第40話


 中へ入ると、宮殿の大広間か美術館のロビーとも言える様な荘厳な空間が広がっていた。


 グリーンを基調とした格調高い重厚な家具。淡い色合いの壁紙を見上げると、美しくて大きなステンドグラス。


 吹き抜けになっている2階に繋がる螺旋階段から、ブラックの暖かそうなナイトガウンを羽織った神原彩架月先生が、優雅な足取りでこちらへ降りてきた。


「こんばんは。ようこそ」


 神原先生は神秘的な微笑みを浮かべながら、こちらに向かって歩いて来た。


「ご無沙汰しております」


 高野さんが頭を下げて挨拶をすると、近くまで来た先生は言葉を返した。


「いらっしゃい高野さん。あなたの事は10年経っても、とてもよく覚えています。男性編集者の中ではあなたはダントツで、他の追随を許さない超イケメンでしたから」


 先生、イケメン好きだったんだ…!


「それは、どうもありがとうございます」


 高野さんは少し嬉しそうに、小さく頭を下げた。


 先生は高野さんの顔を間近に来てじっくりと覗き込み、

「………あら、ちょっとオジサン入っちゃったかしら……」

と、正直な感想を述べた。


「………自分以外の人に言われると、オジサンになってもさすがに傷つきます」


「あら、ごめんなさいね、ふふふ」


 高野さんは先生の冗談に慣れているのか、すぐに気を取り直して私を紹介してくれた。


「有沢沙織さんです。司君とは…」


「知っています。先日のサイン会に司と二人で来てくれましたよね、沙織さん」


「はい!あの時はありがとうございました」


 先生は以前と変わらず優しい表情で、私に笑いかけてくれた。


「こちらこそ。…電話で高野さんから聞きましたけど、あの子がいなくなったって…。本当?」


「はい…こちらに司君、来ていませんか?」


 神原先生は、首を横に振った。


「来ていないわ」


 私は急に、体中から力が抜けていくのを感じた。やっぱりここには来ていないんだ…。


「こちらへどうぞ」


 先生の後に続き、広間を抜けて客室へと案内された。


「いつからいなくなっちゃったの?」


 ふかふかとしたソファーに座ると、使用人の女性が温かい紅茶を運んで来て、高野さんと私に淹れてくれた。


「月曜日の夜からです。オーナーの深森燈子さんには居場所を教えている様なので、行方不明というわけでは無いんですが」


 高野さんが説明し、私はその後に続けて言った。


「…何の前触れも無く急にいなくなったので、心配で。燈子さんは司君に口止めされていて居場所を教えてくれないので、心当たりを探しているんです」


「そうだったの。本人が無事ならいいけれど…お役に立てなくて、ごめんなさい」


 先生は静かに、物思いにふける表情を見せた。


 神原先生の元に戻っていないんだとすると…司君は一体どこにいるんだろう?


 ネットカフェにいるのかな…?

 それとも、ホテルとかを当たった方が…。


「深森燈子さんという方は、巳和迦楼永みわかるえ先生でしょう?司は巳和先生のシェアハウスで今、お世話になっているのよね?」


「知ってらしたんですか…」


「ええ。手続きの書類と簡単な経緯を本人が連絡してきましたから」


 神原先生は、司君が燈子さんがオーナーをしている『シェアハウス深森』に住んでいる事、知っていたんだ。


 先生は落ち着いた様子で、ずっとソワソワしている私の肩に、安心させる様に手を乗せた。


 そして穏やかな口調で声をかけてくれた。


「せっかく来て下さったんだし、少し司の話も聞きたいわ。どうかお茶だけでも飲んで行って下さいね」




 高野さんは席を立った。


「僕は煙草を吸いに行きたいのですが…、どこかに吸える部屋はありますか?」


「あるわよ。…美鈴さん、案内して差し上げてね」


「はい。こちらへどうぞ」


 お茶を運んでくれた使用人の美鈴さんに案内されて、高野さんが煙草を吸いに席を外すと、客間には神原先生と私の二人だけになった。


「…本当にどこへ行ってしまったのかしらね、司は」


「………はい」


「…沙織さん」


「…はい」


「あの子を心配してくれて、ありがとう」


 先生は近くのソファに座って手を伸ばし、私の手をそっと握った。


「………いえ」


「サイン会の時はびっくりしたわ。あの子がこんなに素敵な女の子と、仲良さそうに並んでいたから!」


 微笑みながら先生は、嬉しそうに私に再度お礼を言ってくれた。


「本当にありがとう、沙織さん。…あの子と一緒にいてくれて」


「…いえ」


 神原先生、何だかとても寂しそうに見える。


「沙織さん。私、…本当はもう、何も言う権利が無いの」


「………?」


 権利……?


「私は、母親である事を放棄してしまったの」


 ……え?


「いなくなったのは、私の方。…司はね、私がいないこの家で一年間、一人で生活していたの」


 ………?!


「あのサイン会の日は、逃亡真っ最中だった。あの子からずっと私、逃げ回っていたの」


「……あの、先生、話が全く…」


 先生は、私の目を見ながらじっと考え込んだ。


「あなたは何も、司から聞いていないのかしら…」


「はい、多分。…何も私は知らないんだと思います」


 私は震えた手で、美しいティーカップに入った手付かずの紅茶を手に取り、それに口をつけた。もう冷めてしまっているが、とてもいい香りがする。


 何となく、

 全てを知る前と知った後では、

 世界が大きく変わってしまう気がした。



「私、話すのがとても苦手なので、上手く説明できなかったらごめんなさい」





「いえ…」












「キスしたの。私が、司に」













「………は?」













 先生、今…………。






 司君にキスした…………って言った?













「それで私達、一緒に住めなくなったのよ」









 ……?!!










「先生は、司君のお母さん…ですよね?」











 頬っぺたにキス、とかじゃなくて?!!










「あの…………先生、それはつまり…」












 マウス・トゥ・マウス…って事?!!

















「私。…あの子に呪いをかけてしまったの」













 ………?!!!!!!










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