第8話 ある猫の散歩
ある時、自分は飼い猫だった。
今となっては顔すらも覚えていない前の飼い主は、自分がよく遊んでいた段ボール箱に自分が入ったまま雨曝しにして、それ以降現れなかった。
捨てられた、とわかるまでに少々時間がかかったけれど。
外に元々いた他の
「―かわいそう」
「―ねえ、うちで飼おうよ」
片方が今にも泣きそうな声でもう片方を説得しているのが、弱った体にぼんやりと届いた。
そこから紆余曲折あって、今はかつて同様、落ち着いた生活を送っている。
今いる家は前の家ほど広くは無いが、縦横無尽に走り回っても怒られないのであまり気にしていない。
……まあ、一つ難があるとすれば。
「……有紗」
「由佳……、んっ……はぁっ」
自分の背中を撫でる手が止まる。
やれやれ、また始まった。こうなると二人は自分の事はしばらく構ってくれない。
撫でている手の重さが少し軽くなった頃合いを見計らって、すっと抜け出す。
平時なら、逃げられた~、という声が聞こえるはずなのだが、こういう時は何も聞こえない。
お気に入りのクッションで丸まって、事が収束するのを待つことにする。
―今日はいつもよりも長くかかりそうだ。
遠くで甘い声音を交わし合う女主人達を横目に、自分はうたた寝に落ちた。
*
ある時、自分は大勢の中の
毎朝、蛍光灯の明かりで目覚め、ケージの扉が開けられると外へ出ろと急かさせる。
太陽の光が、優しい色使いの店内に差し込み始める頃、スタッフの顔つきが一気に営業スマイルに替わる。
そこからは、入れ替わり立ち代わり色々な人間に触られる。
いい人に触られると気持ちいし、よくわからない人に触られると気持ち悪い所ばかり触られて困る。そういう時は全力で身を捩って逃げるに限る。
こちらが嫌がっていると分からずにやたらと力いっぱい触ってくる人もいたりするらしく、10円ハゲをこしらえてるものもいた。
他の猫達とはあまり話さなかった。
自分たちは、人間たちの癒しを提供するためだけにこの場にいるという共通認識だけを得て、それ以外は何も考えなくなった。
おとなしくしていれば食べ物も寝る場所も、質はともかく困る事はなかったし。
だが自分は、身体の内にふつふつと何かが、いつか弾けそうな何かが溜まっているのを感じていた。
イライラとは違う、何か。
それが弾けたのはそう遠くない日だったと思う。
ある日、団体客が出ていく時に、仕切りや扉が全て開いたタイミングがあった。
弾けたのかはわからなかった。
人の隙間を縫うように走るのは得意だった。スタッフが気づく前に人混みに紛れて外に駆けだした。
後ろから自分の脱走に気づいて追いかける声が聞こえるが、足の速さは負けることはなかった。
後ろから迫ってくる声が聞こえなくなったとわかっていても、スピードは緩めなかった。
このまま、このスピードのまま、力尽きる寸前まで―
次の瞬間、突然目の前が真っ暗になって、身体がまっぷたつになった。
*
ある時、自分は帰るところのある野良猫ではない何かだった。
家の中に朝の喧騒が満ちるころ起きて、出掛けていく同居人に混じって外へでていく。
今日はあの辺で陽に当たってみたり、また別の日は近所の野良と戯れてみたり。
たまには家でじっとしていたり。
家の前で寝転んでいると、喫茶店のお客さんに構ってもらえたり。
散歩をしていると、いろいろな出会いがある。
大して距離は離れていないはずだけれど、不思議なもので。
でも、時々思うことがある。
自分は、過去にもっと凄い出会いのような、漠然としているけれど、そういうものがあったのではないか、と。
―具体的には、思い出せないのだけれど。
掌編集「プラットホーム談義」 高山和義 @Kazuyoshi_taka
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