扉のしるし

穂積 秋

第1話

 私は、ゆっくり、静かに夜の町を歩いていた。

 小さい町だ。人っ子ひとりいない。

 家から出てくる人は誰もいないのだ。

 町の入り口から中心にある広場に近づいたのに、道を歩いていた人間は一人だけ。中年の女性だが、その人は自分の家から飛んで行った毛布を取りに道に出てきただけであった。毛布を拾ったあと、振り返って私を見た。

 私は、気配を最大限に殺している。私を見たのは偶然だろう。

 しかし、私を見た彼女は、ひどく驚いて、あわてて自分の家に戻っていった。

 そんなに驚かれる格好をしているのだろうか。自分ではわからない。

 町の区画の端っこにたどり着いた。仕事を始める。

 門のある家。

 門から少し手を差し入れる。そのまま音もなく、門を開ける。

 門から敷地の中に入った。玄関まではそれほど距離はない。

 玄関の扉を見た。この地方に多い木製の扉で、かなり年数が経っている代物だ。傷も多い。

 私は丹念に扉を調べた。変わった点は見当たらない。

 家の中の様子を探る。住人たちはすでに寝ているようだ。

 よし。

 私はたもとから帳面を取り出して、チェックの印をつけた。

 それから、入ってきた時と同じように、音もなく門を出た。

 これだけの仕事だが、この一区画をすべて見て回らなければならない。

 隣の家に移る。

 同じように、音もなく門を開け、玄関をチェックする。

 帳面に印をつける。

 単調な仕事ではある。この仕事がやくにたつかどうか、気にしてはいけないのだ。

 五軒目の家は少し変わっていた。

 玄関に、変な印が刻まれていたのだ。

 デフォルメされた手を示すような形、それに目が刻まれている。

 私はじっくりとその形を観察し、帳面に書き写した。

 異教の印であったがこの形には少し知っていた。魔除の印だったはずだ。小賢しい真似をするものだ。だが、惜しい。私はこっちの宗教の使いではないのだ。

 私はそのあとも玄関の観察を続け、目当ての区画を全てチェックし終えた。五軒に一軒の割合で印が描かれていたが、正しく印を記している家はそのうちの三分の一程度であった。

 あとは帰って分析するだけである。分析結果を待たなければならないが、だいたいは予想通りであった。

 そのときだった。

 私の前に立ち塞がる者がいた。

***

「お前、何者だ」

 その者は、低く小さい声で私に向かって言った。私に向かって、だ。

 見た限りでは平均男性の身長より少し高いくらい。フードを目深にかぶっていて、表情が見えない。だぶだぶのマントのようなものを羽織り、体型も見えない。つまり、私と同じような格好だ。この町で夜に活動するものはだいたい同じような格好になる。夏とはいえ夜は急に寒くなることがあるから防寒の着物は欠かせない。今夜は、寒いというほどではないが、ややひんやりしているのだ。

「神の使いだよ」

 私も同じように低く小さい声で、少しおどけた調子が伝わるように工夫しながらその者に向かって答えた。

「ふん、死神の使い、だろう?」

 その者の言葉に私は首を振って否定したが、この暗闇の中、しかもフードをかぶった状態である。相手に伝わったかどうかはわからない。かと言って言葉で言い直す気もなかった。それより、住宅地の中で話す気はなかった。

「こんな町中で話す気はない」

 代わりにそう言った。しかしその者は、ここで話をすると言った。

 私は顔を動かさないように周りを観察したが、フードが邪魔をしてよく見えなかった。こいつの仲間がいて、私を傷つけようとするのかもしれない。なりふり構わず、私は顔をむけて辻の影を順番に見た。誰もいそうにはいないが、確証はない。

「なに。今すぐ取って食おうというわけではない。少し話をしたいだけだ。この時間に余計な動きをすると目立つ。目立つのはお互い避けたいだろう?」

 そいつの言うとおり。私は目立ちたくない。しかしこんな夜に男二人が話をしていても目立つのではないか?

「手短に言おう。お前は疫病と関係のある者だろう」

 その男のいう通りだった。今年の春から夏にかけて、世界的に疫病が流行る。これはすでに決められたことだ。その罹患者を決める必要がある。誰を罹患し誰を救うか、決めるための情報を採取する役目として、私のような者がいる。私はこの町を担当しているが、他の町を担当するものももちろんいるはずだ。直接会ったことはないし会うことは禁じられている。

 ここで否定しても話が無駄に長引くだけだが、話してはいけないことになっている。肯定も否定もせず、暗に肯定しつつ質問を返す。

「なぜ知っている。お前も同じ役目のものなのか」

「そうだ。いや、違う。お前の同僚に会ったことがある。そして聞き出した」

「そんなばかな」

 思わず、声が大きくなってしまった。慌てて小声で言い直す。

「ありえない。他者に話をするなんてことは」

 するとその男は、少し笑った。暗闇の中だがそのように見えた。そして、息を継いでから、やや早口で喋り出した。

「今のは正確ではない。別の町でお前と同じような行動をしているやつを見たことがある。夜中に玄関に印が付いていないかどうか調べているやつだ。その時には意味がわからなかったが、こそこそと怪しい行為をしているので興味を惹かれたのだ。そいつの後をつけた」

 私の同僚に、尾行されるようなマヌケがいたのか。そっちがややショックである。

「おれが見たところ、そいつは玄関だけを見ていて、他のところは見ていなかった。しかし、おれは思い出したんだ。過越の由来を」

 癪に触るが、正解に近づいている。

「こんなことを言うのは釈迦に説法だが、聖書に出てくる話だ。預言者モーセが疫病を防ぐために扉に印をつけることを自分の民に指示したという。すると印をつけた家は、疫病にかからなかったという。三千五百年くらい前の話だ。疫病が過ぎ越したから、過越という」

 その話はもちろん知っている。

「おれはそいつを尾行して何をしているのかを推測しただけだ。この推論を得てからおれは引っ越した。一ヶ月後に、おれがいた町に疫病が流行った。何人も死んだ。おれの友人も死んだ。だが、死ななかったやつもいる。そいつと連絡をとって、玄関を見てもらった」

 私は黙って聞いていた。こいつの推測はほぼ正解である。二千二十年の春から疫病が流行っているのは周知の話。夏になっても収束はしていない。こいつの用事はなんだ。自分だけは助けてくれと言うつもりか。

「そしてそいつの玄関に記されていた印を写してきたんだが」

 そこでそいつは私に顔を近づけた。

「さて、これが見えるか?」

 そう言ってそいつが差し出した紙に記されていたのはまさしく私がさきほど書き写したものとそっくりな印であった。

「これを記しておけば、疫病はこないんだな?その確証がほしくてな」

***

 私は、うなずくこともできた。そうすればこの男は満足して私を解放したかもしれない。

 しかし、意図せぬ長話に付き合わされた私はかなり意地悪になっていた。

 少し戸惑わせてやっても良いだろう。

「お前はなかなか勘がはたらくようだ」

 私はそう言って始めた。

「私の姿を見ることができる時点でかなり勘がはたらくのだろう。私たちは人に見られないように細心の注意を払っている。このマントで肩と頭を覆うと、普通の人なら私たちを認識することすらできないはずなのだ。つまり、真正面から見られない限り私たちの行動が見咎められることはないのだ」

 男が口を挟まなかったので、私はさらに続けた。

「お前の出した推論は、八割くらいは正しい。過越は有名だが、まあそれに近いことは行われている。モーセの時代ならファティマの目の印で過ぎ越したことになっているが、二十一世紀は違う。ファティマの目では過ぎ越せない。時代は変わるものだ」

 男の顔に少し不安がよぎった。狙い通りである。

「現代の医学者はウィルスが原因の疫病であることを突き止めているが、ウィルスがどこに蔓延するかは科学ではわからないだろう。神の領域だからな。そしてそれを司る存在の手伝いをしているのが私たちだ」

 男の不安の色は強くなった。まさに狙い通りである。

「さて、お前も知っているモーセのエピソードを例に取ろうか。疫病を流行らせたようとした勢力と、疫病を防止しようとした勢力があった。モーセは一神教の預言者ということになっているので神が疫病で人間を殺し、そのうちの一部を救ったという解釈にしているが、対立する二つの勢力とみた方がわかりやすいだろう?だがそれは単純化したモデルだ。傍観した勢力だってあってもいいと思わないか?」

 だんだん、男の顔から表情が消えていった。理解が追いついていないのかもしれない。

「簡単に結論だけ言おうか。疫病をはやらそうとする勢力と抑えようとする勢力の他に、関わりあおうとしない勢力がいくつもあるし、疫病に関わっている勢力も一つだけではない。いくつかの勢力が互いに疫病を広めたり防いだりしている。お前たちの言葉で言うと『確率』というやつで決まる。モーセの時代は人間が少なかったので単純だったが、あの頃に比べて人口は数億倍に膨れ上がっているのだから」

 まだ、理解していないようだ。

「つまり、お前の玄関にある印は、時代遅れだ。残念だったな」

 やっと、理解したようだ。男の顔に絶望が浮かび、私はそれを見て満足した。

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扉のしるし 穂積 秋 @min2hod

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