とある日常

かめ

電車

 珍しく寝坊してしまったわたしは駆け込むように電車に乗った。なんとかいつもの時間に間に合ったと思いながらいつもの座席に座る。同じ車両には4人の乗客がいる。向かいの座席にはボウズ頭の学生が高校名の刺繍された大きなバックを傍らに、今日も教科書を開き眠そうな目で文字をおっている。人一人分間を空けその隣にはイヤホンを耳につけている女性がいつも通り眼を瞑りながら静かに座っている。奥のボックス席にはマスクを着けた中年男性が、扉の近くに女子高生がスマホを弄っている。毎朝の見馴れた光景に少し安心感を覚え、弾んでいた心臓の心拍数が徐々に正常な動きへ戻っていった。車掌の笛の音とともにドアは閉まり電車が動き出す。わたしはその電車に連れられ今日も会社へと向かっていく。


 わたしは二年前今の会社へ入社した。どうしてもやりたいことがあって選んだ会社ではなかった。ただ給料は良く自分が大学で専攻していた分野を考えると入りやすい会社ではあった。続けるうちに自然とやりがいを見つけ楽しくなるかと思っていたが、今はまだ義務感とお金のために働いている感じだ。大学での研究はそこそこ楽しくさらに進学することも考えたが、三年前に一家の大黒柱を失った我が家の家計を考えると就職した方がいいように感じていた。


 向かいのボウズの学生は教科書のページをめくり、シャーペンで何かをメモしている。そのとなりで女性は静かに目を閉じている。奥の中年男性の大きなくしゃみが車内に響きわたる。女子高生は相変わらずスマホを弄ってる。


 もし三年前に父親が死んでいなかったら今もまだ大学に残り、もう少しやりがいのある日々を送っていただろうかと考えることもある。しかし、そのたびに実際は大学に残り研究を続ける熱意も生涯のパートナーを失い寂しそうな母親を元気づけ支える度胸もなかっただろと自問し、今の現状に対して父を言い訳に使っている自分に嫌気がさす。悲劇のヒーローにでもなったつもりだろうか。結局は実家から逃げ出しほんの少しの仕送りを送ることで自分の自尊心を守っている小さな人間すぎないのだと自覚してしまう。


 車内にアナウンスが流れ、電車は減速していく。風に煽られ少しゆれるが何事もなく停車し扉が開く。スマホを弄っていた女子高生は電車を降りる。代わりに違う女子高生が乗り私の隣の座席に座り、風で乱れた髪を必死に整えている。向かいの学生はまた教科書のページをめくり、必死に何かを書き続けている。そのとなりで女性が目を空け時計を確認してからまた目を閉じる。奥の中年男性は目を充血させながら鼻水をすすり続けている。


 昨日は遅くまで会社に残り、今日使う資料の修正をしていた。何度も上司に修正され、もう自分で作った痕跡は残ってないがその資料を使い部長への報告を行う。そのことを考えると憂鬱な気分になる。自分の考えを持ち仕事をしろと良く注意されるが、自分なりの考えはなかなか他人へと伝わらない。伝え方が悪いのか考え方が悪いのかも何もわからない。もう今日は休んでしまおうかと考えはじめてしまう。


 また走り出した電車は静かに目的地へと向かう。アナウンスが流れ次に停車する駅名が聞こえてくる。向かいの学生がシャーペンを落とす。落ちたシャーペンは転がり隣の女性の足に当たって止まった。目を閉じていた女性は足元を確認してシャーペンを拾う。学生と目があった女性は微笑みながら学生へペンを差し出している。奥の中年男性は鞄を持ち立ち上がり、よれたジャケットを整えながら扉へ向かう。隣の女子高生は何か探すようにバックの中をあさっている。


 お前は大丈夫だ。父親の言葉が浮かぶ。何が大丈夫なのか全然わからないが父は私に良くその言葉を投げかけていた。仕事はなかなか上手く行かないし彼女だってできやしない。これといった趣味もなく、ただ貯金だけが増え続けていく。こんな自分の何が大丈夫なのだろうか。何無責任なことを言っているのかと怒りさえ覚えてしまう。いつか仕事にやりがいを感じはじめるだろうか。こんな自分にも可愛い彼女ができ結婚して子供を授かり幸せな家庭を築くことができるだろうか。自分は奥さんより先に死ぬようなことはないだろうか。


 気がついたら扉は開き始めている。中年男性は電車から降りる。教科書を読んでいた学生もその隣の女性も立ち上がり出口へと向かう。本当にサボってしまおうか。そんなことを考えていると女性のバックに付いていた御守りが落ちるのが見えた。それに誰も気づいていない。一瞬迷ったが仕方なくその御守りを拾い私も慌てて電車を降りた。


 すいませんと女性に声をかけた。御守りを落としていたことを説明しその御守りを渡す。ありがとうございましたと女性は深々と頭を下げる。死んだ母親から貰った物なのだと私に説明し再度頭を下げた。毎朝同じ車両に乗っているのに声を聞くのは初めてで何か不思議な感じがする。ほんとうにありがとうございましたと再びお礼を述べ、それではと改札に向かっていった。少し遅れて私も改札へと向かう。あとは五分も歩けば会社に着く。今日も仕事だ。仕事はたいして楽しいわけではないし、可愛い彼女もいないし熱中できる趣味もない。それでも生きていかなきゃいけないと思う。


 改札を出ると強い風に煽られた。もう春なのにまだ風は冷たく、雲が太陽を隠すと日差しがなくとても寒い。ボウズ頭の学生が自転車に乗り私の前を通り過ぎていく。マスクを着けた中年男性も早足で私の少し先を歩いている。駅からアナウンスが流れ電車はまた動き始めた。

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