第32話 夏休み


 夏休みが来はしたけれど……。


 「覚悟しときなさい」という、美岬さんの母親の言葉のどこにも、それはもう、スマホに付いた手脂の重さほども嘘がないことを、十分以上に思い知らされた。

 美岬さんに、まぁ、エッチな意味で手を出しでもしたら、冗談抜きで殺されるっつか、手を出す寸前に組織の誰かが踏み込んでくるってことも、確信になった。


 まぁ、それでも得たものは大きかったけどね。

 つか、そう思わないと、今すぐにでも倒れそうだ。

 夏休み、毎日、十五時間のカリキュラムが組まれていた。最後の三日に至っては、二十時間だ。

 どこかは判らないけど、大きく富士山が見える宿舎に夜間移動させられて、携帯は取り上げられ、講師とマンツーマンで一日三時間の数学と二時間の理科系科目。英語二時間とその他文系科目を三時間。

 俺、今時点でもう、理系の国立大学中堅クラスなら合格できるような気がしている。


 正直言って、受験勉強は楽しかった。

 一流の講師ってのは、楽しく苦労させるすべを知っているのな。数回は笑いを誘い、最大限に考える時間をくれて、でも、トータルの時間は無駄にしない。教えることにも、名人芸ってのがあるんだと思ったよ。

 個人の能力ってのより、環境ってのは大きいのかも知れない。自力で勉強していたら、もっともっと苦痛だったはずだ。そのくせ、きっと伸びない。


 英語は、短時間ではなかなかに詰め込めないので、これからも毎日二時間ずつ自宅に講師がやってくる。受験対策だけでなく、将来を見据えて会話までこなせるようにと徹底している。

 一年生が終わるまでに、すべての教科で国立大学中堅クラス以上での合格が期待できる学力を付けることになっている。更にもう一年でさらに上を狙えるよう仕上げる。


 そして、十時間の勉強に加え、一時間、嗅覚を言葉にする訓練。

 初めて自覚したんだけれど、自分の中のにおいの分類では、得た情報を人に伝えられないのな。たしかに、ソムリエの方法論は有効だわ。

 この訓練は、得るものがとても多くて楽しかった。例を挙げれば、俺が漠然とアドレナリンと感じていたにおいは、アドレナリン、緊張して瞬時に毛穴か閉まった際に放出される体臭、冷や汗などの混合物であり、厳密に段階を分けられるものだと、整理、自覚できた。心理変化だけでなく、他のにおいについても、同じように理解が深まった。やはり、見ると観察するは違うんだな。

 そして、講師の化粧品メーカーの調香師と自由に話せたのも嬉しかった。同じ感覚を共有できるって、本当に素晴らしい。

 美岬さんが、俺に会った喜びってのを再認識したよ。


 でも、当然のように地獄もあって。

 加えて一日四時間……、毎日、半死半生になるまでしごかれた。

 美岬さんの母親から、大尉と呼ばれていた自衛官だ。遠藤っていう名前だったけど、和菓子を食う時の無邪気さが信じられないほど、「鬼」だった。

 四時間の身体訓練は、しゃがみ跳躍とか泣き出したいほどキツイのに、同時に戦闘に関わる知識も反復して叫ばされた。鬼が叫ぶのに後から反復するんだけど、これがキツイのなんのって。つまり、心肺機能と脳の両方が休まる間はないってこと。

 一度ならず、吐いたよ。

 でさ、戦闘に関わる知識ってのは、理科系の知識と重なることが多くて、化学反応式やモル濃度を叫んでいると、外目には「おかしな人」に見えるんじゃないかと思った。

 有機化学に踏み込んだ時は、脳がいっぱいいっぱいになって、走る足がもつれてコケたことも一度や二度じゃない。

 この辺り、机に座って集中できる数学よりも、よっぽどハードだった。


 鬼は防大出で、レンジャーのダイヤモンドも持っているって。さらに、公にできないことも含めてなんやかんや表彰歴もあるらしいけど、自分のことを自分からは積極的に話さないんだ。どうも、優秀ってのが一線を越えると、極秘任務的なものがやたらと増えるみたいだね。

 加えて自衛隊に対して、俺は普通の高校生並みの知識しかない。だから良くは判らないけど、まぁ、凄いってことでいいや。


 しかも、だ。

 鬼は満面の笑みで、古典文法でも三角関数でも、覚えられないところは何でもサービスしてやるって言うんだぜ。大学入試程度の知識ならば、鬼の頭ん中、すべて入っているってことだよな。

 で、叫ばしてくれるって言われたって、それはもう、是非とも遠慮申し上げたい。

 文武両道とかという言葉が、こんな狂気を孕むとは思わなかったよ。


 で、この異常な世界での休憩は、十五時間の合間に昼食の三十分と、十分間の休憩が六回挟まるだけ。寝るのと食事と風呂で八時間は使えたけれど、それにしてもよく自分が壊れなかったなって思う。

 実際、訓練開始三日目には全身の筋肉痛が酷すぎて高熱でたし、オシッコもとんでもない色になった。

 で、その時ですら、講義は免除されなかったんだ。


 ホントにさ、ここまでやって解ったこと。

 ここまで日常から脱却しないと、戦う力は手に入らないんだってこと。

 善し悪しはともかくとして、相手を倒すという訓練を敵がしていて、それを凌駕して大切な人を守るためには、うん、仕方ないけど必要なんだなと、ある程度は訓練について行けるようになったときに思った。

 クソみたいな言い方だけど、「正義だから勝つ」なんてない。

 自分が正義で悪に勝ちたかったら、悪より強くなるしかない。

 正義の陣営にいるから勝てる、みたいな甘え、徹底的に頭と身体から叩き出されたよ。



 さらにさらに、だ。訓練だけじゃない。

 一週間に一度、家には帰れた。というより帰されたけど、泊まるまでは行かず、姉の顔を見るのが精一杯。あとは、サトシや級友と会って、いつも家にいないということがバレないようにした。

 これも地味にきつかったけど、送迎の車では寝られたから、それだけは天国だったな。


 そして、夏休み最後の三日間、二十時間のカリキュラムが組まれていた。

 鬼遠藤は、理系教科の最後の追い込みなんてまったく考慮しないで、通常の訓練以外に長距離行軍まで計画しやがった。

 でもね、鬼も寝なかったし、一緒に行動したんだよ。のみならず、腕立て伏せとかは俺の倍はこなしているし、俺が座学の間も、射撃とか勉強とかに加えて、本業の仕事も回していた。

 だから、鬼は恨めない。三日間連続で、三十キロの荷物を背負って、夜中に二十キロという距離を歩かされて、古典的表現だけど、豆じゅうが足だらけの状態でもだ。


 で、最終日に、へとへと、へろへろになって、声も枯れ果て、虚ろな目になって地面ゾッコンLoveになっている俺に、鬼はさらっと言ってのけた。

 「これからも、毎日体力作りの基礎訓練を欠かすな。

 今までのは、初歩の体力作りに過ぎない。レンジャー訓練に比べたら、飯が食えただけありがたいと思え。

 冬休みになったら、戦闘に耐えうる技術も含めた訓練を始めるが、今より体力が落ちていたら、二度と泣いたり笑ったりできなくしてやる」

 死んじまう一歩手前までイジメる、ってことですかいな。

 いらんよ、ハートマン軍曹は。

 お互い、もう三日間、ほとんど寝ていないんだから、脅しにしてもほどほどのところで堪忍して欲しい。


 確かにさ、仰るとおりで食事が良かったのだけが救いだ。給食っぽさの無い、飽きの来ない、きちんと作られたもの。体力をつけるため、一口でも多く食えと言われていたから、本当に助かった。


 鬼は、一緒に食べなかった。

 俺の訓練は、誰から見ても自衛官とか軍人というような人種になってしまったら諜報の世界では不利になるということで、あちこちが自衛隊の訓練と意図的に変えられていたんだ。

 だから、生粋の自衛官である鬼とは、生活空間は共用しなかったし、食事も別だった。

 服もジャージだったし、自衛官に必須の技術である、アイロンがけやベットメイクはできるようにという、ある意味とんでもない条件が付けられていた。


 おそらく、鬼はそれが歯痒かったんだろうなとは思うよ。

 でもね、本物の自衛官の人たちから見たら手抜き訓練だったとしても、食べて、寝る。それすらも、これほどの密度でできた経験は今までなかった。

 それに、受験勉強までセットってのを考えれば、こっちのほうがハードだろうよ。


 で、美岬さんにも会えず(数学とかも美岬さんの方が遥かに進んでいたから、講義も別だった。基本、講師とマンツーマンだし)、なんというか、内面にずしんとした自信みたいなものは増えたけど、張り合いの悪い夏休みとなってしまったよ。

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