第13話 母としての問題


 美岬のようには納得はできないっていう、青ざめた声。

 武藤佐だ。

 「先生、一つだけ教えて。

 私は美岬を産んだ。でも、その美岬はあなたの血を引いていないかも知れない。

 私はそれがとても申し訳ない。浮気をした、間男の子を産んだというような後ろめたさとは違うものだけれど、それでも、いちばん大切な人の血を受け継げなかったことは、どう考えても後ろめたいの。

 ごめんなさい」

 言いながら、その声は咽び泣くようなものに変わっていった。


 「毎回言うけど、先生は止めてくれ、頼むから」

 「ごめんなさい」

 そう言って、武藤佐はさらに小さくなる。

 でも、何となく解る。

 美岬を得たことで、この人たちは癒やされたんだ。その癒やされたという感情というか、引き離されていた十年のトラウマというか、そんな根幹にかかわる話になっちまっているんだ。

 武藤佐は、美岬の悩みとは論点が大きく違うところにいる。


 「双海君と美岬がどう考えるかは分からないけどね、僕はこう思っている。

 美桜、君が美岬を産んだのは、生物学でいう分裂かな?」

 分裂ってプラナリアかよ?

 「さすがに、その言葉には違和感があります」

 「そうだろうね。

 さっき、双海君がグレッグ君に言われたという発生の話は、そのままそのとおりだと思うよ。発生の初期過程は、遺伝子とは関係ない。受精のショックそのものが発生のスタートになる。

 遺伝子なんて、設計図に過ぎないわけだから、それを組み立てる工場が先に整備されるのは当然のことだ。

 遺伝子が設計図に過ぎず、工場が稼働していることが生きているということであれば、美岬の命を創ったのは君と僕で間違いないよね」

 「はい」

 「すなわち、受精それ自体が意味あるよね。

 さらにもう一つ。

 通常の親子関係であっても、メンデルの優勢劣勢の法則があるからね。

 たまたま僕の持っている遺伝子が、劣勢のものが多ければ、美桜の形質が多く表に出てくる。だから、どこまでも美桜に似た子供が産まれてくることに不思議はない。

 そして、妻に似た子だから愛情が持てないというのは、思考にしても感性にしてもおかしなことだ」

 「はい」

 本当に、武藤佐、生徒に戻っちゃっているよ。さっきから、「はい」って、そればかりだ。


 「僕がいなければ美岬は産まれなかった。

 まあ、子供がどちらに似ていても父親の自覚は持てるよね。

 そして、僕の遺伝子が美岬の中に皆無ではないということは、それが発現することもあるだろうし、結果として双海君が聞いてきた例のように、逆になにかの機能を失うこともあるだろう。

 今聞いた範囲では、このことに関するグレッグ君の言いようも、かなりあやふやのような印象を受けたけどね。

 なんせ、君たちは生物学上の例外的な存在なんだから、その機作だって、まだ解明されているはずもない。

 とにかく、それだけの関わり合いがあるのなら、美岬は僕の娘で問題ないし、そもそも厳密にはクローンではないよね」

 「はい」

 そうは答えたものの、武藤佐は青ざめたままだ。


 美岬に武藤さんの遺伝子をきちんと受け継がせられなかった。その問題自体については、なにも解決していないし、どうしようもない。

 たぶん、武藤佐は武藤さんの考えや思いは、それはそれとして、後ろめたさみたいなものは全然解消されていないんだ。

 たぶん、美岬はそのあたりの悩みがない。それが今時点での救いになっている。

 母娘でこの状態になっちまったら、たぶん、事態はオシマイだったはずだ。



 「美桜、美岬、これが僕の考えだ。

 僕は、なに一つ裏切られたという意識を持っていないし、君たちが悩んでいることについても、『それがどうした』としか言いようがない。

 あとは、君たちはどう考え、どう割り切るか、だよ」

 そう言って、再び天井あたりに視線を持ち上げる。

 この人の考えをまとめるときの癖かもしれない。

 自分の論理が、肝心の妻に対して不十分であることを悩んでいるだと思う。

 俺が、囲碁、もっと強くなれば、この人にこの行動を取らせられるかもしれない。そしたら、癖かどうか判るけど、そんな日は来るんだろうか。



 数瞬悩んだ後、他に目を向けさせることにしたらしい。

 武藤さんは話題を変えた。

 「今、考えなければならないことは、グレッグ君の思惑だよ。

 僕は、常々君たちの世界とは関係ないしタッチはしないと言ってきた。

 けどね、結果としてグレッグ君は、組織の人間としての美桜ではなく僕の家族としての美桜に手を出した以上、この問題に限り、僕は避けることを続けようとは思わない。

 一つ確認させて欲しいな。グレッグ君の思想的背景はクリーンなのかい?」

 「石田佐が買っているくらいだから、大丈夫なんだと思う」

 美岬が答える。


 武藤さんの口から出た言葉は辛辣だった。

 「確認するけどね、買っているのかい? 用心しているのかい?」

 「えっ!?」

 「諜報機関どうしの約束の価値なんて、紙より薄いよね。状況によって、どうとでも利用しあうものだろう?

 なのに、君たちに手を出さないよう、あえて約束させた目的は、アメリカの組織を抑えたかったのか、グレッグ君を抑えたかったのか、石田さんの目的はどっちなの?」

 美岬は答えられない。答えられるはずがない。俺たちは、そこまでの情報は得ていないし、推理し判断する材料もない。

 そして、自分で自分を打ちのめすまで責めずにはいられない、今の武藤佐の判断は少し心許ないかも……。


 「石田さんは、グレッグ君もしくはアメリカのどこかの組織がやりたいことを見抜いて、釘を差したのかもしれない。

 そうなると、坪内君の考えを聞きたくなる。坪内君もそれを明確に見抜いている可能性が高い。

 理由としては、美桜たちと双海君の遺伝情報の特許が抑えられていることだ。

 そんなことするの、坪内君しかいないし、結果としてそれがグレッグ君もしくはアメリカの行動に制約をかけているからね」


 とんとんとんと、畳み掛けてくる。

 この人がなぜ、この才能を囲碁だけに浪費しているのかが理解できない。

 坪内佐がグレッグの動きを封じるなんて視点、俺は思いつきもしなかった。

 ひょっとして、この人、一人で戦略の坪内佐、戦術の武藤佐、その二人と匹敵するんじゃないか?

 それにもう一つ、「坪内君」って、武藤さんは、坪内佐とどんな関係があったんだろう?

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