第14話 接触


 駅ビルの屋上。

 ビアガーデンの一画から離れたところに、彼女は立っていた。

 屋上の外周の転落事故防止フェンスに沿って花のプランターが置いてあり、その手前から街並みを見ている。

 隣のビルが迫っていて、あまり眺め自体は良くないけど、それでも、ビルの隙間からできる限りの遠くを眺めようとしているようだった。

 まだ、真夏ほどではないにせよ、午後の日差しが強い中、微風に前髪がそよいでいる。その周囲だけ彩度が上がって見えたのは、きっと、夏の制服が白いからだけではない。


 けど、彼女がその位置で待っている理由が、俺には解った。

 風下を選んでいる。

 俺に、においを嗅がれたくないのだ。


 警戒している。当然のことだ。

 そして、ここまであからさまに警戒されるのは、俺にとっても初めての経験。

 人と人が距離を縮めるってことは、なんて大変なんだろう。特に、こんな場合。


 「美岬さん?」

 俺は声をかけた。初めて名前で呼んだ。名前で呼ばねばならなかった。あくまで個人と個人として話したかった。

 彼女は返答せず、眼を見張るようにしてこちらを見た。

 正面から視線を合わせて、しばらく二人とも無言だった。いつもより大きく感じる眼、そのためか、小顔がさらに小さく見えた。いや、身体全体までもが頼りなく小さく見える中で、眼だけが大きかった。

 「冷房の効いているところに行こう。その方が、こちらの姿勢を理解してもらえると思う」

 そう切り出す。


 暑い日差しの中より、周囲の温度が低い場所の方が、こちらの顔色の変化を見やすいはずだ。害意が無いことを示すと同時に、彼女の能力の再確認の意味を持たせた言葉だった。

 美岬さんは黙って頷くと、エレベーターホールに向かった。

 彼女は俺に対して、暗に視覚の能力の存在を認めている。そして、俺に害意があったら、俺の心を殺しにくるのかもしれない。もしかしたら、なくてもだ。

 心の高揚は、綱渡りタイトロープが始まることに対してか、単に彼女と話せることに対してなのか。俺自身にも判らなかった。


 スタバではない、別のコーヒーショップに入る。

 空いている。

 コーヒーの香り、ワッフルの焼けるにおい。あ、でも、油のコストを下げているな、ここんちは。バターに、あまり質の良くない植物油が混じっている。


 四人がけのテーブルに、俺と美岬さんは対角線に座る。空調の位置を読んだか、彼女はやはり風下側に位置取る。

 俺はコーヒー、美岬さんはアイスティーを注文した。

 ……沈黙。

 すぐに飲み物が運ばれてくる。早すぎるぐらいだけど、今回は都合がいい。話の腰を折られずに済む。


 腹ぁ決めた。

 小細工は捨て、正面から行く。というか、怖くて仕方ないけれど、今の俺にはそれしかできない。


 録音状態のままのICレコーダーをポケットから取り出し、テーブルに置く。

 美岬さんの表情が、緊張を超えて険しくなる。

 怒り顔も綺麗なんだな、などと場違いに思う。


 どれほどの怒りを買ったとしても、怯えられるよりはましだ。こんな事までしておいてなんだけど、彼女が強くて助かった気がする。

 ここからは、俺自身を賭ける。


 「美岬さん。まずは、話を聞いてくれ。こちらのカードを全てオープンにした上で、美岬さんの判断に任せたいと思っている」

 美岬さんは無言で頷いた。また、ちらっと目が青く光ったような気がした。

 しゃべりたくないのか、ICレコーダーを警戒してしゃべらないのかは判らない。

 しゃべる気分じゃないと言われたら、まぁ、俺も美岬さんの立場なら、同じだな。


 「俺は、美岬さんが知っているとおり、嗅覚が敏感だ。多分、他の人には無い観察スキルだ。おそらく、美岬さんもそういうものを持っていると、この間、一緒に帰った時に判断した」

 美岬さんの表情に構わず続ける。

 「まずは、俺のスキルを説明しておくね。

 俺は、においで人の内分泌系の変化が分かる。だから、その人の体調や感情の変化も判るし、結果として、緊張しているとか、嘘をついているとかもかなり判る。誰かが何かに触れれば、誰が、何時、それに触ったかも判る。

 一応、言っておくけれど……。判りたくて判るわけではないし、判らないならそれに越したことはないと思っている。でも、判ってしまうんだ。

 判ってしまう自分と社会とを、なんとか折り合いをつけてきた過去が俺にはある。そして、俺は、美岬さんもその経験を積んできていると思う。

 でさ……。

 金曜日、俺は見ちゃったけれど、あいつらがうちのクラスに来たとき、普通の人と違う眼をしていたよね。

 その後、一緒に帰ったときに、ちょっとだけだけど泣きそうだったよね。話題によっては緊張もしていた。

 過去の噂や、今回のいろいろ、今日の鯛焼きを考え合わせると、俺は美岬さんが赤外線、それもたぶん、可視光に近い近赤外光は確実に見えているんじゃないかと思った。

 俺の嗅覚が規格外だから、そういう規格外の結論に考えが偏ったのかもしれない。実際に、見当違いのことを言っているかもしれないね」

 ここで言葉を一旦切り、コーヒーを啜る。

 美岬さんは、アイスティーについてきたストローの袋を、細い指に巻き付けたり解いたりしながら、視線を落としていた。


 俺は続ける。

 「美岬さん。俺は、馬鹿な犬というポジションで生きて来た。でも、居心地は悪くない。友人もいる。

 俺の想像だと、美岬さんは、本来明るくて社交的な人なのに、自分の身を守るためか、何かの目的のために、それしか選択できないという道を生きているように見える。

 美岬さん、俺は、君を守りたいと思っている。今の俺は力が不足しているけれど、それでも美岬さんが、本来の姿で生きられるようにしたい」

 あれっ、美岬さんの指に巻き付いた、ストローの袋が濡れている。

 アイスティーの結露か? それとも、涙か?

 泣いているのかもしれない。悲しみなのか、情けなさなのか、怒りなのか、それとも感動なのか、どのような種類の涙なのか風上にいる俺には判らない。

 美岬さんは、アイスティーを一口飲んだ。


 ICレコーダーを指差す。

 「これ、止められないの?」

 「止めない。でも、話のあと、録音データを消すことはできると思う」

 美岬さんは、怪訝な顔をした。確かに意味が分からないだろう。


 「美岬さんは、美岬さん自身の噂を知っていると思う。俺個人としては、それを信じているわけじゃない。でも、その噂が本当か嘘か判断するための、客観的材料ってのを持っていないのも事実だ。

 それでさ……、美岬さんに、俺を壊されてしまうことを心配している人たちがいる。その人たちに、壊れていない俺自身を持ち帰ることで、美岬さんの安全をも確保できる。その場合、話の内容を誰も聞く事はなく、俺の判断で録音は消去する。そもそも、俺自身、正直に言えば、こんな恥ずかしいこと言っているのを残しておきたくはないんだ。

 逆に、美岬さんが俺を壊し、それが俺の自業自得のものであった場合、これは、美岬さんの安全を確保するための証拠として使って欲しい。多分、美岬さんなら、力ずくでも俺からこれ、奪えるでしょ?

 俺は、君が相当なトレーニングを欠かしていないことを知ってる。新陳代謝が早いの、分かるからさ。

 そこまで行かなくても、悲鳴を上げれば、取り押さえられるのは俺だよね。

 そして、最後の可能性です。

 確率的には一番低いと思っているけれど、俺の自業自得でなくて、美岬さんが積極的に他者を傷つけるのであれば、クラスのみんなだって身を守る権利はある。その場合、俺は、どれだけのことをされても、このレコーダーのメモリを飲み込んででも命がけで持ち帰るよ」


 自分の言っていることが矛盾していることは理解している。でもね、自分の立場と覚悟はきちんと伝えたかったんだ。

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