蝉と老人

@9mvGF

蝉と老人

ジリジリと蒸し暑い夏の日だった。

「なんだろうこれ」

中学校の図書室を掃除中、学校の沿革だか誰も興味のなさそうな重たい蔵書の裏に一冊の古びたノートがあるのを私は発見した。表紙に付着した積年の塵芥を一通り払ったが、持ち主の名前もなければタイトルもなかった。

「なんか薄気味悪い」

友人は瞳を濁らしてそう言っていた。二人で中を改めようとすると、

「サボるんじゃありません」

と見張りの40代くらいの女性教師がやって来て、その目論見は中断された。止む無く私はノートを背中に隠した。その先生は、眼鏡越しに鋭い眼光を浴びせたが、それ以上は何も言わなかった。チークを塗りたくっているのに弛んだ頰や臙脂色に色褪せた口紅が、日々の気疲れを思わせた。

「うるさいおばさんだねほんと」

その先生が立ち去るのを見送って、友人は面倒臭そうにそう言って顔を顰めた。

「しかし、また蝉が鳴いてるよ」

その後、そう言って窓越しの眼下を忌々しく見つめた。暑さの権化は蝉の鳴き声だと言いたげな口吻だった。友人が何を見ているのかと気になって窓を窺ったが、背中の曲がった用務員の白髪が見えるだけだった。

 その日の帰り、私は気になってそのノートを持って帰った。表紙をめくると、こうあった。

『日本神話改vol7』

 黒マジックで装飾的に描かれていた。タイトルから鑑みて、 SFものっぽい。しかし、vol7……。

 私はパラパラと中を改めた。字は女性的な楕円を帯びていたが、同時に几帳面さも堅持した。

 私はともかく始めから読み進めることにした。ですますの文体で書き進められ、内容は荒唐無稽だった。例えば、蝉の項などは次のようだ。


 蝉の羽は本来は、天使に授けられていたものでありました。ですから、太鼓の昔は、蝉は、まるで寄居虫(ヤドカリ)のように地面を這いつくばっていたのであります。蟻のように小さくもなく、蜚蠊(ゴキブリ)のようにすばしっこくもないわけですから、空を行き交う椋鳥や烏の格好の的となっていました。そのため、鳥類はさうなく繁栄し、大空を覆うばかりの鳥の群れがひねもす昆虫たちの頭を悩ませる悩みの種となりました。いずれ蝉が絶滅すれば、別の昆虫へと餌食の対象が変わるのは明白でした。そこで、昆虫たちは自然と暮らすのを好んだ心優しき青年のクライスに目をつけました。彼ならその窮状を理解し、天界との仲介役を引き受けてくれると、そう考えたのです。

「おお。我が友クライスよ。今、蝉たちが、鳥の餌食とされ、大変に困っている。やがては、我々にもその被害は広がるかもしれない。ああ友よ。どうか力を貸したまえ」

クライスはその言葉に心を打たれ涙を流しました。そして、

「今、君たちがそんなことになっているとは知らなかった。よし、任せておけ。私がきっと良いようにして見せよう」

と言い残しすぐさま天界へ出発しました。

 天界では、丁度そのことで評議会が行われていました。多くの天使が集まっていたため、蓼食う虫も好き好きという具合に議論は難航しました。加えて、蝉に羽を与えるべきだとか、鳥を間引くべきだとか、多くの隠れ家を提供すべきだとか、様々な意見は出ましたが、行動に移そうとする天使は誰一人見られませんでした。集まった天使たちは皆面倒臭がりだったのです。

 そんな折、クライスが到着しました。そして、天使たちのその態度に呆れ果てました。

「お前たち!そんな空論を言っていても仕方がないだろう。まず、行動で示すのが筋じゃないのか!」

そう言いましたが、天使たちは渋い顔で乗り気ではありません。クライスの怒りはそこで頂点へと達しました。なんと、その場にいた天使たちの翼を次から次へと携行した短刀で切り落とし始めたのです。一人の天使はやっとのことで逃げ延びましたが、残りの天使は皆、純白の羽を見事に切り取られ死んでしまいました。

 クライスは我に返り、酷いことをしたと思いましたが、切られた羽が独りでにまた骸となった天使の背中に接着していることに気がつきました。クライスはそこで試しに、羽と羽とを挿げ替えて元とは別の天使の背中に付けてみました。するとどうでしょう。羽は見事に接着するどころか、その人の体型に合わせた大きさにまで縮んだり、拡大したりしたのです。クライスは全く閃いて、また一様に翼を切り落とし、それらを地上へと持ち帰りました。

「クライスよ。首尾は如何だろうか」

帰りを待望にした昆虫たちが相次いでそう尋ねます。

「酷く上々だ」

そう言って、クライスは切り落とした天使の羽を地面へ投げ飛ばしました。そして、

「今すぐ生き残った蝉たちを呼び出してくれ」

と告げました。その言葉に、草陰から、もぞもぞとした動きで、羽のない蝉たちが姿を現します。

「それじゃあ、この羽を背中に付けるんだ。今は大きいが、きっと小さくなってくれる」

クライスの言葉を受けて、蝉たちはその羽を背中に押し当てます。すると、なんということでしょう。その羽はみるみる小さくなって、蝉の背中ぴったりになってしまいました。

「わあすごい。夢みたいだ」

「これで、鳥たちからも逃げられる。やったぞ」

「ありがとうございます!クライスさん!」

蝉たちは、充てがわれた羽を酔いしれるように羽ばたかせて、口々に歓喜の言葉や感謝の言葉を発しました。

 しかし、その時、クライスが取り逃がした一人の天使が徐に現れました。そして、こう言ったのです。

「貴様らの好きなようにはさせまい。まず、蝉よ。お前たちの寿命をとことん削ってやる。そして、その残りは全て土の中に醜い姿で埋めてやった。お前たちがその姿でいられるのはたったの7日だ!あははははははははははははははははははは」

天使は腹を抱えて蝉を嘲笑いました。

かくして蝉たちは、成虫としての時間が1週間程度となり、それ以外は、光の当たらない地中で過ごしているのです。また、同じように天使の羽をくっつけたはずの蝉の羽の装飾が異なるのは、天使の羽がそれぞれ接合した蝉に適応しようと変化したからです。ですから、羽化したての蝉の羽が純白であるのは、天使の羽の名残なのです。

そして、今度はクライスに居直りました。

「お前は私の仲間を皆殺した。その恨みは晴らそうと思っても決して晴れまい。だから、お前には飛び切り醜い姿をくれてやる。お前は一生、いや、何億年もこの姿で居続けるが良い。死のうと思っても死なせはしまい。ずっとこの姿だ」

そう言って、天使は指を振り、クライスの姿を、全く醜い老爺へと変えてしまいました。膝は小指のように細く、片目は爛れ、髪の毛は草臥れた白に染まり、背中はすっかり曲がっていました。蝉たちも昆虫たちも自分たちのせいで醜悪となったクライスを思って泣き叫びましたが、

「君たちがまた地上で倹しく生活できれば十分だ」

と嗄れた声で言って、皆を許しました。それで昆虫たちは泣き止みましたが、蝉たちはその恩寵や慈愛の深さにまた感動し、一層泣きました。その後、クライスは森の奥に消えて行ったとされています。

 そのため、蝉たちは、成虫になると大きな声を出して一斉に鳴くのです。あれは、求愛ではなく、まだどこかで生きているはずのクライスへその感謝の声が聞こえるように鳴いているのです。成虫として残されたわずかな時間をやっとの事で手に入れた羽を駆使して、蝶のように舞わないのもまた同じ理由です。終

 

 私は奇妙にも面白くなって読み進めてしまっていた。終いには最後のページに辿り着いた。蟹や石灰岩など自然物だけでなく、火星の成り立ちという壮大な神話まで語られていた。描かれる話に脈絡はなく、思いついた順に語られているのだろうと思われた。

 私は翌日、それを持って行って、元の場所へ戻そうと思った。

「懐かしいわね」

その様子を昨日の、あの女性教師に目撃されていた。私は居住まいを正した。しかし、今日の彼女は、やけに鷹揚だった。瞳が柔らかく、何十年も若返ったように見える。私に近づいて、例のノートをチョークのくすんだ指先で手に取った。

「これね、実は私が書いたのよ。この学校に在学中」

「え?そうなんですか」

「そう。また中途半端な巻数を隠したものね」

「続きはあるんですか?」

「さあ。もう捨ててしまったかも。だって、随分前の話だから」

「そうですか」

先生は酷く遠い目をしながら、ノートを繰った。

「これ読んだの?」

「え、ええ」

「どう思った?」

「面白かったです」

「そっか」

そこで先生は満足そうな顔を浮かべてノートを閉じた。そして、今度は何も書かれていない表紙をじっと見つめ始めた。私は狐につままれたように、その様子を眺めていた。

「こんな時代もあったんだね。気恥ずかしいというか、虚しいというか」

先生はふとそんなことを呟くと、一瞬頰を翳らせた後に、チョークの跡のない左手で無骨にも私の髪の毛を撫で回した。不躾だったが、不思議な感覚が私を包んでいた。

「このノート、あなたが持っていてくれない?それが一番な気がするから」

先生はそう言うと、ノートを押し付けるように私へ渡した。そして、童心めいた笑顔を残してさっさと姿を消してしまった。友人は何か私が怒られたのかと勘ぐったが、私は何も答えなかった。

 私は手元の古色蒼然としたノートを凝視した。よく鑑みれば、表紙に鉛筆で頗る薄く、

『日本神話改vol7』

と書かれていることに気がついた。なぜそんなに字が薄いのか。その理由はわからなかったが、先生がじっと表紙を見つめていた理由は、何と無くわかったような気がした。

 私は少し考えて、このノートをまたあの重苦しい蔵書の後ろへ戻した。私が独り占めするのはなんだか惜しかった。いつか私のように見つける人が現れれば、そんなことを願った。

「全くもう。まーた蝉が鳴いてるよ」

友人が箒片手にそうぼやく。

「そうだねえ」

私はそう嘯いて窓の景色を臨んだ。耳には蝉の鳴き声が広がり、瞳には背中を曲げた一人の白髪の老爺を見出した。


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