。

白のYシャツは奇跡的に無事のようだ。奇跡に感謝しよう。

私は立ち上がり、払えるだけの土は払った。やはり膝裏が水っぽい。これまた臭いであろう。今は全てが臭いため気にならないのでよしとしたい。

さて、大学に向かう途中であった。


なぜ私がこんな人っ子一人いない今日に、わざわざ誰も居ない大学に向かっているかといえば、それは練習のためである。私は、トレル・ディンは音楽をやっている。そして音楽大学に通っている。楽器はユーフォニアム。全く楽器についてわからない人のために説明すると、喇叭の仲間。少しわかる人にはテューバの小さい版といえば分かるであろうか。

そんな楽器を私はとても好んで吹いている。今日もそのための登校である。なんとしてでもでも吹くのだと決心をして。

もう諦めて普通の歩き方で、足元に気を使いながら道を歩いていたところ、とても嬉しそうな、というか楽しそうな10歳程の少女が視界に入った。顔の周りに花が回りながら落ちていくのが見える気がする程のそれであった。この臭さだとそんな花も枯れているだろうが。

少女がこちらに気づいたようだ。顔と体をこちらに向けた。

私はこの人を知っていた。白いが少し汗で黄ばんだタンクトップ、汚い紺色の短パン、肌は褐色、目の色は黄色、鼻上にそばかす、真っ黒で綺麗なのに、手入れされておらず跳ねているのが目立つ髪、そしてとても臭い。名を「ニーナ・デルタ」特に臭い事は有名で、なんでも食品街からは出禁を食らっているらしい。

そんな彼女が私に近寄ってきているではないか。私は逃げようとして、一歩後ずさりした直後、彼女は、あなたも臭いのが好きなの?と純粋な目をして言ってきた。私は、この目に逆らうことは出来なかった。そして少女は、この臭さの中でも見劣りならぬ匂劣りしないほど臭かった。


私はこのとなりを歩いている臭い少女、以下悪臭少女と仲が良かったわけでもなく、ましてや今まで話したことさえ無かったのだが、彼女は私を同類と勘違いすると、途端におねーさんおねーさんと親しげに話してくるようになった。おにーさんなんだけど。

しかしこの子には逆らえないなにかがあった。臭い匂いが癖になる…なんてことはあるわけなかったのだが、特筆すべきはこの今も向けられ続けている瞳でであった。

私は一刻も早く大学に行きたかったのだが、決められた時間があるわけでもないのでいいかなと思ってしまわせる程の魅力が、彼女の瞳にはあった。

そして今、悪臭少女にどこに向かわされているのかというと、「お気に入りの臭いところポイント」らしい。成る程彼女はどうやら「臭いもの」が好きらしい。

「ついた!」と彼女が指をさしたのは、光も刺さない路地裏の、不法投棄の生ゴミ置き場であった。くさいくさいくさいくさいくさいくさいくさいくさいくさい。生ゴミが腐った匂いというのはここまで臭いものなのだろうか。中学の理科の授業で聞いたことのある全て臭さを混ぜて、さらにそれを60倍にしたかのようなわけのわからない臭さであった。その時悪臭少女から衝撃の一言。わたしここにすんでるの!

普通ここでは「育児放棄か?」「なぜ一人なのか」「学校には行っているのか」とかそういうのを思うべきだったのだろうが、私の頭にはもはや「臭い」の2文字しか浮かばなくなっていた。

悪臭少女がその生ゴミの上に飛び上がって乗っかった暁には、私の嗅毛と嗅球と脳は異常事態を起こし、そのままきた道を全速力で走っていた。

しばらく頭が真っ白になって、気づくとそこは大学であった。

助かった。死ぬかと思った。そんな適当なことを言いながら楽器庫に楽器を取りに行った。置き楽器をしているだけで楽器自体は私のである。鍵はこんなこともあろうかと用意していた合鍵があるんだと言いたいところだが、実際のところは、昔どうも別の場所に鍵を取りに行くのがめんどくさくなって作ったていたのだ。バレたらまずい。

そして楽器をケースごと持って、練習用の防音室に入った時に気づいた。服が匂いを吸ってとてつもない異臭を放っている事に。

私はまたなにも考えられなくなり、服を外に脱ぎ捨ててしまった。もちろん下着もだ。

はじめ人間に戻ってギャーとるずと叫んでしまった…全裸で寒いネタを言うことでより寒く感じた。そもそもはじめ人間ってそういうことじゃないし。

現状をそのまま伝えると。全裸で、中に誰が居るのがすぐわかるようにカーテンのない窓のある、二畳あればいいところ程度の大きさの部屋。そして何故か消し忘れている冷房。設定は26度と決して低いわけでは無いが、風量が強くてスウィングしている。こちらに風が向く度に凍え死にそうである。そして防音室であるから当たり前だが、ドアがちょっと開けにくいやつだ。圧力鍋みたいな。そしてドアは中心がガラス張りの真正面から開けられない仕様。いやそもそもこの中で全裸になるやつがあるか。おそらくば自分が始めてだろうと自慢げに言いたいところだ…嘘だ。言ったら確実にいじり倒される。何故この一連を報告する意味があるのだろうか。流石に阿呆だ。一瞬でもそんなことを考えた脳みそだけ潰したい。

さて。ドアの左手にある小さい窓の下で隠れつつドアノブをひねることに成功した。そしてわけがわからないくらい重いドアを力一杯開けて外にある下着を回収して戻ろうとした時だ。

肘より市販の胡瓜の半分くらいの長さほど下の部分に激痛が走った。「痛っっ 」

人に見られたく無いので、いるかもわからない人の為に声を殺すも、やっぱり人間どこかに排出しないと痛みは中和できないらしい。

一度立ってドアを押して腕を取り出し、諦めて普通に中に服を入れた。普通といっても全裸であるが。アイムビリーバックってか。

そして中に入り服を着た。いわゆるラヴコメディーってやつみたいな、ここで女の子と出会うなんて事は無かった。

しかし、人はいた。その人は、頰を桃ほど頰を赤めた。


取り敢えず重い扉を両手で強く開き、逃げるように室内に隠れた。服を自分の見積もりでは2秒位で着た。そして表に出たが、既に桃はいなかった。 其の実は自分の着替えるスピードがあまりにも遅かった事だろう。自分は大いに理解していた。自分の見積もりの5倍は掛かる事を、私は知っていた。

その後、私は諦めて部屋に入り、ブレスをする度に、悪臭を体の芯まで吸収するかのように吹いていた。今日は「音量の足りなさを解消する」のを目的としていたが、桃と悪臭で気が気じゃなかった。

取り敢えず自分の目標とする所まで一通りしたので、今日はもう帰ることにした。これ以上練習していても伸びる気がしない。

楽器を丁寧に拭き、菅の中も掃除した後、楽器庫に仕舞いに行った。

仕舞い終わって、そのまま家路に着こうと思ったその時。私は目撃した。皆目したくなるような光景を目撃した。しかし皆目したいという感情とは裏腹に私の目は釘付けになった。

赤みを帯びた黒の液体が、首の喉仏よりも少しだけ下の辺りから静かに湧き出し、それが半径二米(メートル)の地面まで広がっていた。

そして今。止まった。

その液体は、身体から出てくる事をやめた。それは、その身体から「生」が消滅し、それと入れ替わるように「死」がその身体から誕生した事を意味する。

私は何故か冷静で、今死が誕生した身体の顔を確かめた。

忘れもしない顔だった。その顔は「桃」だったのだ。

私は膝裏がもう濡れていない事を確かめた。

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