第二章 連理比翼、ハレー彗星の年より(全14回:昭和の純愛編)

第1話 ボーイ・ミーツ・ガール


 「こら、太一、そうやってぐいぐい引っ張らないの!」

 少女は茶色い雑種の大型犬のリードを必死に掴んでいるが、鉄道の線路沿いの道路の真ん中を、犬は走り出さんばかりの勢いで進んでいく。散歩はもう帰り道なのに、犬は歩き足らず納得していないのだ。

 家に着いてもその前を素通りして、「もう一周」って顔をするに違いない。


 幹線道路に平行した道なので、朝晩こそ抜け道として車の通行量は増えるが、休日の昼間ともなれば人影すらない。犬にとっては、自由に走り回れる膨大な空間としか見えていない。


 ついに、少女の手首に巻き付いていたリードがほどけた。犬は、小刻みに頭を振ってから一気に引っ張るというフェイントをかけて、強引に自由を強奪したのだ。この方法を取るのは二回目だ。

 晩夏の暑さで少女の手が汗ばんでいたにせよ、もっと握りのしっかりしたリードに交換しないと、次の散歩からは毎回逃げ出されることになるだろう。


 しかし、走り出した犬は十メートルほど走ると、なぜかそのままおとなしく少女の元に戻ってきた。

 少女は膝をついて地面からリードの端を拾い上げ、四重五重に念入りに手首に巻きつけた。そして、立ち上がろうとして、自分が影の中にいることに気がついた。

 見上げると、逆光の中、はるか高いところにまじめくさった男の顔がある。


 「すみません」

 声が降ってくる。

 とんでもなく身長が高い。二メートル近くあるのではないか。高さだけではない。横も厚みもある。


 立ち上がって気づく。この大男が曲がり角の向こうに現れたので、犬は怯えて戻ってきたのだ。

 「朝倉さんの御宅がこの辺りと聞いてきたのですが、教えていただけませんか? 表札が出ていないので……」

 少女が小柄なこともあったが、立ち上がっても、高低差は大して解消されていないように感じる。真上を見上げるような気持ちになりながら、少女は答えた。

 「うちです。もしかして、数学の家庭教師に来てくれることになっている武藤さんですか?」

 「あれっ? それじゃあ、朝倉美桜みおさんですか?」

 「はい。バカ犬のせいでなかなか帰れなかったんですけど、お会いできてよかったです。その角を曲がったところですので、一緒に来てください」

 太一は、打って変わっておとなしい。少女以外の人間を見て、舞い上がっていた我を取り戻したのだろう。

 もしかしたら、犬なりにバカと言われて傷ついているのかもしれない。



 − − −


 美桜の母親は出かけていた。ここのところ、仕事のためほとんど帰らない日々が続いている。今日も、日曜だというのに帰ってこない。

 かわりに父親がお茶を出し、初対面の挨拶をした。家庭教師は、武藤純一と名乗った。大学は東京だが、できたばかりの新幹線で通学しているのだと言う。

 そして、そのまま美桜の部屋に移動し、数学の勉強を進めるための方針を決める話し合いが始まった。共に椅子に座っているが、それでも目線にはかなりの高低差がある。


 「中学の時は、数学、得意だったんだね?」

 「はい」

 そう言って、美桜は立ち上がった。

 ちょうど目線の高さが揃った。

 「ごめんなさい、この方が話しやすいです」

 「そうか、ごめんね」

 武藤が体をすくめる。

 美桜は笑った。そんなことしたって、体が小さくなるわけがないじゃない。

 「小さくなったら、また話し辛くなっちゃいます。先生は、そのままでお願いします」

 「はい」

 素直に返事をする武藤が可笑しくて、さらに美桜は笑った。

 武藤のあまりの大きさに、なんとなく気圧された感じがしたのが、負けず嫌いの美桜には悔しかったのだ。だけど、武藤には、自分の体が他の人より大きいという意識はないらしい。


 美桜は美しかった。

 年齢不相応な大人びた綺麗さだったが、物怖じしない性格のためか、笑うと屈託のない、年相応の可愛い表情になった。


 武藤は一瞬の間をおいたが、話を続ける。

 「数Ⅰに入って、因数分解で引っかかったのかな?」

 「はい。数字の計算ならば解りますし、文字式も方程式もできますが、全部がabcとxyzになっちゃうと、訳が分からなくなっちゃうんです」

 「そうか。

 じゃあ、とりあえず、幾つか問題を解いてみようか。その解く過程を見させて貰えば、苦手に感じている理由が判るかもしれないよ」

 「はい」

 「じゃあ、そうだな、今日はとりあえず僕が使っていた参考書を持ってきた。その問題をやってみよう。それ次第で、朝倉さんにあった問題集を買うなり、方法を考えるということでいいかな?」

 「はい、わかりました」

 美桜は、数学のノートを取り出した。

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