第7話 別離


 心電図の電子音が響く中、ICUに美桜がいた。

 ベッドには、手術を終えた武藤が横になっている。


 武藤が、病院に運び込まれたときには、すでに失血死寸前だった。身体の数カ所から滝を流し込むように輸血をし、複数の医療チームによる手術を受けたが、肺と肝臓の一部、小腸の五分の一と脾臓の全てを失った。おそらく、これから先、左腕も上がらないらしい。

 その体には、チューブと電極が全身に這い、強制的に酸素が吹き込まれている。


 しばらく無言で武藤の顔を見下ろしていた美桜は声をこらえながらも、潺湲せんかんと流れる涙を拭いもせず立ち尽くしていた。

 やがて、美桜は、涙を落としながら上半身を倒し、武藤の目に唇を合わせた。武藤の顔で、何も取り付けられていない部分はそこしかなかったのだ。

 そのままベッド脇にしゃがみ込む。


 「なんとか、お別れに来ることができました。

 ごめんなさい。

 もう、二度と会えません。先生のご両親も泣かせてしまいました。

 みんな、私が悪いんです。

 先生が私の目に気がついたときに、辞めてもらっていればこんなことにはならなかった。

 私が先生にしがみついてしまったから、こんなことになってしまった。

 みんな、私が悪いんです。

 それなのに、私には償うことすらできません。

 本当にごめんなさい。

 お願いですから、怪我を治してどこかで元気で生きていてください。

 せめて、それだけは祈らせてください」


 看護婦が、各患者のバイタルの確認を始めた気配がする。

 美桜は、覚束ない足取りで、逃げるようにベッド脇から去って行った。

 


 − − − − −


 十日後、武藤がICUで目覚めたとき、父親が枕元にいた。

 武藤が真っ先に聞いたのは、美桜の怪我の状態だった。頭から血まみれだったのが、武藤が最後に見た美桜の姿だったのだ。


 父親だけでなく誰もが言を左右し、さらに一週間経って、武藤がICUから出た日に美桜の父親がやってきた。そして、武藤は美桜の死を告げられた。工作員の話は伏せ、強盗に襲われたことになっていると聞かされた。


 武藤は、吠え、泣き、暴れ、傷口が開いてICUに逆戻りし、鎮静剤で強制的に眠らされた。



 看護婦たちは武藤に好意的だった。教え子を守るために、武器を持った複数の強盗と渡り合ったのだから当然と言えた。


 だが、それでも武藤からしてみれば、全員が武藤の言葉を聞き流しているように感じた。

 「本当だよ。一瞬だけ目が覚めて、体は動かなかったけれど、美桜がいたんだ」

 夢の中の幻覚かもしれない。武藤には、確実と言える記憶もない。ただ、そのリアルな気配の記憶だけはある。顔に落ちた涙の感触も。


 「言いにくいけど、麻酔が覚めかけのときは幻覚を見ちゃうものなのよ。怪我は治るんだから、きちんと前を見ないとね」

 看護婦たちは、口を揃えてそう言う。

 武藤はそれを否定する。

 そんな不毛な会話を、どれほど繰り返しただろう。

 「お願いだから、もう忘れて」

 どれほど母に泣かれただろう。


 忘れようにも忘れられなかった。

 初めて会った日に、視線の高さを合わせて笑った美桜に、武藤は一瞬とはいえ見とれた。

 家庭教師である以上、教え子に個人的感情を持つのは間違っているとずっと自分に言い聞かせ続けていた。

 それでも、屈託無く笑う美桜に、深く考え出したときに青く輝く瞳に、問題が解けたときの上気した勝利感を漂わせる顔に、見とれてしまうことがあった。

 美桜の住む世界を知り、さまざまな想いが一気に責め寄せてしまったこともあった。

 そして、美桜の生きていたときの最後の言葉は、自分への告白だったのだ。


 美桜の最後の告白、言われなくても武藤は気がついていた。

 それでも、自分の立場と、そこから生じる自律・自制と、自分の感情と。

 武藤は、武藤なりにきちんと整理を付けてきていた。

 どれほど美桜のことを好ましく思っていて、さらに美桜から告白されたとしても「はい、私もです。お付き合いしましょう」となるのは武藤の自律・自制が許さない。美桜がその才から大人びて見えたとしても、年齢差もあるし、かなりの葛藤が生じていたはずなのだ。

 だが、美桜の告白はそのまま遺言となってしまった。それが、武藤の自律・自制を解いた。それを解かねば、美桜が可哀相に過ぎた。

 また、美桜を目の前で死なせたことが、悔いとなって、武藤の心を解く後押しをした。


 皮肉なことに、美桜が死んだと聞かされて、武藤は初めて自分の感情のままに美桜を想うことができるようになったのだった。


 半年の間、武藤は、美桜が亡くなったことを報じる新聞記事を繰り返し読み、そのときの状況を聞かされ続け、最後には、美桜が会いに来たのは幻覚だったと納得をせざるを得なかった。


 いくらでも泣けた。

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