第6話 バディとしての覚悟


 俺は、怒りとか、そういう感情が抜け落ちてしまったようだった。蛍光灯の白い光に照らされた部屋が、どこかのロケセットみたいに見え、現実感が急速に薄れて行く。

 美岬を、モデルケースにするためだけの生贄として殺すのか?

 意味のない死じゃないか?

 そのために、それだけのために、俺から美岬を奪おうというのか?

 一枚の構成のしっかりした絵のように、実在感があって背景になじんでいた美岬の姿が、透けて行って背景が見えてしまうような気さえする。


 「坪内佐、そういう話でしたか?」

 美岬が話す。

 あれっ、なに? この落ち着いた言い方。現実感が不意に戻る。美岬のパジャマのくまさんが口調に合っていないけど。

 でも、動揺はしているよな、このにおいからすると。


 「『つはものとねり』は手をひいてはならないと思います。母も、手を引くつもりはないでしょう。遠藤大尉、小田大尉も、同じはずです。

 この決断自体が、相手の掌の上だとしてもです。

 また、たとえ私を失うとしてもです。

 ここで引いたら、次は、産油国を含む中東全体から手を引けと言ってくるのは明らかです。

 私は死にません。大丈夫です。

 ただ、すべての情報をいただけないでしょうか?」

 坪内佐の返答はない。


 長い時間が過ぎた後、やっと坪内佐は口を開いた。

 ああ、この人も感情があって、それを切り離しているだけでやっぱり人間なんだなと思った。自分の感情を制御するためには、それなりの時間が必要だったんだ。


 「自力のみで、一つの組織と戦うつもりなのだな。

 武藤佐と同じ決断を瞬時に行うとは……。

 君の母上は、進退伺いを出している。この仕事を辞する気だ。

 自分の娘を守ることに、『つはものとねり』の組織としての力をすべて向けさせてしまうことが申し訳ないと。辞して、自力で娘を守ると。

 督は、武藤佐がこちらを振り切ってしまう場合、最終的には引き止められないと言っている」


 覚悟ってのは、なんなんだろうな? 思わず自問したよ。

 この母娘おやこ、瞬時に死を容認したんだ。


 坪内佐は独り言のように話す。

 「武藤佐は、昔、私にしみじみと述懐されたことがある。

 娘を育てるのに、私は厳しすぎる母親だったと。いや、母親の資格などない、産んだだけで放り出し、禽獣にも等しいとも言っておられた。

 そして、それでも、娘は真っ直ぐ育ってくれた、それだけで、何時、娘の身代わりになっても自分は惜しくないと。それだけしか、もう、娘のためにできることはないと言っておられた。

 武藤佐と私は、短期間とはいえバディを組んでいたからな。本音を話してくれたのだ。

 武藤佐が今の美岬さんの言葉を聞かれたら、どれほど喜ばれ、そして、このような状況の中でそれを言わせてしまったことを、どれほど悲しまれるだろう」


 美岬が泣くようなことを言うな……。平然としているけど、俺には判る。


 「だが、君の母上の実績は飛び抜けている。さすがは九代目の明眼、その穴を埋めるのは不可能と言ってよい。おそれ多いことだが、君の母上を失えば、数年と待たずに御今上の身になにかが起きる可能性を否定できなくなる。

 そこからさらに数年後には、内戦状態にこの国が置かれることも十分以上にあり得ることだ。

 敵国のやり方はテロに等しい。そして、テロには妥協しない、それが作戦構築の常識だ。

 現在、武藤佐のパリ拠点は、督からの指示で活動のすべてを有名無実化させている。リーク源を守るために、あからさまに活動自体は停止させていないが、実質的な前進はない状態だ。

 そして、だ」

 坪内佐は一旦言葉を切った。


 そして、言葉というものの迫力を、俺は知ったように思う。

 「今回の件は、公に私を持ち込んだのは相手側であって、こちらではない。

 我々の世界のルールとして、仕事にわたくしの事情を持ち込まないと言ったが、それは、二つの組織の争いにおいて、家族親戚まで含めた殲滅戦になることを防ぐための暗黙の了解だからだ。

 それを向こうが一方的に破ってきた以上、手痛い教訓を与える必要がある。

 だから、私は君たち母娘に多大な負担を強いること、また、武藤佐の辞職などという事態を許すことはできない。

 武藤美岬さん、私のブランチは総力を挙げて君を、君たちを守る。

 武藤佐の判断は関係ない。

 『つはものとねり』を動かす、もう一人の佐としての判断だ。

 督にもその線で働きかけており、了承を得られると私は思っている。さらに、もう一人の主計を担当している佐も私と同意見だ。

 そして、これは、朝倉家、武藤家に対する我々のつぐないでもある」


 朝倉って、美岬の母親の、つまり武藤佐の旧姓だよな。

 事情は解らないけど、過去にもなんかあったのだろうか。


 坪内佐はさらに続けた。

 「君たちは知らないかも知れないが、武藤佐は、すでに人生におけるかけがえのないものを一度犠牲にしている。

 あの人は、自分の人生を偽装のために一度捨てているのだ。

 そして、その決断が及ぼしたものは、我々にとっては大きな教訓となっている。だから、二度目はあってはならないのだ。

 そして、何も起こさせないことで、武藤佐が『つはものとねり』を去ることも防ぐ。

 また、これにより、別の人員の家族に対する蛮行の再発も防ぐ。

 君たちには、すべての情報も渡そう。協力もしよう。こちらから動かせる組織、人員は可能な限り、すべて割く。

 ただ、今の状況で、我が国が、S国でのすべてのプレゼンスを失うわけにはいかないのだ。

 美岬さんの言うとおり、S国の次は産油国だ。S国は、産油国と重要な親日国であるトルコに面している。地政学的に失うことはできない場所なのだ。

 それは許してくれ。

 そして、万が一の時は、それで許してくれという気は毛頭ないが、私は腹を切る」


 えっ、と思った。

 坪内佐は、右手で気負いなく、軽くすっと腹を撫でてみせた。


 思わず美岬を見る。

 美岬の顔を見て、確信に変わった。

 言葉のあやではなく、また、組織の責任を取るという意味でもなく、本当に割腹する気なんだ、この人。


 ん……、坪内佐は、もしかして、元バディである美岬の母親に対して、腹を切るつもりだったんだろうか?

 確かに俺も、慧思の子供を作戦失敗で死なせたとしたら、死んで詫びるしかないと思う。

 だって、他に詫びる手段が思いつかないよ。

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