第5話 5
神官候補学生の教室は夏でもひんやりと冷たい石造りの神殿の奥、北側にある。外の暑さもここまでは届かない。
ルエキラは学生たちを前に神殿の概要について説明していた。
「皆も知ってのとおり今より八百年程さかのぼる過去に、この神殿の僧兵が蜂起したことがあった。首謀者は時の王パナザル・ベテル・ミカヤの第二王子セイリオン・ヴァシャ・ミカヤであり、しかも彼は今で言う最長老の地位である神官司祭長を約束された人物だったが、己の持つ魔力をもってこの国を、果てはイの国まで攻め滅ぼそうとした。しかし、その魔力ゆえに彼は自滅した。それより後に我国においては、一部の例外を除いて魔術を放棄し、それらを用いるものを厳しく罰している」
神官候補生のほとんどは、まだ一二から一四歳の幼い少年たちだ。彼らはいっしんにルエキラの話に耳を傾けている。神殿で教わる事柄は総て口伝えであるために文字に移し取ることを禁じられていたからだ。
「魔術にこころ惑わされてはならぬ。たとえそれがいかに魅力的であっても。我ら総てはラバァタ神の定めた法則に従う者なり」
最後の部分は皆に復唱させた。そう言いながらもルエキラの心は痛んだ。テアはこのラバァタ神の法則から大きく離れている。そしてそのことをテアは自覚していないのだ。
この日、部屋の扉を開けてくれたのはまだ幼さの残る少女だった。
また新しい侍女に替わったらしい。ルエキラは内心溜息をついた。テアの侍女は短い期間で次々にかわっていく。彼女の気難しさが災いしているのかもしれないとルエキラはいつも思う。
「あの、姫さまは今朝からなにもめしあがっていないのですが」
とほうに暮れたような瞳で侍女はルエキラに告げた。おおかた読書に熱中しているのだろう。ルエキラは笑ってみせた。
「あまり気にしなくていいよ。本を読み始めたら食事もまちまちになるから。わたしから何かすすめてみよう。そのときは食事をもって来てくれないか」
侍女はようやく安堵したようだった。なにも年端のいかない侍女に任せなくとも……。ルエキラは控えの部屋に戻っていく少女の背中をみつめた。
テアの部屋は、いつも夥しい本であふれている。それは、ルエキラが初めてここに通されたときから結婚をした現在まで変わっていない。
テアは窓際の机の前で本をひろげていた。簡素な麻の長袖の服を着ているにもかかわらず外の暑さなどまるで感じていないように汗ひとつかいていない。まるで彼女のまわりにだけ涼風が吹いているようだ。
「侍女がまた替わったんだね」
「…‥マナ。昨日からなの」
そういっているあいだも、テアは本から目を離さなかった。その背中を見ながらルエキラは侍女に心から同情した。これではあの少女になど扱えるはずがない。
「なにの本を読んでいるの」
「地理」
テアはようやく手にしていた展眼鏡をおくと振り返た。そして真顔でルエキラにたずねた。
「ルエキラさまは、“約束の地”がどこにあるとお考えですか」
突然のことだが、驚きはしなかった。テアは唐突に質問してくるのだ。教典のことや薬草のこと、はては市場で取引されている大麦の相場のことまで。
「今日は教師として授業にきたわけではないのだけど」
テアは小さな唇をきゅっとひきしめると、首を横にふった。
「いいえ、正神官としてまじめに答えてください」
お互い神妙な顔つきで向かい合ったのもつかの間、ふたりは同時に相好をくずした。
「お待ちしておりました。五日ぶりですね。でも質問にもきちんと答えてくださいね」
夫婦となってからすでに三月ほど経ったが、いまだに姫は城の自室に住んでいる。体の弱いテアを住み慣れた場所から移すわけにはいかない、というのが王からの結婚の条件だった。
ほんとうは、いつでもそばにいてほしい。ルエキラはテアの頭を撫でて隣に腰かけた。
さて、どこから姫さまにお話をしようか。
約束の地。
邪神を祭り、聖なる王国を滅ぼした尖耳族はその罪により悲しみの地に流された。
悲しみの地は、このリガ大陸のことを指しているようだ。反面、約束の地については神殿でもはっきりと確定してはいない。
「海のむこうにあるという者、誰も越えたことがないビルカの峰の彼方にという者、けれど実際は知るものがいない。コトシュにおられる最長老様なら知っておいでなのかも」
テアは、ルエキラの言葉にうなずいた。
「コトシュ……あの白い光りにつつまれている谷のことですね」
「まるで見たことがあるようなことを言うのだね」
コトシュは一般には『言わずの谷』と称されている。ネの国の聖地であるコトシュは大神殿があるというが、谷のようすをいっさい語ってはならないと戒められているところだ。
「高いところまで昇ると見えるの。でも、あまり眩しく輝いているからよくわからないけど」
テアは体からぬけだして遊びに行く。そのときにみつけたのだろう。しかし、ウィルカから馬をとばしても四日はかかるといわれているコトシュがみえるとは、どれほどの高さまで飛ぶのだろうか。
「あそこに行けばわかるのかも知れないのね。わたしはこの地図がそうだと思うの」
書見台にいつも立て掛けられている頁。美しい色彩がほどこされた本は、神殿の書籍館から無期限無条件で貸し出されたものだろう。そうでなければ神官以外は目にすることができないはずだ。
「コトシュに行かれる予定はございませんの? ルエキラさま」
ルエキラは苦笑いをした。
「谷に勤めると最低一年はもどってこられないよ。それにもし行けたとしても、中のようすは誰にも教えることができないことくらい、君も知っているだろう」
「でも、わたしにだけはほんの少しでいいの。お話しを聞かせてね」
テアはあどけなく笑ってみせた。
「わたしね、いつもお祈りをしているの。我らの罪が許され、この悲しみの地から解放され、かぐわしき約束の地へと導かれますよう……」
そう言い終わらないうちに、突然テアはルエキラにしがみついてきた。
両目を堅くつぶり、体は氷のように冷たくなり震えている。
ルエキラはテアを抱きとめながら、すばやく視線をめぐらせた。
奴が来ていた。陽はいつのまにか傾きかけている。暗闇が部屋にしのびこんでくる。いや、これは奴がそうみせているのかもしれない。
視線を合わせたとたんに、引き連れてきた低級霊どもがいっせいにがなりたて始めた。
ひどい雑音ばかりで、意味のないことをしゃべり続ける。赤や黄のまだらの霊たち。何のとががあってかいまだ現世に縛りつけられている哀れな亡者。
一挙に体になだれこんでくる、それらの妄執に飲み込まれまいとルエキラは必死に抵抗した。
数々の呪文を唱え、印を切り、やっと二人を囲むだけの結界をこしらえた。
「だいじょうぶ‥…奴らはわたしたちに手を出せない」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやくと、ルエキラはテアをそっと離し、自由になった両手で更に強大な印を結んだ。
ルエキラの手の中からまばゆいばかりの光がとき放たれた。とたんにとりまきの霊は、まるで蒸発する水のように白い霧となって一瞬で消え去った。
体力の限界を感じつつも、ルエキラはひとりきりになった奴を睨みつけた。
奴はくやしげに小刻みに体をふるわせ、テアを指さしなにかを言おうとしている。しかし、それすらも声にならない。
全神経のふりこめルエキラは最大級の呪文をなげつけた。
悲鳴にも似た音が響く。奴は濃くなりはじめた闇の中にゆっくりと溶けていった。
肩で息をしながらルエキラはテアをだきしめた。
「消えたよ。当分はこられないだろう」
「本当に? 本当に?」
今にも泣き出しそうなテアにルエキラは笑ってみせると、侍女にお茶を持ってくるようにと声をかけた。
「ひとまず体を休めなければ」
テアに典医から処方されている薬を飲ませ、寝台に寝かしつけた。いくぶん落ち着いてきたのかルエキラに話しかけてきた。
「今夜は泊まっていかれるの」
すがるような瞳だ。ルエキラは琴をかかえながら、うなずいた。
「一晩中ついていてあげるよ。琴を弾いてあげるから少し眠ろう」
安心したようにテアは目をとじた。薬が効いてきたのかもしれない。琴を静かにつまびきながらルエキラは奴のことを考えてみた。
……実物のテアと会ったのは、祭りから十日ばかり過ぎたころだった。
それまでにルエキラが耳にした彼女の噂ときたら、良くないことばかりだった。すでに何人もの侍女や教師を解雇しているとか、彼女の部屋にはおぞましい悪霊が住みついている。実際、身じろぎひとつせずに硬直したままの姫をみたことがある、あれは祟られているからだ、そのため王さえめったに近寄らないのだ。などといったぐあいだ。
じかに会ったテアは何かに脅えているようにみえた。彼女は顔色もすぐれず眉間にしわをよせ、華やかなドレスを身にまとていながら、裾をきつく握ったままだった。やたら気難しげだったので、自分の部屋に訪れる少女とは別人なのではないかとさえ思った。
それでも、ルエキラが膝をつき視線を同じ高さに合わせてお辞儀をして顔を上げると、テアの表情か一変していた。
「あの夜以来ですね。お会いしたのは」
”生きている”テアはそう言ってはにかむように微笑した。
ふたりしか知るはずのないことをテアはさまざまに語った。彼女はまさしくテア・ラエル姫だったのだ。
そのときにはすでに奴はこの部屋にいた。テアといると、ルエキラは失ったと思われた能力が再びわが身に戻ってきたのだ。
テア姫を悩ますもの、それは奴の存在だった。さっそくルエキラはセルキヤ家に伝わる護符を何枚か張った。そのためか、ここ数年はめったに姿をあらわさなかった。
奴はこの場所に縛りつけられているようだ。
城内には、数々の陰謀と思惑がひそんでいる。ルエキラはそれらの亡者たちが回廊を巡る姿や、玉座からいまだ離れようとしない権力者を見てきた。……奴もその一人なのかもしれない。
さきほどの低級霊たちは、なんと言っていたか。『カワイソウ、カワイソウネ……アノコ』 いや、思い出すまい。奴らは本当のことなど万に一つも言いはしないのだ。けれど、不安はいつも心にある。
奴は誰なのか、なぜテアを狙うのか。
もしかするとテアは奴の正体を、目的を知っているのかもしれない。でなければ、ああも脅えはしないのではないか……。
いつしか琴を弾く指は止まっていた。ルエキラは赤みがもどり始めたテアの寝顔をじっと見守った。
「今度の大祭の楽士に選ばれたよ」
ルエキラは琴の手入れをしながらテアに話しかけた。
いつものテアの部屋だ。彼女の今日の本はネの国の神話集だった。
「すごいわ。でもルエキラさまくらい歌の上手なかたはいないもの。選ばれて当然よ」
「でもないさ。今年は民暦と皇暦の祭りが重なる大祭だろう。だから例年よりも楽士の数が多いんだよ」
テアは微かにほほ笑むと首を振った。そして読みさしの本に栞をすると、椅子に座っているルエキラの隣に来て絨毯のうえにぺたりと座った。
「だってあなたの声には不思議な力があるもの。天まで届くのよ」
「そうかな?」
ルエキラはテアの率直な誉め言葉に少々照れながらつぶやいたが、テアは大きくうなずいた。
「そうよ。ルエキラ様の歌声だけよ。あれほどはっきりと聞こえたのは。抜け出してよく遊びにったけど。まわりはほとんど音のない世界だった」
ルエキラは眉根を寄せると、テアの肩に手をおいた。
「そのことはあまりり大きな声で言ってはいけない」
二間先の別室にいる侍女をきづかいルエキラは低い声でいさめた。
「でも、ほんとよ」
話が漏れ聞こえてしまうことを気にかけているルエキラの心配をよそにテアは更に続けた。
彼女が自分の体から精神の部分ー魂というものかーを離すことを覚えたのは、否、彼女は生れついてその才があったらしいのだが、それを意識して抑制することが可能になったのが七才のときであったという。
それまでの彼女は、幽体離脱は誰もが出来るものと信じて疑わなかった。それが特殊なことであるということに気がついたとき、彼女は口をつぐんだ。ルエキラと出会う一十五のときまで……。
「あの日もいつもと変わりなかった。空には星も月もなくて、ひどい吹雪で。私の部屋の窓にまで下から雪が吹き上げていた。抜け出して城の上を漂っていた私の耳に心地よい歌が聞こえてきたの」
初めてテアがルエキラの元に姿を現した晩のことだ。ルエキラは懐かしい思い出話に胸が詰まった。
「その声はテア、テアと何度も私の名前を呼んだ。あんなに優しく語りかけるように名前を呼んでもらったのは初めてだった。……一人だったから。ずっと。ここに」
いつしかテアは、ルエキラの膝の上に頭を乗せ目をふせた。
「どんな暗闇のなかでもあなたの声ならきっと、きっと聞きわけることができるわ。あなたを見付けられるわ」
ルエキラは優しくテアの長く赤い髪をなでた。母親は生まれて間もなく失ったという彼女は肉親の情愛に薄かったのだろう。
「それでね、テア。一緒に城下の私の館で暮らさないか。私の父と母と……」
テアははじかれたようにルエキラの膝の上から頭を離すと、萌黄色の瞳でルエキラをじっと見詰めた。
「楽士になったら収入も多少は増えるんだ。君一人くらい養える甲斐性は出来たと思うのだけど」
「でも、王が……」
「たしかに王は結婚の条件のなかに君が城に住み続けることを入れたけれど、まさか一生ということはないだろう。私のことを試していられるのだとずっと思っていたのだが」
「そう。それならばお願いします。私もあなたさまのお館で暮らしたいと、王にお伝え下さい」
普段、自分のこととなると、とたんに消極的な姫がめずらしく素早く同意した。
「それでは、明日にでもすぐに王への書状をしたためよう。大祭を私の館で迎えることができるならどんなにか良いだろう」
二人は手を取り合うと、ベランダの方へと足を運んだ。城下が見渡せる。ルエキラはいつものように自分の家を指さしてテアに教えた。
夏の終わりが近い。爽やかな夕風がふたりを柔らかく包みこんでいった。
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