第16話 ペリー上陸の陰で


 ペリーたちの久里浜上陸に備え、下曽根信敦率いる洋式歩兵部隊の一群が浜辺に整列していた。

 美羽、美緒、加藤は井伊家の幕が張られた一画に身を潜めている。ここには、直弼からの一声で入ることができた。


 幕の隙間から、それぞれの眼が光る。

 警備、護衛の者に化けるというのは、暗殺の常套手段である。その手にかかってしまうとすれば、あまりに情けない。

 ふと、美羽と美緒が目を合わせたのち、美緒が振り返って加藤に聞く。

 「加藤様、前列、右より六番目、不審な者とはお思いになりませんか?」

 「うむ、何やら、他の者とは気配が異なる。

 ただ、それがしにはそれ以上のことは判らぬ。異人を目の前にする緊張、また、一例を挙げるならば、腹痛などでも気配は変わるのではないか?」

 「私ども、そのような理由であれば、一目で見抜けます」

 美羽が言う。その者から視線を外さぬままである。

 そうなると、もはや加藤には何も言うことはない。


 「それでは、下曽根殿に早速に御注進するべきではないか」

 その声を背中で聞いて、美羽がいう。

 「美緒、井伊家の方にお伝えしなさい。

 ただし、無用な騒ぎは避けるよう、そっとその身を抑えるように」

 「どれほどの責め苦を与えても、裏を聞き出さねばなりませぬ。そのためにも、この場は無事にその身を捕縛することが肝要と心得ております」

 「行きなさい」

 美緒は、加藤に一礼して、井伊家家中の溜まりに足を向けた。


 美羽は、黒船監視開始後、ほとんど寝ていないのであろう。頰がこけ、目だけが光っているような状況である。

 いかに準備を重ねたとしても、こればかりはどうしようもない。

 代われる者は美緒しかなく、それまで一人で見続けるしかないのだ。更には、井伊家の者に、美緒も美羽同様の眼を持つことをあまり知られたくないという意識もあった。


 加藤は、美羽のやつれの窺える背中に話しかけた。

 「美羽殿。

 それがしが考えるに、あれは囮ではないのか?

 あの者、そこそこの修練は伺えるものの、できるとは言い難い者ぞ」

 相も変わらず、外を伺いながら美羽は答える。

 「加藤様、その危惧、おそらくは当たっておりましょう。美緒の言のとおりにあの者をいかに責め抜こうとも、黒幕にたどり着けることはありますまい。だからと言って、聞かぬわけにも行きますまいし、一通りの責め苦も必要でございましょう。

 次の襲撃の機会があるとして、加藤様は、それはどのような場とお考えになられましょうや?」

 「警備の目が一番緩むのは、浦賀奉行との会見が終わりし瞬間ときと心得る」

 遠目に、洋式歩兵部隊の一群の中から、怪しいと目した者が連れ出されていくのが見える。

 ようやく、美羽がこちらに視線を向けた。

 美緒も戻ってきた。


 「浦賀奉行との会見が終わったときといえど、衆人環視の中、どのような手がありましょうや?」

 「思いもつかぬ。遠矢、鉄砲を用いても、必中は期し難い」

 考えに耽りながら、ふと加藤の眉が開く。

 「美緒殿。水戸藩屋敷にいるという浪人について、続報はおありか」

 「ありませぬ」

 「もしや、もしやでござるぞ、その者が父であったとしたら……」

 美緒は驚いた顔になった。


 「お父上は、水戸藩から追われているのではなかったのでは……」

 「それがしもそう思っておった。

 が、本当に、父は逃げ回る以外、何もできないような人物かと思うに、それはありえぬとしか言えぬのだ。水戸藩内部に内通者を持ち、いや、違うな、そもそも最初に水戸藩に父を推挙した者がいるはず。

 その者を通じて、水戸藩内部の情報を得ていてもおかしくない。となると、新たな依頼を受けるという素ぶりは身の安全に繋がる。水戸藩としても、我ら父子が相食あいはめば、この上なき首尾となろう」

 「加藤様の父上が相手とすると、どのような手を取られましょうや?」

 どこか覚悟を決めた顔になって美羽が問う。


 「父上ならば、すでにこの地にいよう。

 この地に移動してから、水戸藩邸に怪しい浪人がいるという話を漏らす手はずとするはず。美緒殿が道々の宿場に打った手は水泡に帰す。更に、その手を打ったいうこと自体が、我々にとって、背後は安心という油断ともなる。

 更に言えば、異人への襲撃はない。

 なぜならば、異人を斬れば間違いなく自らの命を落とすことになるからだ。

 父ならば、自らを犠牲にしてまで目的を果たすなどという選択はせぬし、自らを犠牲にせねば全うできぬ仕事は受けぬ。

 そして、この地に水戸藩の消したい相手は、もう一組あるではないか」

 加藤の回答を完全に予測していた美羽に対し、美緒の顔には驚きがある。

 これは、美緒の読みの浅さを表すものではない。

 無理もないのだ。

 美羽は、加藤の父を身をもって知っている。その差なのだ。


 「では先ほどの男は……」

 「おお、そうよ、あの男は、我々が、襲撃されるのは異人どもだと思い込むよう配された者であろう。となると、今、この時すら危ない」

 「加藤様がここにいらっしゃることが、お父上をお止めすることにはなりませぬか?」

 それは、加藤も真っ先に考え、甘えとして切り捨てている。


 「そのことを持ってのみ、であれば無理であろうな。

 水戸藩の者が父に対し、こちらを極めて強敵と誘導しておれば、夜間に後ろから、何ならば今このときに、この天幕を突き抜けて白刃が煌めいても不思議はない。そういう襲い方をされた場合、斬ってから相手を確認することにもなろうし、水戸藩の者もそのような手順を匂わせるだろう。

 だが……、美緒殿、至急じゃ。朱と竹竿を井伊家家中のものからお借りできぬか」


 その口調から察したのであろう。

 美緒は走るように井伊家の家臣の溜まりに走る。

 加藤は懐から手ぬぐいを出し、口に咥え、縦に半分に裂き、その一つをさらに三つに裂き紐とした。

 「朱、ございませぬ。竹竿は今」

 美緒が馳せ戻り言う。

 「やむを得まい」

 加藤は小柄を抜き、袖をあげ、自らの腕を薄く切った。溢れる血を三本の紐の先に沁みこませる。

 残った手ぬぐいの半分を腕に巻いて止血し、袖を下ろす。


 その時、井伊家の小者が一丈ほどもある竹竿を担いできた。

 目礼し受け取ると、その竹竿を美緒に渡す。

 美緒が受け取ると同時に、その長さが半分ほどに縮まった。美緒と美羽を盾に他の者の目を防ぎ、脇差を抜き打ったのである。自らの両手の間を通り抜けた白刃に、美緒の顔が驚きに変わるより、加藤の納刀の方が早い。

 手早く、その竿の先に赤を下に、三本の紐を結ぶ。

 長い竿に目印をつけるなど、この状況ではできぬ。五尺は杖とも言い張れる精一杯の長さである。


 「これを目立つところに掲げられよ。

 これで、父から問答無用に斬られることはない。我が流派の謂わば符牒のようなもの」

 「では……」

 「ご油断召されるな。

 父が、この符牒を見落とすことも考えねばならぬ。また、それがしが偽者かもという疑いも持つはず。

 またこれを見たとて、あくまで問答無用に斬りかかっては来ぬだけだ。

 父は、自らの知る事物と我々の知る事物との確認を先に行うだろう。

 それを手早くできなければ、襲ってくることに変わりはない。ただ、一つ救いなのは、父の知る事物は全て水戸藩からのもの。父がそれを鵜呑みにするようなこと、決してござらぬ。

 だからこその、この目印なのだ」

 「解りました」

 「異人監視も怠りなく。

 それがしが言うた、これ自体がはかりごとという線すらありうるのだからな。だが、どのような謀も、鉄壁の構えには及ばぬもの」

 「つかまつります」

 そう言うと、美羽は、再び背を向けた。

 自らが目を離さないことが、すなわち鉄壁であると理解しているのだ。


 黒船からは小舟が下され、何人かが乗り移るのが見える。いよいよ上陸であろう。海上から波打ち際、浦賀奉行との会見の場までは、水も漏らさぬ警備ぶりである。

 ベリーはアメリカ大統領からの親書を浦賀奉行に手渡すと、あっけなく再び黒船に戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る