第3話 ポークソテーの日
国宝の城の北側、歴史のある小学校に面した一画に、「キッチン 当たり屋」はある。
落語好きの店主で、当たり屋の屋号は柳家喬太郎の時蕎麦のネタから取った。もっとも、これは初期のネタで、今では「外れ屋」ということが多い。
ウッディな店の中には、観葉植物の大鉢が一つ、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが三つ、小さなカウンターに五つの椅子が置いてある。
決して大きくはない店だ。
メニューは日替わり、定食一種類のみ。
その代わり、料理は本格的で手を抜かず、美味いコーヒーか紅茶などの飲み物が付く。
店主は脱サラした四十代の男。
春とはいえ、桜の蕾が開くにはもう少し間がある、今日のランチメニューはポークソテー。
この店は客を選ぶ。
「一見様お断り」ということではない。
店主が好みのものを作る。そこに妥協がない。客が好みに合えば良い店になり、合わなければその逆だろう。
ポークソテーと言っても、一筋縄ではいかない。ただ、ぶっきらぼうな字で「ポークソテー定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板が、店の前に置かれるだけだ。
今日の客は、作業服が四割、スーツが二割、商店街の店員が四割。観光客は居ないようだ。空席はほとんどない。
香りの強くない太白の胡麻油を使って、フライパンで塩胡椒と少量の小麦粉を振った豚ロースの薄切りを焼く。ロースに淡く綺麗に焼き目がついたら、ふきのとうを刻んだものを少し多めに入れ、フライパンの上で肉を焼いた油と混ぜ合わせる。最後に酒をふり、アルコールを飛ばす。仕上げには、数滴醤油を垂らす。
春らしさを生かして、色は茶色くならないよう、ふきのとうの緑を活かすことに注意する。
洗った後に、千切りより少し幅広く切った春キャベツは、あえて水に晒さないで甘みを活かす。
もう一つの付け合せは、茹でた春の蕪の粒マスタード和え。粒マスタードは、マスタードシードをワインビネガーと蜂蜜に漬けた後に擦り潰した自家製だ。
これらを、リンゴの剪定枝を灰にしたものを釉薬にした、温味のある青い丸皿に盛る。
焼締めのご飯茶碗に、自家精米の白く輝くご飯。
黒漆の椀には、新玉ねぎとサバの味噌汁。新玉の甘さが味噌汁に溶け込むと同時に、その香りがサバの臭みを消す。
粉引の小鉢には、ブロッコリーの胡麻和え。胡麻は香りの強い金胡麻を使う。
これで税込800円。
俺は、街の一画にある、組織の重要な施設に、任務を果たすために来た。おそらく、あと五ヶ月以上は任務のために、この街にいなければならないだろう。
この施設は、表向きは骨董品を扱う店だが、組織の財産管理を行う重要な部門となっている。組織の歴史が古いので、所謂お宝がたくさんあり、その管理、現金化を引き受けている。
俺のカバーは、倉庫整理要員兼店員として、月契約で雇われた形だ。
骨董品屋の店主は、日本でも有数の目利きとして名が知られている、老人と言って良い年の男。このカバーで、四十年仕事をしており、組織内の序列ではナンバー2だ。さすがに歴史に関する知識は豊富で、というより、学会で一派を作れるほどの独自の知見と深い洞察力を誇っている。そして、この店の倉庫には、組織に由来する、日本史を変えるほどの重要な証拠が多数眠っている。
俺は骨董店を出て、観察対象建物を横目に通り過ぎ、ちょうど五十歩めで「ポークソテー定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板にぶつかった。
俺は、麺類を食べたい時以外は、結構な確率でここに来ている。
店の戸が開いて、商店街の顔を見知った男が二人、店から出て行く。軽く頭を下げて、店に入る。
「らっしゃい」
低い声に迎えられて店に入ると、カウンターが二つ空いている以外は満席。その空いているカウンターも片付けの最中。
俺は、店主が片付け終わったカウンターの席に座る。
店主が、水とペーパーおしぼりを目の前に置く。
注文は選ぶことができないので、聞かれない。
ただ、その一方で、聞かれたのは次のこと。
「コーヒーにしますか、紅茶にしますか」
「コーヒーで」
店主は続ける。
「モカ、キリマンジェロ、マンデリン、お好みはありますか」
中国茶は判らないが、コーヒーは少しなら判る。職場の同僚、
「マンデリンで」
脂の強いものの後には、苦味が濃いコーヒーが良い気がしたのだ。
「かしこまりました」
店主の声に曖昧に頷いて、スマホの画面に目をやる。ニュースは当然のことながら、走り出した桜前線。
特に世はこともなし。一安心と思ったところに、盆に載せられたポークソテー定食が置かれた。早い。
「ごゆっくり」
低い声で言って、店主は厨房に戻って他の客のコーヒーを入れ始めた。
白と黄緑。
ポークソテーの色は茶色という認識だったが、これは色が淡い。
肉自体は薄く焦げ目が入っているので、茶色い部分もあるのだが、今までのイメージに比べると白と言っていいほど薄い色。そして、それにまぶされている黄緑の野菜はなんだろうか。
キャベツの千切りも色が淡い。
粒マスタードで和えてある蕪も、淡い色合いだ。
全体的に、パステルトーン。
生姜焼き定食というより、フランス料理を思わせる色合い。想像していたものと大きく違う。
箸でつまみあげ、一口食べてみる。香ばしい、焼いた肉の旨みが来る。だが、思ったより脂っけを感じない。思わず、もうひとくち口に含む。
軽い苦味。
ああ、これはふきのとうだ。
肉の脂の甘みを、ふきのとうの苦味が引き立てている。また、その苦味のせいで、脂を軽く感じているのだ。
美味い。
茶碗を持って、ご飯を頬張る。
ああ、春だ。春がきた。
口の中に広がる春に、実感が湧く。
今までも、一年に一度くらいはふきのとうを食べている。が、ふきのとうってもっと苦くなかっただろうか。不用意にたくさん食べると、いつまでもふきのとうの苦味が口の中に残るような強さがあった気がする。
ああ、解った。
豚肉の脂が、ふきのとうの苦味を消してしまっているんだ。
これは、子供の頃に食べたかった。
子供の頃、祖父が住職をしていた寺の
天ぷらだと苦味が抑えられるのだけど、揚げ物はあまり作ってもらえなかった。生のふきのとうを刻み込んだ味噌を、祖父は晩酌のつまみにしていたが、子供の頃は食べたいとは思えなかった。高校生になる頃からだんだん食べることができるようになったものの、なんとなく苦手意識は残っている。
今更だが、僧侶が晩酌していて良かったのだろうか?
どちらにせよ、子供のころに、このポークソテーを出されていたら、ふきのとうをもりもり食べたに違いない。
ポークソテーとご飯を交互に口に運んでいたが、蕪に箸を伸ばす。
蕪の持つ土の香り、うっすらとした苦味、そういったものが粒マスタードの香りと酸味でぴんと筋が通ったものになっている。
キャベツも、口直しとしてはもったいないほどの甘みを感じる。美味い。
最初は皿の横に添えられていたマヨネーズをつけていたが、味が強すぎてキャベツの甘みに対して邪魔と感じてしまう。むしろ、皿の底に残った、ふきのとう風味のポークソテーの油を絡めた方が美味い。
口内がすっきりしたところで、味噌汁を一口。
これも甘い。自然な甘味だが、その味が強い。そして、その甘みが嫌味にならない強い旨味の出汁。甘さの元は新玉ねぎだ。半分透明になって、柔らかい口当たりになっている。
そして、お椀の底にはサバの切り身が沈んでいる。煮干しでは、新玉ねぎの甘味に負けてしまうだろう。鯖だから、真っ向勝負ができるのだ。また、野菜も新玉ねぎでなかったら、サバの癖に負けてしまうだろう。強さと強さがぶつかり合ったハーモニー。この味噌汁だけでも、ご飯が食べられる気がする。
ああ、そうか、ポークソテーが軽いから、味噌汁をその分、パワフルにしているんだ。
店主が、次の客の分を用意している。ポークソテーは焼いてあるものに、ふきのとうを入れて味をつけるだけのようだ。あとは、基本的にできているものをよそうだけ。
ランチは早く出てきてくれないとお話にならないので、こう工夫しているのだろう。これだけの味と、スピードを両立させるためには、ランチメニューを一種類に抑えるのは、やむを得ないかと改めて思う。
ご飯が足らない。塩が強いわけではない。旨味と香りで箸が進んでしまうのだ。
「ご飯、お替わりしますか」
店主が声をかけてくれる。
「半分で」
店主が軽く頷き、その場で軽めに盛った茶碗を渡される。
小鉢にも箸を伸ばす。
胡麻とはこれほど香ばしいものだったかと思う。コクがあるのに軽い。ああ、これは、植物だけから得られるコクだから、ここまで軽いのだ。そこにブロッコリーの歯触りと青臭さが調和する。
凧糸を一回り太くしたくらいの緑の糸のような野菜が混じっている。鮮やかな黄緑色。春の色だ。これも甘みが濃くて胡麻に負けていない。歯ごたえもコリコリと心地よい。ブロッコリーとも相性がいい。思わず、店主に聞く。
「胡麻和えに入っている、太い糸みたいな野菜はなんですか」
「ブロッコリーの茎です。千切りにして軽く茹でると、ドレッシングでも美味いですよ」
そうか、美味いのか。
店主の穏やかな表情に説得されられてしまう。
今まで、食べたことがなかった。というか、捨てる部位だと思っていた。なんてもったいないことをしていたのか。
一心不乱に食べ、箸を置き、水を飲む。
コーヒーが出された。
もう一口水を飲んで、心を切り替える。美味いものを食べた余韻が強すぎると、コーヒーに気が向かない。
一口、二口。不思議なコーヒーだ。苦くない。いや、違う、十分に、十分すぎるほど苦いけど、それが軽いのだ。思わず首をかしげる。
香りは強い。酸味も軽くだが感じる。断じて薄いコーヒーではない。味でも判るし、先ほど店主がドリッパーに入れた量からも判る。でも、それなのに、ひとつ間違えると白湯に通じるほど軽い。
「すみません、このコーヒー、なんでこれほど軽いんですか」
先ほど一度声をかけてるので、また、抵抗なく聞いてしまう。
「さっき焙煎したからですよ。今日のメニューの後だと、軽いほうがいいかと思いまして。もっとヘビーなメニューでしたら、前日とか、前々日に焙煎します」
「それは飲んだことがありませんでした。ありがとうございます」
そうなのか、焙煎してすぐだと、軽いのか。まぁ、肉とはいえ、和食の後だものな。
ああ、満足。
「800円になります」
「また来ます」
千円札を一枚渡しながら、心の底から言う。
「ありがとうございます」
言葉と一緒に、百円玉二つ。
トータルで二十五分。
ここのところ、ターゲットが建物に出入りする人数を増やしている。日課のターゲットの観察の時間にはまだ余裕があるが、それとは別に、観察を増やすために対象の前を通る回数を増やしたい。その合理的理由を考えねばならなくなった。
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ポークソテーなぞ。
https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1304184228783902722
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