第11話 新宿追分の宿はずれにて
美羽は、自ら用意した、美緒すら知らなかった隠れ家を持っていた。
とはいえ、手元不如意なので、新宿追分の宿はずれの荒れた納屋にすぎない。そこへ、水路を使い木戸を通らずにたどり着いたとき、夏の夜は早、白々と明け始めていた。
「水戸徳川家上屋敷では、今頃大騒ぎであろう。南帝をお救いする手立てが早急に必要ではないか?」
そう問う加藤に対し、美羽は、余裕を持って答えた。
「主上は八王子に。
これより鳩を飛ばし、
そう言うと、納屋内の一画から取り出した薄い和紙に文を
二羽の鳩の足に、それぞれ文を結んで放つ。二羽を使うのは、鷹に襲われたりしたときのための保険である。
「何度もここから飛ばし、
美羽が言う。
「主上は八王子から先、避難あそばされる場所はおありなのか?」
「八王子は、『つはものとねり』に属さずとも、南帝をお守りする者がいる場所にございます。かつて、大久保長安が八王子に所領を持ち、八王子千人同心を組織したときに、その中に南帝をお守りする者を忍ばせたのでございます。大久保長安は、
「では、後顧の憂いなく、これからの手立てを考えられるのだな?」
「そうなりまする」
「それでは、まず、美緒殿、休まれよ」
「藪から棒に、何故にでしょうか?」
美緒は不服そうである。
「人は、休みなしで働き続けることはできぬ。次には、美羽殿と
「美緒、休みなさい」
美羽も言う。
美緒は、納得した風ではないが、言われたとおり、屏風の陰で横になった。粗末ではあるが、一応の寝具の用意もある。
美羽は小声になった。
「加藤様、ようやく落ち着いてお礼ができまする。お助けいただき、改めて御礼申し上げます」
「いや、美緒殿の覚悟に感じいったる次第。また、
加藤も小声で返す。おそらくは、
そう思ったからこそ、あえて美緒を先に休ませたのだ。
「その火の粉の元となりたること、お詫び申し上げまする。我が娘、美緒が頑ななばかりに不要なお手を掛けさせたかと思い、恐縮至極に存じます」
「……それが良くないのではないかと思っており申す」
「どのような?」
話の行き先がわからないという、美羽の問いである。
「己の頑なさに息を抜く間を失いし人は、疲れ、判断を誤るものにござろう。若輩なる
美緒殿は、修行に実務、食に至るまですべてが実戦のようでござるな。息を抜く間を失い、柔軟なる判断の力を失いし若い娘が、頑ななのは当然のこと。
そして、その頑なさは、いつか握り固めた砂のごとくに脆く崩れ去りましょう。強くするには、芯を鍛えねばならぬ。芯が鍛えられて、初めて常在戦場に耐えうる。
型に嵌め、一日で得た強さは、見せかけのものに過ぎぬ。
先回りして、成長を焦らぬこと、焦らせぬことが肝要かと」
美羽は目を瞑り、二呼吸ほどの間をおいた。考えることもあるのであろう。
「……娘は、加藤様に、どのような御願いをいたしましたでしょうか?」
「母と私を守っていただきたいと。母が生き延びねば、南帝のご意思を体現できる者がいなくなると、そう申された」
「加藤様は、どうご返事を?」
「助力を約し申した」
「娘に対する今のお話は、その助力に当たるのでございましょうか?」
「家伝の流派は、その半分が心の持ち様の修行となっており申す。
それは、身と心に同じ重きを置くからにござる。頑なな心は、身体をも堅くし、戦場での働きを邪魔するものゆえ、そういったものに囚われず、生きて帰ることのみに注力できるようにするのでござる。美緒殿の姿は、かつて
おお、これは、
美羽は軽く笑った。
「お気になさらず。
加藤様は、どのような修行をなされたのでしょうか? 是非にお聞かせを」
「毎日のすべてが修行という意味では、美緒殿と変わらぬ。
ただし、かぞえで十八までは、血を見ることはなかった。童のときから血を見続けると、人としての根が荒むと父は言っており申した。
血は見ないのが当たり前という根の上に、必要とあらば血を見ることも厭わずという幹を立てるのだと。血を見るのが当たり前という根の上に、その幹を立ててはならぬと。
特に、技法において近道を採る人間が、心まで近道を採ると魔界に堕ち、獣と変わらぬと。
また、毒の知識は身につけされられたが、修行として毒を盛られたことなどござらぬ。父の作る食は美味で、安らげる時間であった。
父は容赦ない性格でもあったし、剣の修行では骨が折れるまで打たれたこともあったが、それでも父に対し不信になったことはない。
そもそも、美羽殿、美緒殿が笑う姿を最後に見られたのはいつか?」
「返す言葉もございませぬ。我ら母娘、頼れるものもなく、美緒には無理をさせていることは解っております」
「責めているのではござらぬ。
すべてやむをえない仕儀なのは、解っており申す。ただ、美緒殿が倒れたら、次が続かぬのは事実。そのためにも、微力を尽くしたいと思っており申す」
「加藤様、美緒は、加藤様への礼について、どのように話をされましたか?」
「禄も
「美緒はそこまで申しましたか……。
ただ、それでは礼が礼になっておりませぬ。この身に替えましても、金子を用意いたしまするゆえ。それまで、ご容赦を乞い願いまする」
「先ほども申したが、美緒殿の覚悟に感じいったる次第にて、食うに困らぬ間はご助力いたす。
ただし……、このままでは、立ち行かぬことは火を見るより明らか。軍資金について、どのようにお考えなのか?
「井伊様にお縋りするしか、道はないと考えております」
「それはよくない。
次に、井伊様が南帝を疎かにされたら、どうされるおつもりなのか?」
「しかし、他に手立てもございませぬ」
美羽は唇を噛む。噛むといっても、その歯はなく、より、顔の下半分が窄まるのみだ。
「お伺いしたいのだが、南のご今上はその身を証明するような文物や、代々の献上物はお持ちあそばされているのか?」
「はい、熊野を始めとして、数カ所に蔵をお持ちです」
「その手入れはどうのようにされているのか? 例えば、書ならば、表装の仕直しも必要であろう」
「時たま、時の督により、
「では、かなりのものが朽ちつつあるのではないか?」
「残念ながら……」
「いっそ、置いておいても朽ちるものであれば、富商に購ってもらってはいかがか? それによって得た
茶碗一つに千両の値が付く例もある。
換金価値の高い御物と、代々の南帝にとって重要な御物は必ずしも一致しまい。十年に一度、数千両になるようなものを三つ四つ下賜いただければ、かなりの人数が働けると思われる。
このような考えは、不敬であろうか?」
「そのようなことはございますまい。ただ……」
「ただ?」
「ご今上に、その旨の話ができませぬ。あまりに畏れ多いこと」
「む……」
「機会があれば、お願いしてみたいとは思いまする」
「こうせよと申しているのではない。
あくまで、一つの手として挙げただけのこと。良き思案があれば、そちらの方で良いが、ただ、手元不如意が続くと、思案も腕も矮小化してしまう。それは避けねばなるまい」
「御意にございます。
今日まで、『つはものとねり』、形だけ保てていればと思っておりましたが、そのような時代ではないのやもしれませぬな」
美羽はそう言って黙り込んだ。
いろいろな思案もあるのであろう。
加藤も、特に語る必要がなければ自ら話すこともない。
納屋の建物に、早、羽化した蝉の声が響いていた。
今年の一番槍やもしれぬ。
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