第26話 彼女の覚悟


 もう、一年以上前になるね。

 入学初日、なぜか目が合った。


 好意を持った視線。ほのかに上気している。

 でも、それが敵意を孕むまで、きっと、数日もかからないことを私は知っている。

 中学時代の同級生らしい男子が、合った視線を遮るようにこちらに背中を向けて座る。


 ああ、また仲間外れが始まるんだ。

 辛いね。

 いろいろは理解している。自分が生きる道は、決まっている。だから、耐える、耐えられるけれど、辛くないわけじゃない。


 私は、学校にいたくない。

 将来、身元を調査されたときのアリバイ作りだけのために、毎日心を削られている。すべてを理解しているはずなのに、学校へ行けという両親の、特にお母さんの判断も解らない。

 登校日を数え、一日ずつカレンダーに×を付け、はやく残日数がなくなることを祈る。その三年間が始まるんだ。


 そう思っていた。

 それなのに……。

 好意を持った視線は、何日経っても変わらなかった。こちらを伺う視線や顔色に、心配そうな、窺うようなニュアンスはあっても、怯え、軽蔑、敵意は生じなかった。健康な男子だから仕方ないなと、許容できる範囲以上のいやらしさも持たなかった。

 彼の変わらなさ、繊細な気遣いは、私自身と同じように他の人のことが判ってしまうからなんだということが、入学から一週間もしないうちに分った。だって、本人が、嗅覚で他の人のことが判ることを隠していないんだもの。


 あまつさえ、その嗅覚でクラスの中で笑いを取っている!

 いいの?

 そんな生き方が許されるの?

 羨ましい。負の感情は持ちたくないけれど、妬ましくすらある。

 私が奪われたものを、全て持っているように見える。


 私が負の感情に覆われなかったのは、彼に親がいないのを知ったから。彼は何でも持っていて、私には何もない。それは間違いだった。

 私には、遠く離れていたとしても、両親がいる。私の方が、ずっと恵まれている。彼は、一人の姉以外、肉親と呼べるような人もいなくて。

 でも、それすらも周りに隠さず。でも、それを憐れまれることもなく。

 なんでそんな風に生きられるんだろう?


 彼は、強いんだな。

 ああ、強いから奪われないんだ。

 私は強いはず。強いはずなんだよね。

 ずっと、実戦的な格闘技を体に覚えさせてきた。一度は、肩の関節を外されて、痛みに泣き叫んだことすらある。不意に襲ってきた男を、反撃もさせずに制圧したこともある。

 でも、彼には敵わない。

 人としての強さで、私は彼には敵わない。


 私は、お母さんほどきれいじゃないし、心を外に向けて生きるのも下手。

 自覚してる。

 どれだけがんばっても、お母さんにも、遠藤さんや小田さんにも敵わない。そのうえ、彼を見ていると、弱さまで自覚させられてしまう。


 進路を考えれば、このまま三年間、彼と同じクラスになるのは判っている。

 同じような突出した感覚を持っていることは、隠しとおさなくてならないけれど。

 でもね、遠くからそっと見ているだけだとしても、彼のことを仲間だと私は思っている。だから、これから三年間の間に、せめてね、せめて軽蔑だけはされたくない。

 そう思っていたんだ。



 文化祭実行委員に決まった時、話しかけてくれたよね。嬉しかった。もしかしたら、友人の一人として受け入れてくれる? そう思った。


 そしたら、だし巻き卵、うらやましいって。

 びっくりした。

 魔法みたいだった。

 欲しい服が、買うまでの間に何人の人に試着されたか判るという話を、クラスの中で笑い話にしているのは聞いていた。その力が自分に向けられたときには、まだ袋から出してもいないお弁当箱の中身まで分かるなんて。

 うらやましいって言ってくれたのが本心なのは、顔色を見ていて判った。お世辞じゃない。


 そう、私は、彼の表情の変化を分析済みだったから。

 においを感じても、表情には出さない。そういう訓練を、本意か不本意かたくさんしたのは判るけど、私の目はごまかせないよ。

 食欲を感じさせる匂いのときは、ちょっとだけ、首筋の温度が上がるんだ。悪臭のときは、目の外側の温度が下がる。


 他の人より、感じているものの量が多いのか、表情がとっても豊か。私以外の人にはきっと判らないけどね。

 それが、可愛い。


 だし巻き卵、一切れお弁当箱の蓋にのせて、一瞬だけど、深く悩んだんだよ。

 彼は、私が作っただし巻き卵の素性をすべて見抜く。だから、きっと食べてくれる。他の人だったら、警戒して食べない。

 逆の立場だったら、私だって。

 何が入っているか判らないものなんか、怖くて食べられない。でも、彼は、きっと、違う。



 やっぱり……、当然のように、お母さんの教えてくれた手順の一つ一つが分かるんだね。そして、食べ物の素性が分かりきっていても、作ったものだから食べないという、一番恐れていた事態も起きなかった。

 泣いちゃいそうで、それを判られるのが嫌で、逃げちゃったよ。


 今までのこと、思い出しているときりがないな。

 高校に来て、楽しかったこと、胸が温まるような気がしたこと。

 真が私にくれたものは、「膨大な」と言う表現でも使わないと釣り合わない。

 真が、菊池くんや近藤さんと話してくれたのも知っているよ。


 菊池くんは、真のバディとなり、私を受け入れてくれた。

 友達、仲間という存在を、高校で得られるなんて思ってもいなかった。それも、元をたどれば、真、君がくれたんだよ。

 お母さんがうちに帰ることが少ない理由は、私を守るためだということは理解している。でも、学校で無視されて、家には誰もいなくて、いつも、心の中に氷を抱いているようだった。それを可哀想と泣いてくれたのも、真。


 だから、私は、この事態と戦う。

 真と一緒にいるため、真のバディの大切な肉親を救うため。

 真の言うとおり、身近な人を守るため。


 お母さんが言ってた。

 頼り甲斐があって、一緒にいて心が温かくなるのがお父さんだけど、頼り甲斐があって、その完璧さに怖さを感じるのが坪内佐だって。その坪内佐がいろいろ考えたり、手を打っているのは判っている。

 任せておけば、敵は全て引っ張り出されてくる。


 だから、私のやることは、この事態の中で上手に踊ること。

 そして、生きて帰ること。

 生きて帰って、真に怪我をさせたことを謝らないと。

 ごめんね。

 もう、また会えてもそれしか言えないけれど、ごめんね。


 真、会えない今、もう一つ、遠くからでも謝ることがあるの。

 もしかしたら、10%の確率だけど、もう会えない。本当にごめんね。私の命を、自分の命と同じくらい重く考えてくれていたこと、嬉しい。


 別の人の命が賭けられる事態にならなかったら、私も真と会えない六年を耐えた。

 でも、こうなった以上、私は敵を決して許さない。



 − − − − − − − −


 右から二人、左からも二人。

 逃げられない。逃げるつもりもない。

 右からの二人は、襲撃を前にした緊張が見える。

 相手を釣り上げるために、工業団地内の人気のない公園のベンチにいた。監視の目が一度も離れなかったのは分かっていた。

 周りの工場が終業時間寸前になって、人目がなくなる。このチャンスを逃さないはずだ。

 左の二人の体温も見える。うち一人は、右側の二人と同じ種類の緊張を。もう一人は、その緊張に加えて、下半身に熱を持っている。

 激しい嫌悪感が湧く。

 でも、動かない。


 後ろから抱きつかれ、口が塞がれる。前に回った二人が走り寄り、両手を掴まれる。車のエンジン音が近づいてくる。どうやったかは分からないけれど、これだけ時間があったのだから、公園内に車を入れる方法も考えたんだろうね。

 後ろから抱きついてきた男の手が、激しく胸を揉む。痛い。反射的に頭を後ろに振り、後頭部を後ろの男の鼻柱に思い切り当てる。

 後ろの男が崩れ落ちる。驚いた前の男が、反射的に顔を殴りつけてくる。あえてそれは、歯が折れたりしないよう、力を逃がして受ける。

 三人の男と戦うつもりはない。

 また、今の攻撃は反射的な抵抗で、偶然当たってしまったと思ってもらわなくては困る。


 無力を装って、泣く。

 両手を掴む手が緩む。ふりほどいて、顔に手を当て、激しく泣く。

 崩れ落ちた男を介抱する、他の男たちの手付きが荒い。

 自業自得と思っているんだ。普段から手癖の悪いヤツだったんだな。

 よかった、おかげで事故と思ってくれたみたい。


 肩を掴まれ、強引に車に乗せられる。車を運転し乗ってきた二人に加え、右から来た方の二人が同乗する。左から来た方の二人は別の車だ。

 車の中で、黙らせるための行為を取られない範囲で、おとなしく泣き続け無力を装う。

 嗜虐心を煽らない程度に怯え、警戒させない程度に泣き、身体の自由を奪うような行為には泣き叫んで面倒だと思わせる。

 泣き方一つで、相手を制御する。


 そして、顔を覆う手の中には、TXα。相手を制御するのは、飲むタイミングの決定権を失わないため。


 両脇に座る敵の工作員より、手の中の錠剤の方がはるかに怖かった。

 そして、手の中の錠剤より、自分を真に捧げられなくなるような事態が起きてしまうことの方が怖かった。

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