第9話 この娘が生き延びるために


 「眠いか?」

 「ご心配なく」

 歩みを緩めず、美緒が答える。

 返り見れば、表情が暗い。

 無理もないこととも思う。いくら十二、三で大人として扱われるのが当たり前の時代とはいえ、かぞえで十七の娘が未熟であることは間違いない。人が死ぬのを見るのも初めてならば、そしてそれが自然死ではないのだから、その衝撃も大きいだろう。

 しかも、その手を下した者と一緒に歩いているのだ。


 すでに、丑三つ時に近い。避けられる町木戸は避け、避けられないものは遠回りなどして一直線に水戸屋敷に近づかないようにしている。

 「とりあえず、水戸屋敷から美緒殿の母上を救い出すが、その後については目算はおありか?」

 「母が申しておりました。

 水戸様を抑えるとしたら、二人しかこの国にはおりませぬ。北のご今上か、公方様か、だと。他の方は、たとえ、南帝だとしても、あの方を抑えることはできないだろうと申しておりました」

 「聞きしに勝る、熾烈な御仁だのう」

 「母は、公方様にお縋りするには、溜詰たまりづめ定溜じょうだまり御三家の井伊様にお願いするしかないと」

 溜詰とは、将軍の執務空間である「奥」に最も近い溜間に入る家格であり、老中を超え、将軍の臣下にとってはこの上ない席である。さらにその中でも、会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家は、代々、定溜となっていた。


 なるほど、それならば権威として、水戸徳川家に勝るとも劣るまい。

 「井伊様に、伝手はあるのか?」

 「母ならば……」

 「そうか……」

 会話が途切れた。


 次に話しかけたのは、美緒からだった。

 「加藤様、先ほどからすでにお助けいただいておりますが、そのお礼はどのようにしたらよろしいものでしょうか? 帝におかれましても、水戸様からのご助力によるものが多く、手元不如意であらせられます。

 もっとも、水戸様自身も、藩政が火の車ゆえ、無理もございませぬ。そして、水戸様と決別いたすことになれば、井伊様なりにお縋りできるまでは、手元が厳しいことになるのは目に見えております。その中ででも、できうる限りのことはしたいと思っておりますが……」

 「金子きんすでなく、禄でもないとすれば、何がいただけるのかな? それがしも霞を食っては生きられぬ」

 加藤は、この美緒という娘の潜在能力を、相当に高いものと見ている。

 だが、経験の不足、戦いの場数の不足など、年若いゆえに至らない部分があるのは仕様がない。

 その娘がどういう策を出すか、半ば意地悪く思って聞いたのだ。


 「何を言っても、空手形になるかも知れず、それは今更、どうにもなりませぬ。

 加藤様、繰り返しお尋ねいたします。どのようなお礼を差し上げたらよろしいでしょうか?

 今の今は無理でも、必ず御報いさせていただきたいと」

 どうやら、加藤の意地悪な問いに、答えるつもりはないようだ。

 正直すぎるのだ。

 「どうあっても金子きんすで、もしくは、美緒殿自身などと言いだすやもしれませぬぞ?」

 「構いませぬ。煮ようが焼こうが、お好きになさりませ」

 この娘は、自らの勤めを第一に考えるがゆえに、そこの是非を問う前に思考停止してしまっている。



 自分自身については、どうとでもなるという思いが加藤にはある。

 どこででも生きて行けるであろうし、当座の金子にも困らぬ。だから、ここで美緒から、何らかのものを無理に貰う必要はないのだ。ゆえに、加藤からはあえてその話をしなかった。

 そのような生臭い話を避けたのは、そこに美緒に対する何らかの思いがまったくないと言えば嘘になるが、それが今の段階では、恋慕の情というようなものでもないことも事実だった。

 士として、美緒の覚悟に惚れたというのが、一番加藤の心情に近いだろう。

 だからといって、美緒の覚悟と心中するつもりも、また、なかった。


 近年、士道などという言葉のもとに、忠と死を持って勤めを果たすのが士たるものの覚悟などと、剣術道場などでは語られているらしい。

 だが、本来の武士はそのようなものではない。

 自らの利にならなければ主君を変えるのが戦国の世の習いであったし、それが自ら率いる一族への、そして妻と子への義務であった。自らの死後に残された者を取り立ててくれる保証と君臣間の信頼がなければ、死を以って仕えるなどできようはずもない。


 江戸の太平はそれすらも忘れさせ、儒学者どもは実戦の場では実行不可能な小理屈ばかりをこね回していると、加藤は思っている。

 そして、それらが語られるのが昌平坂あたりの儒学講義ならまだしも、剣の道場だというのが片腹痛い。刀より槍、槍より弓、弓より鉄砲、そして鉄砲も連発式なり、大砲なりとより進んだものになった。

 そんな中で、刀という、時代に遅れた道具にこだわって士道を語るなど、平安、鎌倉の時代にでも戻れというのか。


 家伝の真気水鋩流は、「進取を以ってよし」とするため、そのように考える習慣がついているのやもしれぬ。

 それにしても、五十歳に手が届かんとする加藤の父より、近頃の若い侍や美緒の方が頭が固いというのは問題ではないか。

 父は、攘夷などと、鼻先で笑い飛ばしていた。正義が強いのではなく、強いものが正義になると言って憚らない父にとって、重武装軍艦というだけでそれは正義なのだ。一面で単純であるが、戦国の世以前からの真実でもあった。


 そして、自らの価値観を持ち、それによって自ら判断できなければ、強いものを見抜くこともできず、結果、生き抜いていくこともできぬものだ。だが、近年の風潮は、それを放棄することこそが美徳となっている。

 この娘に、自らの価値観を持たせるためには、荒療治が必要と加藤は思った。


 「では、美緒殿自身を、煮ようが焼こうが、好きにさせていただく。よろしいな?」

 「ご随意に」

 捨て鉢になっての返答ではない。

 それなのにこの返答なのは、自らなどには、片鱗も価値を認めていないからなのだ。おそらく、目的と手段が変わり、水戸斉昭の側女になることが最善の手となったら、やはり悩まぬのかも知れぬ。


 だが、このままだと、この娘は遠からず死ぬ。

 生きたいという意思と、死んでもいいという意思では、命のやり取りの場で大きな差が生じてしまうものだ。無の境地において戦う、思い詰めず気を楽に戦うというのは、投げやりに戦うことでは決してない。


 「では、まず、今宵のことが終わったら、自ら用意する食事を止めていただく。毎日の少量の服毒もだ」

 「何ゆえ、でしょうか?」

 「意味が無いからだ。

 真気水鋩流では、祖父の代に徹底した確認をした。犬猫に対し、四十種ほどの毒を盛り、その効き目を確かめておる。延べ二百匹ほどは犠牲に致した。

 そして、毎日の少量の服毒により、毒に耐える力がつくことなど、ほぼ無いと判明いたしておる。例外的に幾つかそういう毒もありもするが、むしろ、毎日の少量の長期服毒により、中毒死に至る毒の方がはるかに多い。

 美緒殿のされていることは、全くの無駄なのだ」

 「幾つかでも、耐える力のつく毒があるのであれば、無駄とは言えぬのではございませぬか?」

 怒りというより、ムキになっている口調である。


 「それでは伺おう。

 美緒殿が、一服盛る立場だとして、耐える力のつく毒と耐える力がつかず確実に仕留められる毒とどちらを使われるかな?

 すなわち、そのような毒、盛る方が使わぬ。

 したがって、美緒殿のしていることは二重に無駄なのだ」

 美緒の表情が強ばった。自らの今までの行動を全くの無駄と言い切られれば、無理もないだろう。

 だが、この全否定という荒療治で、「ものの考え方」というものを少しでも得て欲しいものだと加藤は思っている。殺し合いなど、綺麗事が通る日常の技ではないのだ。


 「上様の御膳奉行なりのお役目の方から、そのような鍛錬をお聞きになったのかも知れぬが、きちんとご確認なさるがよろしかろう。そのような毒を、暗殺を企む者が使うか否かを。また、その鍛錬を続けた者が、老境に至りどのような病を得たかもだ。

 御膳奉行のお立場を、よくよくお考えになるがいい。

 彼らは、食と毒の知識を持ってお仕えしている。

 その者たちが、お役目に関わる知識を自ら開陳することなどあり得ぬ。他者に知らせれば知らせるほど、それが悪用される可能性が増し、主君と自らの危険となって返ってくるのだからな。

 お役目に必要な知識として教えを乞うたとしても、聞かれたことには答えるが、聞かれないことにまでは答えないはず。

 御膳奉行にそのような気働きが無いとすれば、むしろそれがしには意外としか言いようがござらん」

 この時代、将軍家の毒見役は御膳奉行が兼ねていた。将軍の身の回りの世話する小姓も毒味を行っていた。

 いわゆる毒見役、唇役などは後世の創作である。



 加藤は足を止めた。後ろから付いてきているはずの、美緒の足音が止まったからだ。

 ゆっくり振り返る。

 飼い主に見捨てられた犬のような表情の美緒が、辻行灯に照らされていた。傲岸なまでの意志の強さは、すっかり身を潜めてしまっている。

 自らの行いと、その行い自体の意思がこの娘の支えなのだということを、改めて加藤は認識した。


 「加藤様。

 私は、どうしたらよろしいのでしょうか?

 私のしていることはすべて意味の無いことなのでしょうか?」

 「それがし、その目的に対して意味が無いなどと申したことは、ただの一度もないはず。

 時代が大きく変わりつつある中、必要とされる技倆の種類が変わってきていることは事実。

 敵と目される者よりも、古い知識と技法で戦うのは論外でござろう。

 幕臣は、お家の務めがあり、そうそうに変えられぬ物も多かろうとは存ずる。

 しかし、先ほどお聞きした南帝の護衛を、少人数で続けなければならないのであれば、よりよい方法を常に模索、研鑽する必要がござろう。関ヶ原以前の知識によってこの御世を戦うなど、みかどへの不忠であり、敵と目される者に対して失礼ですらある」

 これも荒療治の一環である。必要以上に語気強く、加藤は美緒に語りかける。


 「返す言葉もございませぬ……」

 「おそらくは、水戸様もそのようなことを、朧げに考えてはいらっしゃるであろうとは存ずる。だからこその、大砲の鋳造なのだ。

 ただ、これ自体については、美緒殿のお話のとおり、無駄な努力としか言い様がないが。

 その一方で、無駄な努力だからと、せずともよいというわけではない。

 その無駄な努力自体を今からでもしないことには、永遠にアメリカ、フランスに敵うことはなかろう。生産も、まずは習作から始めなくては話にならぬ。

 おそらくは、そこまでお考えの水戸様を相手取るからこそ、こちらはより新しい技法を視野に入れ、最善を尽くさねばならないのだ。

 常に、己の目的を果たすにあたり、最短でそれを為す方法を考えられよ。そして、それを考えるにあたり、面目や、今までのうまく行っていた方法に捉われてはならぬ。

 例えば、先ほどのそれがしのやり方、さぞやご不満があろうかとは思うが、刀を持たぬときに、それに代わる武器を得ようとするのは当然のこと。また、刀があってさえ、極力使わぬようにするのが本来の心得でござろう。

 考えても見られよ。

 刀を抜き、打ち合えば刃毀はこぼれが生ずる。挙句に、折れでもしたらどうするのか?

 鉄砲にしても、撃てば弾と火薬は失われるのだ。

 利用できるものは利用し尽くし、まことに今という時以外、自らの武器に手を掛けるのは避けるべきでござろう。

 刀は刀にしか過ぎぬ。魂などではない。

 有り余る財力があれば使い捨てにし、その財力がなければ、その値に匹敵する危機まで温存する武器に過ぎぬ。

 常に、財力との対価を念頭に置かれよ。

 こちらが一両を使って、相手に五文の損害を出させるような戦い方はしてはならぬ。

 先程の毒の話も、美緒殿の命を相当安く見積もらねば、割りが合わぬ」

 普通の娘には理解が難しいことでも、美緒ならば可能であろう。

 そう思って加藤は話している。


 「今は、それがしの言を汚いものとしか聞けぬかもしれぬ。

 それでもよい。ただ、生き延びて勝つために、そういう考え方もあるということは、頭の片隅にでも置いておかれることだ」

 「汚いなどとは思いませぬ」

 美緒が言う。

 辻行灯の乏しい明かりの下、事情を知らぬものが見れば逢い引きの最中とも見えようが、どちらも逢い引きとは言い難いほど表情は深刻で、話題は殺伐としたものだった。


 「先ほど、埋められる死骸おろくに、加藤様が手を合わせられているのを見ました。

 戦いの技法は、いちいち加藤様の仰るとおりでございます。どのような技法であれ、それについて、もはやどうこうは思いませぬ。

 ただ、人と人が戦うのではなくなり、人が蟻を踏み潰すように戦うことになるであろうことへの嫌悪はございました。

 それも、加藤様が手を合わせているのを見て、杞憂なのかと思い直したる次第にて……」

 「おそらくは、美緒殿の考えられているとおりの世となろう。

 連発銃を超える人を殺するからくりが作られ、どのような修行もなす術なくそのからくりに命を奪われる世がそう遠くないうちに来よう。

 しかし、それは今ではござらぬ。

 そのからくりを使うことを求められてもおらぬ。

 ただ、その時になっても、敵の死を悼む気持ちを失わないように、今から自らを律する必要はあろうかとは存ずる……」

 「加藤様……」

 「美緒殿。

 まずは身体を壊すことなく、生き延びることを第一に考えられよ。さもなくば、それがし、先々、気持ちよく礼を頂けないではないか」

 「それは、私自身ということでございましょうや?」

 正面から目をそらさずに美緒がいう。

 「そ、そういう意味では……」

 「ない」と言い切るのも、この美しい娘に対して野暮が過ぎる。

 かと言って、そういう意味と言い切るほどの気持ちもまだあるわけではない。ただ、加藤としては、金子きんすにせよ、なんせよ、貰いにくくなるということを言いたかったのだ。

 「初めて口籠もられましたね?」

 「無礼な……」

 これは半ば、苦し紛れだ。

 「構いませぬ。私でよろしければ、お礼とは別に幾重にも差し上げまする」

 先ほどの、「煮ようが焼こうが、お好きになさりませ」とは明らかに異なる語調である。咄嗟に、返す言葉が見つからぬ。


 「口に出さずとも、加藤様のお優しさは解っておりまする。おぼこの意味すら、他の者とは意味が違うこと、ようように解りましてございまする」

 猫は、人以上に人の表情を読む。

 加藤は、改めてそれに思い至った。

 「とにかく、母上を救い、無事に逃げ延びて後のこと」

 ようやく、そう返した。

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