第17話 勘当


 すでに夕刻となっている。ペリーは大統領親書を渡したのちには去るものと思われていたが、未だ黒船に抜錨の気配はない。

 美羽、美緒、加藤の三人は、当然、黒船を望める場所にいることを強いられている。

 風雨を形ばかりは凌げるという、浜納屋である。一応の煮炊きもできるが、この程度の場所を確保するのにも、美羽は大金といえる額を使っていた。何しろ、各藩の物見、野次馬までが押し寄せているのだ。

 夜間、母娘が井伊家の陣に居続けるのは無理があった。それだけではない。流石の美羽も美緒と交代せねばその身が保たぬ。この浜納屋に来るまで、厠すら耐えていたのだ。

 安心して食を摂ること、そして睡眠も必要であった。


 相変わらず、美羽は窓から黒船を眺めている。

 その目は、ひたと青い光を帯び、揺らぐことはない。しかし、目の周りは落ちくぼみ、うなじが明確に細くなっているほどのやつれを見せ、疲労の極致にあることは疑いない。


 それでも、昼夜を問わず一刻ごとに井伊家の小物が現れ、報告文を受け取っていく。

 美緒は眠っている。

 乗馬による疲れを癒やし、これから夜通し美羽に代わって監視を行うためだ。

 加藤は、購ってきた食料の煮炊きに余念がない。そろそろ、何かしっかりしたものを食べ、休まなければ美羽は限界を迎えてしまう。しかし、その状態でも、早馬に乗って現れた美緒を気遣い、先に休ませるのは母心なのであろう。


 鮑の煮貝、鯵の煮魚、飯、鰹汁。

 焼くのは煙が立つので控えねばならなかったが、流石は海辺で、金さえ積めば食材は豊富であった。

 「美緒殿、お起きを」

 加藤の声に、美緒は素早く目を醒まし、配膳を手伝う。

 その美緒に、加藤は炊きたてを握り飯にしたものに、作った菜を添えたものを渡す。

 美緒は、美羽に代わって監視に入った。

 目は黒船に向けたまま、口を動かす。

 美羽は、崩れこむように膳の前に座った。


 「ささ。お召し上がりを」

 加藤の声に箸を取る。

 一口、汁をすすると止まらなくなったらしい。飢えきっていたのがわかる食べっぷりである。

 歯のない美羽のため、加藤の調理は行き届いていた。

 飯は柔らかめ、煮貝には隠し包丁を入れ、汁の鰹は煮熟し崩してある。

 魚も海辺で鮮度が良く、ふうわりとした身と生姜の香りがたまらぬ。


 水戸藩邸での絶食に続き、激務で休む間も無く、再びの三日の不眠と、ほぼの絶食である。体力を戻らせる期間がないうちの再度の試練に、美羽の疲労は極限に達していたのだろう。三杯目の飯と汁をかきこんだその手から、椀が落ちる。

 それを空中で受け止め、加藤はそっと美羽の体を横たえた。頭の下に、手ぬぐいを巻いた藁束を差し込み、紙合羽を掛ける。ここでは、それが精一杯の寝具であった。

 美緒も食べ終わったらしい。

 加藤はその背に声をかけた。


 「朝まで、黒船は動くまいな?」

 「おそらく。

 測量をしたとはいえ、不慣れな海、日が差すまでは動きますまい。なにより、人員もほとんどが眠っておりまする」

 加藤には、黒船内のそのような動きが、美緒にはどう見えているのか想像もつかぬ。

 「それがし、少々出かけてくる」

 一瞬だけ美緒が振り向いた。その目が青い。

 「加藤様、お戻りいただけるのでしょうね?」

 美緒が再び背を向け、そのままで問う。

 「そのつもりではおる」

 加藤はそう答えた。


 戻るつもりはある。

 いや、戻りたい。

 だが、父と話を付けねばならない。

 そして、それが円満に終わる保証はなかった。


 「いつまでも……、お持ちしております」

 美緒の声に、あえて応えぬまま加藤は外へ出た。

 父ならば、どこにいるだろうか?

 考えるまでもない。この視野の中にいないはずはないのだ。

 ならば、人気のないところに自分が移動するだけでよい。



 − − − − 



 「景悟郎」

 背中に声をかけられると同時に加藤は跳躍した。

 父から掛けられたのが、声だけとは限らないからだ。

 着地と同時に振り返ると、目立たぬ影のように父が立っていた。

 鯉口を切った風もない。

 「父上」

 加藤も呼びかける。


 「わしも歳をとったな」

 「どういう意味でしょうか?」

 「抜け」

 何が言いたいかは判らぬ。

 が、父が鯉口を切った以上、自分も抜かぬわけにはいかぬ。

 そっと、左の親指で鯉口を切る。


 馴染みの、それでいて決して慣れることのないまでの速さの刃風が、加藤を襲った。

 いつぞやの襲撃者とは、刃風の厚み、重みが違う。それが、父の柔剛合わせ持つ、隔絶した強さを物語っていた。

 抜き合わせるのは間に合わぬと加藤は瞬時に判断し、そのまま後ろに跳躍しながら小柄を放った。

 それを苦もなく打ち落すと、父は一気に距離を詰めた。

 加藤は、右手で脇差を抜くと父の刀を抑え、左手はそのままに、抜かない大刀の柄を父の腹に体当たりするように突き入れた。

 形の上では加藤が一本取ったと言えるが、その実、最後まで大刀を抜く余裕は与えられなかったのである。無理に抜こうとしていたら、切っ先が鯉口を抜ける前に右手を斬り落とされていただろう。


 「こういうことだ」

 苦鳴混じりの父の声である。

 「生きて帰るのみでなく、生きて帰す、か。

 お前の剣はよいな。

 わしの剣は血に染まりすぎた」

 「何をおっしゃられるか。私とて……」

 「うつけが。

 お前自身、解っておらぬのか。美緒とかいったな、あの女子おなご、お前を変えた」

 「言っていることが解り申さぬ」

 「必要ならば、神仏、親、妻子でも斬れと教えたはず。だが、お前はもう、あの女子を斬れまい。

 どうだ、この件に絡み、お前は何人殺した?」

 「二人」

 「そうであろう。

 だが、もしも、あの女子を入れたら何人になる?」


 加藤は、初めて父の言いたいことを理解した。

 真気水鋩流の使い手として、自らの身を安全に保つのであれば、最初の襲撃の相手を斬り、その後に美緒を斬って逐電すればよい。それに派生して水戸藩の侍を何人か斬っていた可能性もなくはないが、おそらくそうはならなかっただろう。だが、足を踏み込むほど、斬らねばならない相手は増える。

 さらにもう一度、機会はあったのだ。

 水戸藩上屋敷から辞去する際、美緒一人だけを斬れば、何も背負い込まずに済んでいた話なのである。

 今や、逐電しようとすれば、何人斬らねばならないのか想像もつかぬ。

 襲ってきた相手のみを処理し、問題に足を踏み込み続けている自分が、改めて振り返ると不思議である。


 真気水鋩流は生き抜くことをその目的とし、逃げることにも、危険の芽を摘むことにも躊躇いを持たないという考えでできた体系である。そのことについて、呵責を感じない合理も持つ。また、危機が起きる前の対処も重要とされる。

 何故、その自分が真っ先に美緒を斬らなかったのか。

 そもそも、水戸藩邸に再訪するなど、自ら死地に踏み込む以外の何物でもなかった。


 それだけではない。

 なぜ、襲撃者の二人を殺したのちは、美緒の前で血を見るようなこと、見せるようなことを避けているのだろうか。水戸藩邸でも、三人を斬って一気に逃げた方が、後腐れもなかった。

 加藤の仕業という目撃者は、話があてにならない門番の老爺を除いて他にいなかったのである。


 父に何を言おうと、自らを生きながらえさせるという家伝の流派に対する言い訳である。

 「わしは、真気水鋩流に沿って生きた。だからこそ生き抜いてここにおる。

 わしは間違ってはおらぬ」

 「父上……」

 「繰り返し言う。

 わしは生き延びている。水戸藩の前藩主という大物を仕留めてもだ。

 景悟郎、覚えておるか? わしが、お前の腕を叩き折った時のことを」

 「はい」

 「お前は、その時から人を殺めることに躊躇いを持たなくなったのだ」

 「痛みとともに生への執着を形にする真気水鋩流の秘術、今は理解しております」

 父は片頬だけに笑みを浮かべた。


 「景悟郎、わしは、柄当てはどこに当てるものと教えた?」

 「人中、勝掛、最悪でも水月」

 「毎日何回、そこに当てるための稽古をした?」

 「一万」

 「お前は、わしの掛けた術を破っている。気がついておるか?」

 「はい、今こそ」

 「もはや、お前はわしの子ではない。お前の道を行け」

 「父上!?」

 父は笑った。


 そして、加藤の耳元で……。

 「とはいえ、まだまだ青いのう。

 水戸斉昭、井伊直弼を襲うぞ」

 加藤は愕然と父の顔を見た。

 「この恨み、あ奴が忘れると思うか?」

 確かに忘れるはずもない。


 「藩同士のいくさに……」

 「ならんよ。

 暗殺されたとすれば、まずは生きていることにして相続の話を固めねば、お家のお取り潰しではないか」

 あまりに父の答えが当然すぎて、反論の余地もない。


 「わしは、真気水鋩流を自らが生き延びるために使った。

 景悟郎、お前は、お前とこの国が生き延びるために使え。畜生の道に限りなく近い我が流派がこのように使われるなら、繋いで来たわしも甲斐があるというものよ」

 「はい」

 「もしも、水戸めが井伊直弼を害した場合、わしがお前に代わって、お前たちの最大の敵を葬る。それがわしの最後の大仕事となろう。

 お前を喰むために、相手がお前と知らせずに、水戸めは三百両出した。これは全て貰っておく。

 もはやお前には会わぬ。

 勘当だからの。

 では、達者に暮らせ」

 「はい」


 父は、水戸斉昭を闇討ちすると言っているのだ。そして、失敗した時に累が及ぶことを恐れて勘当とし、親子の縁を切ったのだ。

 大言壮語をする父ではない。また、自らを犠牲にして敵を打つという道も、家伝の流派にはない。

 ただ、徳川御三家の当主といえど、付け入る隙はあり、父はそれを見破っていて可能と踏んでいるのであろう。



 急所を外したとはいえ、相当の強さで柄当てを受けたにもかかわらず、危なげのない足取りで去る父の背中に、加藤は深々と頭を下げた。



 − − − − − − − 



 暗闇の中、波の音だけが響いていた。

 振り返った、美緒の目が青い。

 「もはや襲撃はない」

 浜納屋に入るなり、加藤は宣言した。


 美緒は、再び黒船に目を向けた。

 その目から流れる涙を、加藤は見逃さなかった。

 交わす言葉も、もはや不要であろう。

 ただ、美羽の漏らす寝息が深い。

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