第43話 終幕、美岬といつまでも
美岬の部屋に移動。
美岬、机に向かって受験勉強に余念がない。
俺も帰ったら、がんばらないとね。
今回の事件以後、ようやく初めて二人きりになれたよ。
「あれっ、本棚整理したの?」
いつもの本棚に、かなりの隙間が空いていた。
「うん、弥生ちゃんが、この部屋にいたじゃない?
そのときに、高校受験関係の本を見ていたので、全部あげたのよ」
そっか。
慧思の妹が、姉に勉強を教わるときは自分で問題集とか持ってきていたから、自分の使った問題集とかを渡そうなんて思いつきもしなかった。美岬が気がついてあげられたのなら良かったよ。
「妹とかって、いたらきっと可愛いよね」
美岬が言う。
そうか、考えてみれば、美岬は一人っ子だし、部活もできなかったから「後輩」もいない。年下の、懐いてくれるような子と話す経験自体がなかったんだ。
「可愛いだろうな。
あの慧思ですら、妹のことになると人が変わるからなぁ」
姉が言うには、弥生ちゃんは優秀だそうだから、高校は俺たちの後輩になるか、越境してでもさらにいいところに行くか、まぁ、自由があっていいよね。
「ま、あの子も家庭の問題抱えていたし、姉や美岬が可愛がるのならば慧思も問題ないと思うし、いいんじゃない? また遊びに来てもらえば?」
俺の言葉に、美岬の顔が輝く。
「そか。
問題ないなら嬉しいな。
菊池くんに話してみるよ」
「慧思もきっと喜ぶ。
てか、今も姉から料理とかいろいろ習っているし、周囲からエネルギーを貰えるのは悪いことじゃないしね。
おまけに、俺たちの正体も知られているからさ、こんな感じでコミュニケーションとって信頼関係ができていれば、不要な疑心暗鬼も防げるじゃん」
「そだね。
真、いろいろ考えてるんだね」
「いや、まだまだ、だめだめ。
さっきもダメ出しされてきた。
碁も、ちっとも勝てないし……」
美岬の首が横に振られる。
「ダメってことはないと思うけどなー」
「いやぁ、さっきも大負けに負けたよ」
そう言いながら、床に座り込んで、椅子をこちらに回した美岬を見上げて愚痴る。
「一回も勝てなかったの?」
「勝てるわけないよー。
今日、置き石が一つ減った。だから、これからまた、少なくとも一ヶ月以上、一回も勝てない日々が続くんだ」
「すごいじゃん。
またハンデが減ったなんて。
すごいなー」
そう言われても、持ち上げられ過ぎって気しかしない。
「言い過ぎだよー」
そう言って、足を投げ出す。
「そんなことない。
母が、父に幾つ石を置いているか知っている?」
「えっ、ハンデなしじゃないの?」
「星目置いているよ」
「嘘っ!?
俺より弱いじゃん!」
「……碁はね」
そりゃそうだ。
それ以外、なにをやっても勝てる気がしない。
美岬は立ち上がって、部屋の鍵を掛けた。
本音で話すモードだ。
俺も思わず正座になる。
そして、美岬は言葉を繋げた。
「今回のことでより解った気がするけど、母の強さって、覚悟から来ているんだよ。
人を殺す判断ができるほどの覚悟。
その覚悟が伴ったときだけ、母は父を超える。碁で相手の石を殺すのに覚悟はいらないもん」
「話は解るけど、怖い覚悟だね……」
「母が、父と会った十六歳のときから、そんな覚悟ができていたとは思えない。
娘の私も知らないところで、どれだけの修羅場があったんだろうね?」
「うん」
なんとも答えようがない。
坪内佐なら知っているだろうけど、「楽しい人」と評したなにかがあったのだろうね。
ただ解るのは、武藤さんと出会ったあとも、この家に安住できるような日々ではなかった。武藤さんとも、半別居状態になった。
おそらく、それを支え続けたのは、お互いを信じる心の強さだけだ。
そして、別の見方をすれば、お互いの心の弱さをお互いでフォローし合い続けたからだ。
今回、俺が自分の中で感情を整理できなかったから、美岬を狼狽させてしまった。美岬自身が自分の遺伝子の件で動転したとしても、俺がしっかりしていれば、もう少し落ち着いた対応だって可能だったかもしれない。
でも強さも持てず、フォローし合うこともできなかった。
そこは限りなく反省するポイント。
でも、それだからこそ、「引退」なんてのも口から出すことができた。
そういう意味では悪いことばかりではなかった。
ま、言い訳だけどさ。
でも、今、謝れるタイミングだよね。
「美岬、今回はごめんな。
俺が動転しちまったから、美岬に迷惑をかけてしまった。
申し訳ないと思っている。
でね、一つだけきちんと聞いて欲しい。
俺は、俺の事情で動転してしまった。そして、逃げてしまった。
俺、いろいろと考え、自分の心をもきちんと確認してみた。
特に、なぜ、美岬の香りの話に動転したのかをね。
武藤さんの言うことは、全面的に正しい。
生物学的に正しいんだから、俺に対しても正しい。
俺は、それに救われた。
でもね、俺には俺の想いがあって、そこについての整合性はきちんとしたかったんだ」
そこまで言って、美岬と視線をしっかりと合わせる。
美岬はちょっと不安を感じている香りになったけど、俺は今、きちんと話しておきたいんだ。
「その結果だけど、今の俺、なんていうのか、美岬のことを前みたいに盲目に好き、というのではない気がする。
今回の件の前は、美岬は俺の体の一部、心の一部だった。
どうして体の細胞が溶け合って一つの存在になれないのか、不思議で仕方なかった。
今は違う。
俺、変わっている。
美岬は俺にとって他者。
そして、最大に大切な他者」
美岬がびくってしたのが判る。
緊張している。
でも、最後まで聞いて欲しいから俺は続ける。
「誤解しないで聞いて。
他者は他人という意味じゃない。
今までは美岬との間に共通点を見つけて喜んでいた。共通点を見つけるたびに、君は俺、そう思っていた。
でも、たぶんそれじゃだめなんだ。
君がフェロモンを出すとして、その是非は武藤さんの言うとおり、なんの問題もない。もちろん、俺がそれに反応して感情が動くのも問題ない。
それなのに、気にせずにはいられなかった理由は、『人間という病』だけじゃない。
俺はさ……。
美岬が俺を好きなのと、俺が美岬を好きなのが同じ動機でなきゃ嫌だったんだ。
君が俺を純粋な気持ちで好きでいてくれるのに、俺は蛾や獣のように香りに反応して君を好きというのは、裏切り以外の何ものでもないと思ったんだ。
共通点を見つけて喜ぶ関係では、違いを見つけるたびに裏切ったり裏切られたりの気がするかもしれない。特に、好きな理由が違うと、裏切った気が最大になってしまう。
でもね、当然だけど美岬は俺じゃない。
本当は違うのが当たり前で、その当たり前のことに裏切りもなにもありはしない。
俺は、美岬が好きなあまり、そんなことも判らなくなっていたよ。
俺、これからは、美岬との間に違いを見つけても、それを喜べる関係になりたい。
他者として美岬を尊重し、違いを大切にしていければ、もうこんなことで動転はしないと思う。
美岬から見て、当然の馬鹿なことを言っているように感じたらごめんね。
でも、俺、そんな事を考えて、すごく自分で納得したんだよ」
美岬、考え込んでいる。不安からではないのは判る。
そのまま、五分くらいは沈黙があったと思う。
ようやく口を開いたとき、なぜか少し顔が赤い。
「『えっちのあとにしか本音で語れない恋人同士は、必然的に別れることになる』って聞いたことある?」
「なに、それ?
初めて聞いた」
「父の本棚にあった、劇作家のエッセイに書いてあったの。生々しい単語はちょっと変えたけど。
でね、その意味が、私には全然解らなかったんだ。
でも、今の真の話を聞いていて、やっと解ったよ。
私も、真との共通点と、一緒にいられる時間ばかりを見ていた。
違いがあるなんて想像もしていなかったし、今ある違いは整合させていって、なくなっていくものと思っていた。
それじゃダメなんだね。
違いはなくならないし、その違いをどう努力しても許せないならば別れるしかないし、違いが好きになるのであれば、ずっと一緒にいればいい。
でも、それをきちんと正視できなくて、許せない違いを普通の時には話せなくて、えっちの余韻の安心感の中だけで話せるとか、酔っ払ったときにだけ本音を話せるとか、そういう関係ってダメダメだし、確かに別れるしかない関係だよね。
真、なんか、私も納得した。
私も見えていなかったし、考えもしていなかった。
そうだよ、真は他者なんだし、違いも言える関係じゃないと、なんでも話しているつもりでなにも話していないことになるかもなんだね……」
美岬、難しい顔をして天井を見上げる。
あれっ、この癖は父親譲りかな?
俺も、これに気がついたもう一つの理由について、この際だから話してしまおうと思う。
「たぶんね、武藤さんたちは歳の差もあったし、最初から武藤さんが包容する側に立った関係だったように見える。だから、こういう問題はなかったのかも知れない。
例として口に出しちゃ悪いけれど、武藤佐が武藤さんを『先生』と内心思っているのであれば、『先生』と自分を同一視することはないものね。
そこから、俺、気がつけたんだよ。
美岬と俺は同じ歳だし、今の共通点も多いし、将来の共通点も多い。自然にそれを増やすことに一生懸命になってしまうし、それが当たり前になってしまう。
おまけに、共通点を見つけるたびに達成感もあるよね。
それ自体は悪いことではないけど、でも、当たり前にしちゃいけないんだ。
今回、『危ないな』って思うことが多かったけど、俺、これが最大に危なかったことだと思うよ」
「たしかに危ない……」
「だろ?」
「うん。
そのうちに、本当に違いを口に出すこともできなくなっていたら、アウトだったよね」
ふと思う。
もしかして、武藤さん、俺たちの関係の危うさも見えていたのかな。
あんな苦言を言ったのも、俺と美岬の関係に足を踏み入れないままに、それでも危うさを伝えたかったのかもな。
きっと、共通点探しだけに頑張っているのが見えていたら、子育てなんて言い出す俺は、ちゃんちゃらおかしく見えたんだろう。
「美岬、お願いがある。
今は今として、これからの十年もそれとして、その上で『つはものとねり』を離れたあとの、『つはものとねり』とは無縁の美岬を作って欲しい。
その美岬を、俺は変わらずに守るよ。
からっぽの君は守りようがないから、充実した中身を作って欲しいな」
「言いたいことは解るけど、難しいね。
具体的にどうしていいのか、まだ分からないよ」
「うん、難しいと思う。
美岬の人生、ずっと『つはものとねり』と一緒だったからね。
でも、時間はたくさんあるよ。
そして、思い詰める必要もない。
武藤佐のような覚悟も必要ない」
「いいのかな?
そう言われると、真に苦労を押し付けて、私だけ楽しているみたいだよ」
俺、膝立ちになって、美岬と視線の高さを揃える。
「いいんだ、美岬。
それが
学校の同じクラスの女子で、そこまでの苦労背負い込んでいるのなんか、一人もいないよ。
俺だって、いろいろ背負っているかもだけど、それだって十代続いた明眼に比べれば遥かに軽い。
それにね、武藤佐も、もうちょっとしたらその覚悟から開放されるかもしれないよ」
「えっ、どういうこと?」
「武藤さんがね、『あと十年で引退させる』ってさっき宣言したよ」
「母はなんて!?」
「嬉しいって」
「そっか……。
……そっかあ」
美岬、ただただ、そう繰り返す。
たぶん、それしか言えないんだ。
「武藤さん、俺の真似だって。
ねえ、美岬、褒めて。
あんまりできは良くない彼氏だけど、今回はちょっと達成感があるんだ」
あ、美岬、うるうるしている。
「真、真。
そんなことない。
確かに周りもすごい人多いけど、真だってすごい。
だから、そんなことは二度と言ったらだめ。
約束して!」
「ああ」
美岬の勢いに、押し切られるように返事する。
「真、真は、私や菊池くんを含めて、何人もの人を幸せにしているじゃない。
それって、戦って勝つよりもすごいことだと思う。
それは解ってよ」
「いや、恩着せがましいのはきら……」
「そういうことじゃない!
それで、自分がなにもしていないみたいに思って自己評価を下げていたら、それは悲しすぎるよ。
私の人生を、本当の意味で与えてくれたのは真。
世の中が悪意に満ちていても、私にとって唯一の善意の象徴なのも真。
恩着せがましいとかじゃない。
それは忘れないで……」
これは……、美岬が二年前に伝えてくれたこと。
そうだったね。
ありがとう、美岬。
なんか、すごく落ち着いたよ。
俺、十年後に勝てているかも知れない。美岬を、誰もが祝福する形で、「つはものとねり」から切り離せるかもしない。初めてその自信みたいなものを感じているよ。
美岬は話し続ける。
俺が納得したのを、顔の温度変化から見たのだろう。
「真、今回すごかった。
私だけでなく、私の家族までを救ってくれたんだよ。
真!」
椅子から滑り降りた美岬は、そのままの前歯が当たるほどの勢いで、唇を俺のそれに重ねる。俺は美岬を受け止め、互いに膝立ちのまま抱き合う。
美岬から、熱い体香を感じる。
いや、違う。
存在自体が燃え上がるように熱いのだ。
髪をなで、視線を合わせる。
やっぱり俺、武藤さんの言うことに納得できない部分があるよ。
この感情が、たとえ結果としても性欲と同じとは思えない。
大切で大切で、どこまでも誇らしい。
そうだ、俺は、美岬のことをトロフィーとして見ているだけじゃない。俺のしてきたことも、ここにあるんだ。美岬の言うとおり、それも肯定して誇っていいんだ。
視線を合わせ、どうやっともそれを外すことができず、再度、唇を重ねる。
言葉なんかいらない、とは思わない。
でも、言葉という道具では、今の感情に追いつかない。
「美岬。
ありがとう。
俺、がんばるよ」
ようやく言葉を絞り出す。
気の利いたことなんか言えない。また、そんなの、今の感情と比べたら嘘っぽくなってしまう。
ただただ、今の気持ちと未来に向けたなにかを告げる。
それだけでいい。
そして、この感情を糧に未来を紡いでいく。
一日一日を大切に繋いで、美岬の手を汚させず、守り、自分も無事に人生を終える。
それを実現している先輩はいくらでもいるし、俺だってできるはずだ。
美岬。
俺と出会ってくれて、ありがとう。
俺、勝つよ。
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