第5話 泣き寝入り
うちに帰りついて、まだお昼前だった。
結局、いまさら学校に行く気にはどうしてもなれない。
ふて寝と言いたければ言え。
そのまま居間の畳の上でごろっと横になって、座布団を枕にする。2階の自分の部屋に行くために、階段を登る気力もない。
データは持って行けと言われて、M1からM3までの印刷データはそのままここにある。
グレッグが、俺にピンポイントで話を持ちかけたのは正解だと思う。慧思ならば、俺ほど悩まないだろう。
労力対効果という意味で、最良の選択だよな。
俺が落ち込み気味、いやマジに落ち込むほど悩むのは……。
俺は、美岬が好きだという、俺にとっての真実さえ疑わざるをえないからだ。
俺のこの想いは、美岬の生理反応に呼応した単なるオスの生理反応なのだろうか?
オスの蛾が、羽をボロボロにしてまでメスの周りを飛び続ける、そんなことに過ぎないのだろうか?
俺だけじゃない。武藤さんのあの、十年をかけた再会のための戦いさえ、生理反応に支配された帰結に過ぎないのだろうか?
いや、物質があって、それに反応したなんていえば、それは単なる化学だよ。
感情じゃない。
昔、「恋愛は化学に始まり物理で終わる」って笑い話を聞いたことがあった。
でも、現実に、その化学とやらを突きつけられると、これっぽっちも笑えない。
そうだとしたら、そこに人間としての愛だの恋だの、果ては人生の真実なんてないんじゃないのか?
考えれば考えるほどわからない。
俺にとっては、美岬への想い、それが根本だ。
それが揺らぐと、もう、すべてがあやふやになってしまう。今までの自分の決断のすべてが、誤りだったような気さえする。
俺は、いい気になっていたのだ。
それだけは確実に言える気がした。
− − − − − − −
泣き寝入りというのでもないけれど、いつの間にかうとうとしたようだ。
ま、逃避だな。自分で判っている。
判っていたって、どうしようもない。
逆に、判ったからって陽気になれる奴がいるのならば、是非とも会ってみたいものだ。
玄関が開く気配で目が覚めた。
足音が軽やかに近づいてくる。
「母から連絡があったから、すぐに来たよ。高速のスマートインターのカメラに、グレッグと一緒に写っていたって。
なにを話したの?」
美岬だ。
美岬がいるのに、心が沈む。
こんなこと、初めてだ。
美岬が横にいるのに、そちらを見ることができない。
俺、今朝まで、美岬に対して何一つ
なのに、今は顔すら見られない。
俺の想いが、美岬の匂いに操作された生理的な反応に過ぎないものだとしたら? 俺の中の純なるものと信じていたものが、幻想に過ぎないとしたら?
俺は美岬を愛したのではなく、汚しただけなのだろうか?
その考えが、その恐怖がどうしても頭から離れない。
嗅覚が働かないように、反射的に息すら止めてしまう。
「真!?」
悲鳴に近い美岬の声。
俺の心の迷いをその目で見たんだろう。
「ねぇ、こっちを向いてよ!」
「ごめん」
喉元にこみ上げてくるかたまりを飲み下し、かろうじて声を出す。
美岬の声が半泣きなのが解っていても、それでも、これ以上は無理。
美岬を泣かせているのは、俺の想いが嘘だったせいだ。
そう、すべて俺のせいだ。
情けないことに、俺にはどうやったら自分を、自分の心の中を信じられるのかが全く分からないんだ。
美岬の手が、俺の横にあったグレッグの資料を手に取る。
それを止めようとも思わなかった。
科学的真実ならば、隠したっていつか分かることだからだ。
「これ、遺伝子のなにかの図だよね。なんの……!!」
美岬の驚愕が伝わってくる。
香りの変化から、一瞬で全身の毛穴が締まるほどの衝撃を受けているのが判る。顔を上げて見れば、きっと総毛立った蒼白な顔が見られただろう。
美岬は図の意味を理解したのだ。
美岬ほど勘が良ければ、M1からM3という表記だけですべてを察したはずだ。
「遺伝子の発現が同じってことだけで、ここまでのことは起きないよね。
まさか、そのものも一緒ってこと!?」
半ば、悲鳴のような青ざめた声。こんな声、今まで聞いたことがなかった。
それなのに、俺、ただ頷くしかできなかった。
無視もできなかったし、そもそも美岬に対して嘘は無意味だ。
美岬が、すっと立ち上がる。
そして、濃厚に涙のにおい。
「ごめんね。本当にごめんね」
「謝るのは俺の方だ。
俺の想いは、俺の中から生まれたものじゃないんだって……」
でも、「美岬の生理反応に呼応しただけかも」とは、どうしても口に出せなかった。
それを言ったら、美岬が壊れてしまうような気がした。
口から出たのは……。
ただ、これだけ。
「ごめん」
「私、モンスターだったんだね。
ごめん……」
美岬は、俺の家から出ていった。
そう、逃げ出すように。
そして、それを引き止める気が、どうやっても俺の内に起きてこなかった。
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