第11話 継承
それから二日後。
さて、帰り着いたぞ。
家に入るのがちょっと怖い。
今日から久野さんがいるはずだ。朝、美岬が駅で拾ってから、一日を共にしている。
何が起きているか、この目で見るのが怖い。
見るまでもないからな。
俺、この家から何かが激しく焦げる臭いって、嗅いだことがないよ。排気についてもこの家、一応の対策はしてあるんだよね。それでいてコレだもん。
ため息を付きながら玄関を開ける。
泣き声が聞こえる……。
思ったより修羅場だったよ。
美岬が言うのは……。
朝、時間通りに合流。
動きやすい服装に着替えて、まずは五キロのハイポート。
とはいえ、さすがに小銃は持てないから、同じ重さのリストバンドでごまかしたと。もっとも、リストバンドは両手が自由になるから、身体への負担は遥かに軽いんだけどね。
で、美岬、ドリルインストラクター化して久野さんを走らせて、腕立て腹筋といつものメニュー。
この午前中で、久野さん、二回吐いたと。
かがみ跳躍もやらせてみたけど、数回以上は無理だったと。そのまま地面をこよなく愛したくなって、全身で抱擁していたらしい。
ようやく地面との為さぬ仲を裂き、それから昼食を一緒に作り、いつものように美岬はノートに記しながらちょこちょこと研究、確認。この段階で、久野さんは包丁が使えず、缶詰を開ける以上の料理の経験がないことが判明。学食、コンビニ弁当、ほか弁、それからマクドナルドのローテーションだけで生活していたらしい。
定食屋だのラーメン屋だのは、女性一人ではハードルが高いらしいね。
そこで、千切りと桂剥きとオムレツの練習が急遽追加。
自衛隊員のアイロンがけほどじゃないにせよ、そもそも生活能力は、当然必要な項目以前の問題だからね。
で、手が切り傷だらけになった。
火傷も二か所追加。
どうやったら、オムレツ作るのに火傷できるんだかが、俺には判らん。って、フライパンでオムレツを返そうとしたら飛びすぎて、フライパンを持つ手首に着地した……。あー、そうですか。
二回目は怖くて、飛んだ瞬間手を引いて、足にオムレツが着地ですか。
もしかしなくても、才能がないのか……。
失敗作は、食べられる場所を本人が責任を持って胃袋に収納。
なお、三回トライ、三回失敗で六つの卵が消費されたと。
昼食後、今度は座学。
趣味ではなく、きちんと筋道たった知識として情報とその取扱いを学ぶ。
当然、歴史もだ。経緯を知らないと、分析はできないからね。表はともかく、歴史の裏についても、やはりきちんと筋道たった知識が必要だ。
その間に美岬は、今の本業に精を出した、と。
久野さん、座学自体は優秀でも、午前の疲れが出て居眠りがでた。それを美岬が叩き起こし、ペナルティーに腕立て。
ペナルティー分は美岬も一緒にやったと。
ここで、久野さんの一回目の泣きが入る。
泣くのを見ていた美岬の心に、鬼の遠藤さんが召喚される。
その結果、俺たちがされたのと同じように、さらに重くなる負担。
ま、腕立て回数が倍になって、夕食準備前に再度のハイポートと。
二キロ走ってから、夕食の準備。
ここで、急遽美岬に、スカイプかなんかで今の仕事の打ち合わせが入る。
久野さん、一人で再度包丁を握り、魚を焼きながら立ったままうたた寝が出て、結果として崩れ落ちて腰とか腕とか強打。同じタイミングで魚が燃えだす。
ここで、本日第二回目の号泣。
そこへ俺、帰還という運びだ。
俺、しかたなく、炭になっちまった魚の代わりに、食品ストックからおかずを即席で一品でっち上げる。と言ったって、冷凍してあった肉に生姜の摩り下ろしをたくさん加えて、生姜焼きにしただけだけど。
ぜんぜん太さが一定していないキャベツの千切りとあわせるのには、こんなのも良かろうかと思ってさ。
夕食をテーブルに運びながら、久野さんの絶望的な視線を受け流す。
「どうする美岬?
今日は身体を動かした気がしていないだろ?
食休みしたら、軽く一緒に走ってくる?」
「うん、お願い。
これじゃ
「解るよ」
そこでちらっと久野さんに視線を走らせると、「一緒に」と言われたくないんだろうね。小さく小さくなって俯いた。
おうおう、高校生時代の俺と慧思を見ているようだぜ。
「この化け物が……」とか思っているはずだ。
最初の三日で全身くまなく痛くなって、たぶんこれから高熱も出て、おしっこが茶色くなる。
訓練開始の洗礼だ。
俺達が鬼にされた仕打ちに比べれば、はるかに軽いんだけどね。
まぁ、少なくとも、うちの組織ではベッド・ディテクティヴが許されるポストはない。石田佐だって、若い時は作戦遂行能力を持っていた。
「俺が最初にこの手の訓練を受けた時は、カリキュラムだけ十五時間ありましたよ。
最後の三日間は二十時間でした」
そう話しかけてみる。
「……」
「嫌になっちゃいましたか?」
ぶんぶん。
首が横に振られた。
「私たちには、久野さんほどの優秀さはないんです。
その分、ハードだったんですよ」
久野さん、呆然と俺の顔を見る。
俺も、それを正面から見返した。
「死にたくないでしょう?」
「はい」
ようやく、まともな声が聴けたよ。
「生きて任務を遂行し、生きて帰る。
このためには、優れた作戦の上で、それを遂行しうる能力を個々が、敵以上に維持するしかないんですよ。
解りますよね」
「はい」
「あなたが、組織の最後の一人になるかも知れない。
その時になってさえ、どんな言い訳もできないんです」
「はい。
話してくださって、ありがとうございます。
でも、一つ教えて下さい。
あなた達のモチベーションは、どうして保たれているのですか?
こんなにつらい訓練を毎日こなして、なぜ?
今日一日一緒にいて、この仕事が好きで仕方ないという感じでないのも判ります。
もしも、好きで仕方ないなら、ここまで現役の体力があってリタイアしませんよね?」
どれほど頭が良くても、体力的に追い詰められると、見えなくなるものもあるんだろうね。また、それを伝えるのは「今」なのかも知れない。
「逆に聞こうかな。
久野さんは、鍛えられ、より能力の上がった自分をなんのために使いたいの?」
「私は、皆さんのことがカッコいいと思っていました。
毎日充実して、生きがいを感じているんだろうなって。人生にも、迷いななんか感じていないのだろうなって。
自分ならば、映画とかよりもっと上手くやれると思ってました。
ランニングとかだってしていましたし、私の周りの女子と比べても私が一番体力ありました。だから、本当にうまくやれると思っていたんです」
「カッコいいから、この仕事がしたかったの?」
「言い難いですが、今日一日、辛くて辛くて、ずっと自問自答していました。
結果として、今までの答えはそうだったんだと思います」
……そか。
「俺も似たようなものだ」
「そうなんですか!?
びっくりです。
もっと堅実なんだと思っていました」
「俺はね、とある先輩バディの繋がりが、すごくいいなって思ったことがあって、スカウトを受けることにしたんだ。
そしてね、この世界に入るにあたり、覚悟を求められたよ」
「それはどのような……」
「うちの奥さんの前では、話し難いんだけどさ。
二回目の面接で言われたことがあるんだ。
この仕事に必要な資質についてだ。
『この仕事に本当に必要な資質は、自殺に追い込まれるようないじめ以上の悪意と毎日付き合って、なお、自分の尊厳を保ち、絶望しないこと』なんだとさ」
そう、この家で、武藤佐から聞かされた言葉だ。
そして、次は美岬の言葉だ。
「この仕事に人生を捧げる、決意の言葉も聞いた。
この仕事に必要な資質を維持して、『自分に害意を持っている人であっても、守る、守れる』ことに誇りを持てるか? ということだ」
「カッコいいけど、それ以上に厳し過ぎです……」
「うちは人数もそう多くはない。
だからこそ、個々の資質には最高のものを求める。俺もまだ、それに応えられている自信はないよ。
久野さんはどう?
その自問自答を繰り返しながら、この先もやっていける?」
「判りません。
ただ、明日以降もがんばってみようと思いました」
あーあ、ぽたぽた涙落として。
今日は、本当に辛かったんだね。ま、解らないでもない。
なんせ、俺自身、通ってきた道だから。
そして、この先、あの先輩達に追いついていけるか、未だに判らないんだから。
食事は大変だった。
飢えていて、でも食べられない人ってのは、こういうのかもしれないね。
口にしても、えずいて飲み込めない。
でも、食べる必要は解っていて、必死に飲み下そうとしている。
考えてみれば、訓練の初日って、俺も慧思もまだ十六歳だった。美岬に至っては十歳だ。
二十歳代半ばの久野さんのダメージが、俺達のものより大きいのは仕方ない。
まぁ、本当に飢えてきて、身体もハードさに慣れてくれば、また食べられるようになる。俺も、
これだけは美岬に話しておくか。
本人の失敗料理だけでは、耐えられないかも知れないからね。
「ん。
美岬、じゃあ、洗い物済ませたら一周回ってこよう」
「お邪魔でなかったら、私も行きます」
「おっ、来るか?
悪いけど、容赦できないぞ」
「ついて行けない時点で置いていってください。
でも、例えゴール地点まで追いつけなくても、でも、必ずたどり着きますから」
「そうか。では、頑張れ。
じゃあ、これを聞いて、復唱しながら走るんだ」
そう言って、携帯音楽プレーヤーで聴けるようにした、統計情報を録音したものを渡す。
美岬の負担軽減のために、基礎データをパソコンに読み上げさせたのを録音し、帰りの車内でチェックをしてきたのだ。
「帰ったら、ちゃんと聞けていたか、いくつか内容を確認するから。
聞くのに集中しすぎると、足がもつれて転んだりするから、気をつけて。
あと、車に轢かれたりもしないで欲しいな」
「はい!」
走るときは、脳にも負担を強いる。
これも、基本。
あっというまに、久野さんを置き去りにして、俺と美岬は並んで走る。
もう、十年を超えた日課だ。
最初は一人で、次は慧思と、そして今は美岬と走っている。
最初は強いられ、次は自発的に行い、そして今は人に強いている。
俺たちの目的、必要な資質や誇りの根源もそれと同じようなものだ。
最初は教えられ、次は守り、そして今は人に伝えている。
きっと、この流れはずっと続くのだろう。
小田佐や遠藤権佐も、一線を退く日が来る。
そのときにもまた、受け継ぎ、受け渡していかねばならないものがあるだろう。
時と共に、すべては変わっていく。でも、その中で変わらないものがある。
坪内佐の考えていること、口に出さずとも俺には解っている。間違いなく、美岬も解っている。
坪内佐が自分にはできないと考え、俺たちに任せたのだ。
それは、魂の継承。
願わくば、俺達が、それを為せていることを祈るよ。
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