第10話 自然界の掟


 武藤は、改めて、自分以外の四人の顔をゆっくりと見下ろした。

 小柄な美桜と美岬が同じ視線の高さで武藤と話そうとすれば、ソファから立つしかない。それほど武藤の体格は大きい。


 ゆっくりと武藤は話しだした。

 「美桜、美岬。

 まず、一つ目に言いたいことだ。

 君たちが見落としていることがある。

 君たちが、クローンだとして、かつ、その歳になると誘惑物質を出すとしてだ。

 それは、男ならば誰でもいいとか、男ならば誰でも引きつけるということを意味しない。おそらく、君たちはまずそこに傷ついているのだろうけれど、その理解は誤解だ。

 さらに言えば、たとえ、男ならば誰でも引きつけるものだとしても、それですら問題はない」

 まずは、そう言うが、うなだれている美桜以外の視線は、武藤の方を向いて動かない。


 「事実から推測できるのは、誘惑物質を出すとしても、それを感じ取る受容器を持つ男は案外少ないということだ。

 美桜、高校生の頃、君は電車通学だったよね。電車の中という密閉空間で、大変なことになったりした経験があるのかい?

 美岬、君も学校で、男子生徒の集団から追われているのかい? むしろ逆だったんじゃないかな?」

 そう言って間を置く。


 おのおのが、その意味を理解したであろうタイミングで話を続ける。

 「確かに、十代の頃からある意味で隔離されてしまった美桜に比べて、美岬は過去にさまざまな事件に巻き込まれている。それにこの体質が関わっていないとは言い切れない。

 だが、具体的に、その数は何例だろうか?

 事態の深刻さではなく、その数のみで聞くのだけど、五例ほどじゃないだろうか? そして、その誘惑物質なりがなくても起きたであろう数を引いたとき、その誘惑物質を出すことの意味が正しく理解できるはずだ」


 美岬が頭の中でカウントをしている。

 相当の精神的負荷があることが見ているだけでも解る。

 武藤は救いの手を伸べる。

 「無理に数えなくてもいい。

 ざっくりでいいんだ、こんなことは。

 必要なのは正確な数値ではなく、傾向なのだから。

 いいかい、ざっくり考えて、六割から八割だとしよう。すると、美岬に起きた事件の三件から四件は、誘惑物質なりが原因だとしよう。

 これは、無差別に男ならば誰でも誘惑するという仮定による数としては、少なすぎると僕は思うけどね。

 例に出すには極めて不謹慎だが、痴漢に遭いやすい女性はいる。その被害数に比べたら、無差別に男ならば誰でも誘惑するとは言えまい」


 武藤は続ける。

 「さらにその上で、二つ目だ。

 ミニスカートをはくということについて、女性の着衣の自由の権利と、男性を誘惑し事件を誘発してしまうという両面からの議論の堂々巡りがあるけど、この問題は、それと極めて類似しているとは思わないか?

 ここで、その堂々巡りを繰り返すつもりはない。

 けれども、裏を返せば、その程度の問題でしかない。

 絶対的に避け得ない突発的現象ではないし、現実的対処もできる。事態の予測も予防もできるということだ。

 予測も予防もできる問題に対して、絶望する必要も悲観する必要もない。

 むしろ、予測も予防もできる問題と切り分けられたのは、僥倖ですらあると思う。美岬がこのような問題に巻き込まれる危険は、この先大きく減るだろうからね。

 嗅覚の鋭い双海君の協力も得られれば、さらに完璧だろう」

 そこまで話して、聞き手の理解が追いついていることを確認するための間を取る。


 「では、なぜ、そんな機能があるのだろうか?

 さらに言えば、そもそも、その命題を考える必要はあるのかな?

 これについては、美桜、美岬だけではない。双海君もだけど、『人間という病』に冒されているからこその悩みになっていないかな?」


 「……人間という病?」

 菊池が口の中で呟いたのが聞こえた。

 この子も回転が早い。が、それをあまり表に出さない。用心深さが人格の一部となっているのだ。今回のことでは、一番冷静に見ていられる立ち位置にいる。

 双海を連れ帰ったのは、この子でなければできなかったことだろう。おそらくは、娘ですら無理だったのではと思う。

 美岬では連れ戻すどころか、一緒に心中しかねなかった。


 「それを三つ目として話そう。

 まずは、一つ例を挙げよう。

 先程と同じだ。今回は、その例を少し深める。

 ミニスカートの女性がいるとしよう。キレイな足が見えている。

 そこを好きになる男がいる。嫌いではないが、特にそこに惹かれない男もいる。

 この例と、君たちの誘惑物質を出すという事象のなにが違うのかということだな。

 着衣が後天的で作為的だというのであれば、胸や尻の大小、髪の質や足の長短、もう、なんでもいいよ。

 女性のそれぞれの個性と、男性側の好みの組み合わせってのは、いつでもどこでもありふれた問題だ。誤解がないように言うけれど、男性のそれぞれの個性と、女性の好みの組み合わせと言い換えても事態は変わらない。

 知能の向上による異性へのアピール方法の多様化と、好みの多様化によるマッチングは、ヒトという種の生存戦略上有効なものだ。足のキレイな女性しか生殖対象ではないとなれば、男性は血みどろの争いをし、次世代の数は大きく減ってしまう。

 それに対し、他の生物では、クジャクならばオスの尾羽の派手さ一本での勝負のように、本来これは単純なものだ。そこに、本来それ以上の意味はない。

 なのに、ヒトだけが自らの知能によってそれを複雑化し、しかも順位をつけた。

 胸の大きい女性を好むよりも、読書を習慣とする女性を好む方が、より人間として素晴らしい男性だ、みたいにね。

 挙句の果てに、『胸の大きい女性は頭が悪い』などという迷信を生むに至っては、噴飯ものだ」

 高校生はまだ純粋なのだな、と思う。

 双海も菊池も、「そんな迷信、初めて聞いた」という顔をしている。


 「僕はね、精神の働き、知能の働きに重みを置くこと自体は決して否定しない。

 でも、それが行き過ぎると、肉体の働きを軽視して自らを生物ではない、より優れたなにかであると思い始めるんだ。すなわち自分を、『ヒト』という生物ではなく、『人間』という神に近いものだと思いたいという病になると僕は思う。

 要は、『人間』は一番、『ヒト』は二番と順位を付けているんだよ。同じものなのにね。

 どれほど高尚なことを考えても、それは肉体の一部である脳での産物に過ぎない。その肉体の作用を蔑視してはいけない。そこには順位など最初から存在しない。

 ヴィーガンが、いかに高邁な理想を掲げても、その食生活では健康を損ない、子供は育たない。

 昔の権力者が、自分が神に等しいと考えて、暴飲暴食、酒池肉林をやらかして、早死していく。他のすべての人間を従えて、気持ちは神になれても、肉体は『ヒト』のままなんだから当然のことだ。

 この二つの例は、やっている行動は真逆だけど、心理的には同じものなんだと思うよ。

 共に、自分のことを、『ヒト』の肉体に支配された存在以上の者だと思っているんだ。

 そして、どう思おうとも、生物の肉体という物質は変わらない。

 それが自然界の掟だ」

 武藤は、言葉を切るとゆっくりと全員の顔を見た。

 そして、最後に自分の娘に視線を向けた。



 「美岬、この話のあとは、自分で考えなさい。

 『人間』崇拝は、異性へのアピールする個々人の個性というものにも、順位をつけた。

 その個性を形作る要素はいろいろなものがあるけれど、『性』に関しては生殖を目的とする以上、時には順位が無視されて、ただ単に健康な若い女性が大切にされてしまうという矛盾がある。

 そこに是非はない。

 そういうものだからだ。

 また、そうでなければ、『ヒト』という種の維持ができない。

 誰もが赤ん坊から老齢に至るまでの時間を過すという機会の平等があり、肉体、人格、知能、いろいろな要因のすべてがその時点の一個の人間を作っていて、本来、それらはすべて順位を付けられない並列のものだ。

 ここまでが、僕の考えの基礎になる。

 その上で、今回の問題を捉え直してみなさい」


 美岬が答える。

 「私が、どのような思想や特技、肉体的な特徴があったとしても、これら全てが私の個性であり、その個性を受け入れる男性も多様な好みの中で私を選んでいる。そして、私と相手の男性の主語を入れ替えても、事態は変わらない。

 そして、このシステムは自然界でありふれた当たり前のことだから、その多様な個性の一つだけを取り上げて問題視するほうがおかしい、と?」


 頷く武藤の目が優しい。

 「そうだよ。

 そして、君たちが持つ個性の中に、なんらかの誘惑物質フェロモンを出すということがあっても、自然界の生物の例から見ればありふれたことに過ぎない。

 そこをとやかく悩むのは、自分が生物以上の何かと勘違いしているからだ。もっと的に素晴らしい利点のほうが良かったと無意識に思っているんだ。

 残念ながら、君たちも生物だよ。

 生物だから、生殖機能を持ち、それが可能な年齢になって、その機能が働いているだけのことだ。

 僕の価値観から言えば、そこに不必要なまでの価値を見出すことも、否定することも、ともに生物としての逸脱行為だね。

 人間としての美学は、その上に考えるべきだと僕は思う」

 そう言い切った。

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