第11話 新宿追分の宿はずれにて


 美羽は、自ら用意した、美緒すら知らなかった隠れ家を持っていた。

 とはいえ、手元不如意なので、新宿追分の宿はずれの荒れた納屋にすぎない。そこへ、水路を使い木戸を通らずにたどり着いたとき、夏の夜は早、白々と明け始めていた。


 「水戸徳川家上屋敷では、今頃大騒ぎであろう。南帝をお救いする手立てが早急に必要ではないか?」

 そう問う加藤に対し、美羽は、余裕を持って答えた。

 「主上は八王子に。

 これより鳩を飛ばし、連絡つなぎをいたします。馬より鳥の方が早いのは自明、しばし、お時間をいただきたく」


 そう言うと、納屋内の一画から取り出した薄い和紙に文をしたためる。途中から、それを美緒に写させる。自らが書き終えると、原版を美緒に渡し、引き続き写させた。そして、納屋に隣接した百姓家の主に預けてあった鳩を二羽、受け取ってきた。

 二羽の鳩の足に、それぞれ文を結んで放つ。二羽を使うのは、鷹に襲われたりしたときのための保険である。


 「何度もここから飛ばし、みちを覚えている鳩ゆえ、半刻もかからず報せは届きましょう」

 美羽が言う。

 「主上は八王子から先、避難あそばされる場所はおありなのか?」

 「八王子は、『つはものとねり』に属さずとも、南帝をお守りする者がいる場所にございます。かつて、大久保長安が八王子に所領を持ち、八王子千人同心を組織したときに、その中に南帝をお守りする者を忍ばせたのでございます。大久保長安は、金春流こんぱるりゅうの猿楽師の流れ、奈良の春日大社を通じ、南と繋がりがあったのでございます」

 「では、後顧の憂いなく、これからの手立てを考えられるのだな?」

 「そうなりまする」

 「それでは、まず、美緒殿、休まれよ」

 「藪から棒に、何故にでしょうか?」

 美緒は不服そうである。


 「人は、休みなしで働き続けることはできぬ。次には、美羽殿とそれがしとが休む。油断が生じないよう、交代で休むのだ。四六時中起きて、いざという時に役に立たないのは不忠である。お解りか?」

 「美緒、休みなさい」

 美羽も言う。

 美緒は、納得した風ではないが、言われたとおり、屏風の陰で横になった。粗末ではあるが、一応の寝具の用意もある。


 美羽は小声になった。

 「加藤様、ようやく落ち着いてお礼ができまする。お助けいただき、改めて御礼申し上げます」

 「いや、美緒殿の覚悟に感じいったる次第。また、それがしも、身に降りかかりたる火の粉は払わねばならぬ」

 加藤も小声で返す。おそらくは、幾許いくばくかでも加藤と話し、安堵の念を得なければ美羽は寝るまい。

そう思ったからこそ、あえて美緒を先に休ませたのだ。


 「その火の粉の元となりたること、お詫び申し上げまする。我が娘、美緒が頑ななばかりに不要なお手を掛けさせたかと思い、恐縮至極に存じます」

 「……それが良くないのではないかと思っており申す」

 「どのような?」

 話の行き先がわからないという、美羽の問いである。


 「己の頑なさに息を抜く間を失いし人は、疲れ、判断を誤るものにござろう。若輩なるそれがしでも、家伝の道から判ることが有り申す。

 美緒殿は、修行に実務、食に至るまですべてが実戦のようでござるな。息を抜く間を失い、柔軟なる判断の力を失いし若い娘が、頑ななのは当然のこと。

 そして、その頑なさは、いつか握り固めた砂のごとくに脆く崩れ去りましょう。強くするには、芯を鍛えねばならぬ。芯が鍛えられて、初めて常在戦場に耐えうる。

 型に嵌め、一日で得た強さは、見せかけのものに過ぎぬ。

 先回りして、成長を焦らぬこと、焦らせぬことが肝要かと」

 美羽は目を瞑り、二呼吸ほどの間をおいた。考えることもあるのであろう。


 「……娘は、加藤様に、どのような御願いをいたしましたでしょうか?」

 「母と私を守っていただきたいと。母が生き延びねば、南帝のご意思を体現できる者がいなくなると、そう申された」

 「加藤様は、どうご返事を?」

 「助力を約し申した」

 「娘に対する今のお話は、その助力に当たるのでございましょうか?」

 「家伝の流派は、その半分が心の持ち様の修行となっており申す。

 それは、身と心に同じ重きを置くからにござる。頑なな心は、身体をも堅くし、戦場での働きを邪魔するものゆえ、そういったものに囚われず、生きて帰ることのみに注力できるようにするのでござる。美緒殿の姿は、かつてそれがしが通った道、その心をも守らねば大成せずと思っており申す。

 おお、これは、それがしが大成しているような言い方でしたな。失礼は赦さたい」


 美羽は軽く笑った。

 「お気になさらず。

 加藤様は、どのような修行をなされたのでしょうか? 是非にお聞かせを」

 「毎日のすべてが修行という意味では、美緒殿と変わらぬ。

 ただし、かぞえで十八までは、血を見ることはなかった。童のときから血を見続けると、人としての根が荒むと父は言っており申した。

 血は見ないのが当たり前という根の上に、必要とあらば血を見ることも厭わずという幹を立てるのだと。血を見るのが当たり前という根の上に、その幹を立ててはならぬと。

 特に、技法において近道を採る人間が、心まで近道を採ると魔界に堕ち、獣と変わらぬと。

 また、毒の知識は身につけされられたが、修行として毒を盛られたことなどござらぬ。父の作る食は美味で、安らげる時間であった。

 父は容赦ない性格でもあったし、剣の修行では骨が折れるまで打たれたこともあったが、それでも父に対し不信になったことはない。

 それがし、美緒殿をこのまま荒ませてしまってはならぬと思っておる。それは、後進に対する先に進んでいる者としての思いである。

 そもそも、美羽殿、美緒殿が笑う姿を最後に見られたのはいつか?」

 「返す言葉もございませぬ。我ら母娘、頼れるものもなく、美緒には無理をさせていることは解っております」

 「責めているのではござらぬ。

 すべてやむをえない仕儀なのは、解っており申す。ただ、美緒殿が倒れたら、次が続かぬのは事実。そのためにも、微力を尽くしたいと思っており申す」



 「加藤様、美緒は、加藤様への礼について、どのように話をされましたか?」

 「禄も金子きんすもないと。ゆえに最後には、美緒殿自身をと」

 「美緒はそこまで申しましたか……。

 ただ、それでは礼が礼になっておりませぬ。この身に替えましても、金子を用意いたしまするゆえ。それまで、ご容赦を乞い願いまする」

 「先ほども申したが、美緒殿の覚悟に感じいったる次第にて、食うに困らぬ間はご助力いたす。

 ただし……、このままでは、立ち行かぬことは火を見るより明らか。軍資金について、どのようにお考えなのか?

 それがしのことではござらん。人を動かすには、金が必要でござろう」

 「井伊様にお縋りするしか、道はないと考えております」

 「それはよくない。

 次に、井伊様が南帝を疎かにされたら、どうされるおつもりなのか?」

 「しかし、他に手立てもございませぬ」

 美羽は唇を噛む。噛むといっても、その歯はなく、より、顔の下半分が窄まるのみだ。


 「お伺いしたいのだが、南のご今上はその身を証明するような文物や、代々の献上物はお持ちあそばされているのか?」

 「はい、熊野を始めとして、数カ所に蔵をお持ちです」

 「その手入れはどうのようにされているのか? 例えば、書ならば、表装の仕直しも必要であろう」

 「時たま、時の督により、金子きんすを頂けることがあります」

 「では、かなりのものが朽ちつつあるのではないか?」

 「残念ながら……」

 「いっそ、置いておいても朽ちるものであれば、富商に購ってもらってはいかがか? それによって得た金子きんすで、本当に大切な物の手入れを行うとともに、真にご今上のために働く者を集めるのだ。

 茶碗一つに千両の値が付く例もある。

 換金価値の高い御物と、代々の南帝にとって重要な御物は必ずしも一致しまい。十年に一度、数千両になるようなものを三つ四つ下賜いただければ、かなりの人数が働けると思われる。

 このような考えは、不敬であろうか?」

 「そのようなことはございますまい。ただ……」

 「ただ?」

 「ご今上に、その旨の話ができませぬ。あまりに畏れ多いこと」

 「む……」

 「機会があれば、お願いしてみたいとは思いまする」

 「こうせよと申しているのではない。

 あくまで、一つの手として挙げただけのこと。良き思案があれば、そちらの方で良いが、ただ、手元不如意が続くと、思案も腕も矮小化してしまう。それは避けねばなるまい」

 「御意にございます。

 今日まで、『つはものとねり』、形だけ保てていればと思っておりましたが、そのような時代ではないのやもしれませぬな」

 美羽はそう言って黙り込んだ。


 いろいろな思案もあるのであろう。

 加藤も、特に語る必要がなければ自ら話すこともない。

 納屋の建物に、早、羽化した蝉の声が響いていた。

 今年の一番槍やもしれぬ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る