第29話 姉の心情


 「姉の恋人は、同じ会社の人だったはずです!」

 俺の声、悲鳴に近いかも。

 俺も会ったことのあるあの人が、そんな悪人とは思えなかった。


 「まぁ、仕方ないわね。

 こんな事でいきなり頼りがいがある男は、そこそこ修羅場を経た経験があるはずだし、彼の歳でその経験があったとしたらあまりまともじゃないわ。それでも、社内でお姉さんがここまで抵抗できたのは、彼がいたからというのはあるしね。未だに、逃げてないだけでも大したものよ。

 だから、お姉さんも、真君も彼に裏切られたわけではないのよ。

 ただね、さすがに三回目ともなると、追い込むタイミングも見事なもんだわ。姉、弟の二人きりの家族で他に社会的な味方になりうる人間がいないということも知られているし、ね。

 彼の抵抗は無駄でしょう」

 死刑宣告に等しい。「仕方ない」で済ませるな、とも思ったけれるど、本当に仕方がないんだろう。納得なんかできないけど。


 俺は、だれともなく聞いた。

 「一年後、問題は解決するんでしょうか? それでうまくいくのでしょうか?」

 母親さんが答えてくれると思っていたのだけど、姉が答えた。

 「私が求められているのは、明後日までの回答。明後日の回答で、賠償請求されるか、体ごとすべてを渡すか決めなくてはならない。一年が一ヶ月でも間に合わない。もう、私はおしまいなの。

 本当は、こんなこと、真に知られないままそっと消えようと思っていたのに……」

 姉の声も手も震えていた。最後は涙声。


 母親さんの声が、さらに冷淡に響いた。

 「明日、真君への財産の名義変更を終えたあと、自殺を考えていましたね。

 あまりお酒は嗜まれない方が良いでしょう。それによって、良い案は生まれないですし。たとえ、弟さんを騙す目的もあったとしてもね」

 俺は愕然とした。


 嗅覚を使っていてなお、姉に騙されていたことを痛みとともに自覚した。ちっとばかり鼻が利くからって、解った気になって、俺という奴は……。


 姉から漂う、二人の男のにおい。片方は俺も知っている彼氏だ。そして、もう片方は、悪魔だったのだ。悪魔の顎門あぎとの前で綱渡りをしている姉を、俺は全く理解していなかった。


 そして……、部屋をきちんと片付け出したのも、そういうことだったのか。



 母親さんは続ける。

 「話を戻しましょう。

 先程お話ししたことを、もう一度繰り返します。

 お姉さんは、真君の能力を正当に評価されていないと、私たちは感じてます。

 真君自身の能力の点については、今この時も成長をしようとしています。この伸びている今を有効に使わせていただきたいのです」


 姉は、必死で落ち着こうとしていた。目立たぬように深呼吸し、唾を飲み、そして……。

 「八桁からのお金を、将来性も不確かな真のために使う、そのリスク管理について聞かせて頂けますか?」


 姉は、この期に及んでも、俺を守ろうとしている。

 体中が激情で火照り、そして、喉の奥に何かの固まりがこみ上げてきた。それでも、俺は、おとなしくその場に座り続けた。それが姉の望んでいることと解っていたからだ。

 姉は、美岬さんの母親に対して、まだ蟷螂の斧を下ろしていない。


 だけど、その答えは、極めてあっさりしたものだった。

 「簡単なことです。真君ほどの嗅覚の持ち主は、一千万人に一人もいません。国内に十人もいないでしょう。

 これはプロ野球選手よりも遥かに狭き門、優れた才能です。

 プロ野球選手の有望株は、様々な球団から引く手あまたですし、結果的に契約料は九桁までも上がります。プロの世界で活躍できるかどうかも不確定なのに、です。

 それだけのことですよ」

 それだけって、それだけなんかい!?

 金額と使い方がピンとこない。


 「うちの組織の話がなくとも、化粧品メーカーや食品メーカーから、それなりの報酬でスカウトが来るはずです。もしかしたら、国外のメーカーからもね。

 それだけ稀有な才能ですし、普通の会社員などには納まらない能力なんですよ」

 そう付け加えられて、姉は、途方にくれた顔になった。


 美岬さんの母親は続けた。

 「ですから、我々としては、八桁でも安い買い物なのです。そして、『お姉さんは、真君の能力を正当に評価されていないと感じてます』と申し上げたのも、身近過ぎてその希少価値を見失っていらっしゃると感じているからです。

 さぞや、この能力によって、肉親としてのご苦労が多かったのだろうとお察しします。『この能力がなければ、どれほど良いか』と昔からお感じになられていたのでしょうから、これを素晴らしいといきなり言われても、素直に頷けないのは解ります。

 ただ、我々はそれだけでなく、真君の論理を組み立てる能力、負け犬にならない強さも買っています。さきほども、この家の呼び鈴を押すのに相当迷っていましたが、押す決断をしましたね。

 そこを買っているのです」

 ああ、見ていたんだ。

 二次試験って奴かな。

 それで美岬さん、あんなに嬉しそうだったんだ。


 「もう一つ、付け足します。

 真君の立場です。

 最終的に我々の仲間にならなくても、四大出のキャリア官僚という肩書きは残ります。我々の存在をマスコミに対して大々的に煽るなどの違約をしなければ、身分は一生安定します。

 最後に我々の立場ですが、その場合、残念ではありますが、無償の奨学金を与えた結果、国のために働いていて、かつ必要に応じて我々への便宜が期待できる人材を得たという、消極的譲歩が可能な状況が残ります。それすらも得られない場合、それは組織の核たる私に人を見る眼がなかったとされるだけです」

 母親さんの説明は、整然としていた。

 加えて、言葉のイントネーションの一つ一つに、そこはかとない迫力があって、説得力を増している。そうか、この迫力が、軍人ぽい口調を連想させるんだな。そして、この迫力は覚悟から生まれているんだ。


 姉は……、それでも納得しなかった。いや、納得したくないのだ。もう、論理ではない。心情が納得していないのだ。

 平凡な、普通の就職とは違う。

 俺が別の世界に行くことを、半ばパニックになりながらも、何としても認めたくないのだ。


 二人しかいない家族、弟を失いたくない、その想いは俺にもよく分かる。姉を失う危険を知った今ならば、なおのことだ。

 姉は、言葉を発することもできないまま、子供のようにいやいやと首を振った。

 美岬さんの母親も、姉の心情は解るのだろう、もう、あえて言葉を重ねなかった。

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